墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

簡単な事

2005-12-31 23:45:19 | 駄目
 「自分」なんてものはどこにもない。
 自分探しの旅に出て、めでたく自分を発見できた奴は大馬鹿者だ。
 「自分」なんか存在しない。兼行だってそう言っている。

 「自分」とは手足のついた「ラジオ」に過ぎない。常に外界からの働きかけがなければ、一歩も動けない。
 例え、無人島に流されて「一人きり」であろうと感情は常に外界からの情報に左右される。寒けりゃ辛いし、暑けりゃうざい。
 受信装置にすぎない人間に「自分」なんかあるのか。あるのは、経験と獣の持つ本能だけだ。
 ただ、やっいかいなのは、人は個性や外見を「自分」だと勘違いする。
 あのさ、個性的なラジオに「自分」ってあるのか?
 「自分」なんか「魂」並の思い込みだ。俺は断言する。世間の人が思う「自分」も「魂」もどこにも存在しない。人間は手足と口がついた「ラジオ」だ。


年末に風邪

2005-12-31 22:46:25 | 駄目
 普段は、Macのテキストエディットで作文したテキストをコピっとペッしているのだが、今夜は「ブログ人」にログインして、その投稿画面に直接タイピングしている。ナマ投稿である。どういうわけだか、Macの「Sahali」と「ブログ人」は妙に相性が良い。なんの問題もなく投稿できる。これがエクスプローラーだと、表示崩れに文字化けで手の打ちようもなくなる。

 それはともかく風邪をひいた。一昨日ぐらいから体がだるくて、熱っぽくて、なんとなくヤバいなと思っていたが、やっぱり風邪をひいてしまった。お昼ぐらいから、本格的な「風邪の症状」がドドドッと怒濤のごとくに俺の中古な肉体に襲いかかり蹂躙する。もはや、俺の貧弱なこの体は、軍靴で故郷を踏みにじられ河原で泣いている孤児の様だ。

《風邪の症状》

1、飯の味がしない。
(風邪で感覚が鈍り、何を食っても味がまろやか薄味の関西風になる。この症状は俺の風邪の特徴的症状で、この状態になると風邪をひいたなと思う。今日の昼飯を食っていて、飯の味がしないのに気がつき風邪だなと思ったとたんに、あらゆる風邪の症状が襲いかかってきた)

2、頭が朦朧とする。
(アタマがモーローとしているのは、いつものことだから気にしない)

3、なんだか熱っぽい。
(ひどく熱っぽい。熱が49度とかあったらこわいので、体温は測らない)

4、あふれる鼻水が止まらない思い。
(昼過ぎに開封したティッシュの箱はもう空。ティッシュペーパーの白い花がゴミ箱でギュウギュウしている。油断すると花開いてあふれだす)

5、せっかくの休みに風邪をひいてガッカリなかんじ。
(ほんとガッカリ)

 最近、体が弱くなったな~。体調を崩す事がいやに多い。年のせいか、年のせいだろう。
 そんなで、年の瀬もクライマッイクスな大晦日。今日は昼過ぎから布団の上で、うつらうつらしていたが、少し食欲が出てきたので、ビールでも飲みながら、のびきった年越しそばを食べて寝直す。
 この休みの予定は、部屋に引きこもって好きな事しかしない予定であったが、よく考えてみると「寝る」のが一番好きな事かもしれない。なら、大筋では予定と違わないのでガッカリする事は何も無い。


徒然草 第百七十五段<感想>

2005-12-31 15:40:58 | 徒然草
 兼行の文には首尾一貫性がないと、昔から良く人に突っ込まれていたらしい。確かにそのとうりで、平気で自分が前に書いていたことをひっくり返して、驚く程の前言撤回ぶりを発揮する。でも、ひっくり返ったちゃぶ台の裏にだって隠されたドラマがちゃんとある。
「あっ、この傷は、飛雄馬が生まれた日に、お父さんがおかずのシシャモが気に入らなくてちゃぶ台をひっくり返した時についた傷だわ!」
 などと、ちゃぶ台の裏にだって柱のキズ並にドラマがあるのだ。
 多面的な物の見方ってやつだ。一方方向からでなくて、いろんな方向から物を見る目を兼行は持っていたのだ。だが、それは、自分の生き方を固定できていないという事でもある。モラトリアムってやつだね。
 しかし、兼行が並じゃないのは、モラトリアムな生き方や見方をついには自分の芸風にまで昇華しちまったところだ。それは「自分は何者でもない」っていう芸風だ。

 この175段は、「徒然草」の最高傑作のうちの一つだと思う。
 凄まじいまでの酔っぱらいの描写に、見事なまでの前言撤回ぶり。心の底からただすごいと思う。
 この段ほど、<意訳>をしていて自分の文章力の無さを情けなく思った段は無い。

原作 兼好法師


徒然草 第百七十五段<意訳>

2005-12-31 15:39:48 | 徒然草
 この世には分からない事が多い。
 宴ともなれば、まず酒飲みは、みんなに酒を注いで回り出す。飲みたくない人にまで酒を飲む事を無理強いして喜ぶ。なんでそんな事をするのかは分からない。
 ムリヤリに酒を飲まされる人は、堪えがたげに眉をひそめ、コッソリ酒を捨てようとし、あまつさえ逃げだそうとするのを、酒飲みはとらえて引き止めて、むやみに飲ませれば、麗しい人でも、たちまち狂人となって馬鹿な振舞をはじめる。健康な人であろうとも、飲めない酒を飲めば、たちまち目の前で病人のような顔になって前後不覚に倒れ伏す。
 祝うべき日の宴であるが、酒を飲めない人にはひどい宴だったのだろう。明くる日まで頭が痛く、物も食わずにうめき臥し、まるで生まれ変わったかのように昨日の事を何も覚えていない、公私の大事な仕事にも欠席して寝込む。他人のすすめた酒によって、こんなつらい目に会わせられるのだ、優しさもなけりゃ礼儀もない。こんな目にあわされた人には、酒も酒飲みも、いまいましいはずである。
 酒のない国の人が、異国にはこんな風習があると伝え聞いたなら、なんともおかしくて不思議な話だと思うだろう。

 人ごとにして見ていても、酔っぱらいは心配。
 思慮深げな様子が素敵に見えた人でも、酒を飲めば、思慮の欠片もなくなり笑い叫ぶ。ことばは多く、烏帽子は歪み、紐を外して、すねを高くかかげて股間は丸見えのまったく用意ない有様は日頃の人とも思われない。
 おしとやかに下を向いて髪や扇子で顔を隠していた女でさえ、酒を飲めば、髪をかきやり額を晴れやかにご披露して、恥ずかしげもなく顔をさらし、大口を開けて笑い出す。男の盃を持つ手に取り付いたり、さらによからぬ人は肴を取って男の口にくわえさせ、それを逆の端から食う。お行儀がわるい。
 酔っぱらい達は、声の限りを尽くし、みな歌い舞い踊る。やがては、年老いた法師が召し出されて来て、黒く汚い上半身をさらし身をよじりながら歌い踊る。とても見られたような見せ物ではなく、こんなものを喜んで見ている人さえ疎ましく憎らしい。
 ある者は、自分がどんなにすごいかなんて、片腹いたい事を他人に言い聞かせ、ある者は酔って泣きだす。
 いつの間にか、今夜の宴に参加した人達の連れてきた従者達が、奥で酒盛りをはじめていたようだ。遠くから怒鳴りあう声が聞こえてくる。あさましく、恐ろしい。
 酔っぱらいは、恥ずかしくて心配させらえるような事ばかり起こす。最後には、他人の履物を履いて縁側から落ち、馬や車から落っこって怪我をする。車に乗らないような人は、大路をよろぼいと歩いて帰り、垣根や門の下などに向けて言いたくもないような事をし散らす。
 年老いて袈裟をかけたさっきの法師が、小童の肩をおさえながら誰に聞かせるでもなくブツブツ言いつつよろめきつつして帰る。少し哀れ。

 こんな行いをしていても、飲酒がこの世にも後の世にも利益のある事ならば何も言わない。ただ、この世には過ち多く、酒で、財産を失い、病いを儲ける。酒は百薬の長とは言っても、病いの多くは酒が原因だ。酒で、浮き世の憂さを忘れると言っても、酔った人は過ぎた憂さをも思い出して泣く。
 酒は人の知恵を奪い、善根を焼くこと火の如し。悪を増長させ、ついには全ての戒めを破り、後の世は地獄に堕ちるだろう。
 「酒を手にとって人に飲ませた者、五百生の間、手のない者に生れる」
 と、仏は説いておられる。

 酒は疎ましい物だが、あえて捨て難い時もある。
 月の夜や雪の朝、桜の木のもと、心のどかに語り合い、その傍らに盃がある。酒は月や花に趣を添える。
 つれづれなる日、思いのほか友が来て、盃を交わすのも心が慰められる。
 あまり親しくない貴人の御簾の中より、果物や酒などをそっと優雅に差し出される。とても良い。
 寒い冬、へだてのない者同士で差し向かい、狭い家の中で煎り物などつつきながら、しこたま酒を飲むのはとても愉快。
 旅の仮屋や野山で「肴になるものは何かないかな」などと言いあいながら、芝の上で酒を飲むのも愉快。
 飲めない人が無理強いされて少しだけ飲むのも、少しだけ良い。
 身分ある方のお酌で「今ひとつ。まだ飲み足りないでしょう」などと酒を勧められるのは嬉しい。
 お近づきになりたかった人が、酒好きで、飲むうちにすっかり打ち解けていくのも、また嬉しい。

 いろいろ言ったけれど、酒飲みはおかしくて罪のない連中だ。
 酔いくたびれて引き戸にもたれかかって朝寝をしてるところ、主人に戸を引き開けられて、あわてて飛び起き。寝ぼけた顔しながら、烏帽子もかぶり忘れて、着物も着れないで抱え持って、帯をひきずって逃げる。
 その裾をたくしあげた後ろ姿の毛が生えた細脛のあたりが妙におかしくて、いかにも酔っぱらいらしい様子に好感が持てる。