年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて、「この人の後には、誰にか問はん」など言はるるは、老の方人にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生、この事にて暮れにけりと、拙く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひてありなん。
大方は、知りたりとも、すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず」など言ひたるは、なほ、まことに、道の主とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。
<口語訳>
年老いた人が、一事優れた才があって、「この人の後には、誰に問おうか」など言われるのは、老いの味方で、生きるのもいたずらでない。そうだけど、それも廃れた所のないのは、一生、この事にて暮れたと、拙く見える。「今は忘れた」と言ってありなん?
大方は、知ってても、やたらに言い散らすのは、そればかりの才はないと聞え、自然と誤りもあるだろう。「さだかにもわきまえ知らず」など言ってれば、なお、まことに、道の主とも覚えるはず。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、あがくべきもない人が言い聞かせるのを、「そうでない」と思いながら聞きいるの、とてもわびしい。
<意訳>
年老いたにも、一つぐらいは優れたところが残っていて、
「あの人の死んだ後には、この事は誰に聞こう?」
などと言われるなら、老いの味方で生きているのも無駄ではない。
なんだけれども、それも明朗に答えすぎると、こいつの一生は、すべてこの事に明け暮れたんだなと思われてなめられる。
「今は忘れたが」
とでも言っておくのもありだろう。
だいたいは知っていても、やたらに言い散らすのは、それしか能がないように聞こえるし、自然と誤りもあるはずだ。
「良くは知らないが」
などと言っていれば、なんだか、まことに、道の全てを知り尽くした導師とも思われるはずだ。
老人が、知らない事をしたり顔で、反論する方法も知らない若い人に、なんだかどこか間違った事を語り聞かせているのを、「そんなはずないだろ!」とか思いながら黙って聞いているのは、なんだか辛い。
<感想>
兼行は老人ではない。少なくても「徒然草」を完成させた頃は老人ではなかった。兼行自身が自分の年齢をどう自覚していたかは知らないが、「徒然草」が完成した時で、40代後半。兼行は中年である。
兼行は老人ではない、中年だ。その事を考えるとこの段の読み方は微妙になる。
原作 兼好法師
大方は、知りたりとも、すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず」など言ひたるは、なほ、まことに、道の主とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。
<口語訳>
年老いた人が、一事優れた才があって、「この人の後には、誰に問おうか」など言われるのは、老いの味方で、生きるのもいたずらでない。そうだけど、それも廃れた所のないのは、一生、この事にて暮れたと、拙く見える。「今は忘れた」と言ってありなん?
大方は、知ってても、やたらに言い散らすのは、そればかりの才はないと聞え、自然と誤りもあるだろう。「さだかにもわきまえ知らず」など言ってれば、なお、まことに、道の主とも覚えるはず。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、あがくべきもない人が言い聞かせるのを、「そうでない」と思いながら聞きいるの、とてもわびしい。
<意訳>
年老いたにも、一つぐらいは優れたところが残っていて、
「あの人の死んだ後には、この事は誰に聞こう?」
などと言われるなら、老いの味方で生きているのも無駄ではない。
なんだけれども、それも明朗に答えすぎると、こいつの一生は、すべてこの事に明け暮れたんだなと思われてなめられる。
「今は忘れたが」
とでも言っておくのもありだろう。
だいたいは知っていても、やたらに言い散らすのは、それしか能がないように聞こえるし、自然と誤りもあるはずだ。
「良くは知らないが」
などと言っていれば、なんだか、まことに、道の全てを知り尽くした導師とも思われるはずだ。
老人が、知らない事をしたり顔で、反論する方法も知らない若い人に、なんだかどこか間違った事を語り聞かせているのを、「そんなはずないだろ!」とか思いながら黙って聞いているのは、なんだか辛い。
<感想>
兼行は老人ではない。少なくても「徒然草」を完成させた頃は老人ではなかった。兼行自身が自分の年齢をどう自覚していたかは知らないが、「徒然草」が完成した時で、40代後半。兼行は中年である。
兼行は老人ではない、中年だ。その事を考えるとこの段の読み方は微妙になる。
原作 兼好法師