墨汁日記

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徒然草 第百六十八段

2005-12-18 21:30:00 | 徒然草
年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて、「この人の後には、誰にか問はん」など言はるるは、老の方人にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生、この事にて暮れにけりと、拙く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひてありなん。
 大方は、知りたりとも、すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも辨へ知らず」など言ひたるは、なほ、まことに、道の主とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、「さもあらず」と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。

<口語訳>
年老いた人が、一事優れた才があって、「この人の後には、誰に問おうか」など言われるのは、老いの味方で、生きるのもいたずらでない。そうだけど、それも廃れた所のないのは、一生、この事にて暮れたと、拙く見える。「今は忘れた」と言ってありなん?
 大方は、知ってても、やたらに言い散らすのは、そればかりの才はないと聞え、自然と誤りもあるだろう。「さだかにもわきまえ知らず」など言ってれば、なお、まことに、道の主とも覚えるはず。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、あがくべきもない人が言い聞かせるのを、「そうでない」と思いながら聞きいるの、とてもわびしい。

<意訳>
年老いたにも、一つぐらいは優れたところが残っていて、
「あの人の死んだ後には、この事は誰に聞こう?」
 などと言われるなら、老いの味方で生きているのも無駄ではない。
 なんだけれども、それも明朗に答えすぎると、こいつの一生は、すべてこの事に明け暮れたんだなと思われてなめられる。
「今は忘れたが」
 とでも言っておくのもありだろう。
 だいたいは知っていても、やたらに言い散らすのは、それしか能がないように聞こえるし、自然と誤りもあるはずだ。
「良くは知らないが」
 などと言っていれば、なんだか、まことに、道の全てを知り尽くした導師とも思われるはずだ。
 老人が、知らない事をしたり顔で、反論する方法も知らない若い人に、なんだかどこか間違った事を語り聞かせているのを、「そんなはずないだろ!」とか思いながら黙って聞いているのは、なんだか辛い。

<感想>
 兼行は老人ではない。少なくても「徒然草」を完成させた頃は老人ではなかった。兼行自身が自分の年齢をどう自覚していたかは知らないが、「徒然草」が完成した時で、40代後半。兼行は中年である。
 兼行は老人ではない、中年だ。その事を考えるとこの段の読み方は微妙になる。

原作 兼好法師


徒然草 第百六十七段

2005-12-18 20:01:21 | 徒然草
 一道に携はる人、あらぬ道の筵に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よに悪く覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし。などか習はざりけん」と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に争ふは、角ある物の、角を傾け、牙ある物の、牙を咬み出だす類なり。
 人としては、善に伐らず、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みて、これを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。
 一道にまことに長じぬる人は、自ら、明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に、物に伐る事なし。

<口語訳>
 一道にたずさわる人、あらない道のむしろにいどんで、「あわれ、我が道ならば、こんなによそに見ませんものを」と言い、心にも思える事、常のことだけど、世に悪く覚えられる。知らぬ道が羨ましく思えば、「あぁ羨ましい。なんで習わなかった」と言ってありなん? 我が智を取り出して人に争うは、角ある物の、角を傾け、牙ある物の、牙を咬み出すたぐいだ。
 人としては、善にほこらず、物と争わないを徳とする。他に勝ることのあるのは、大きな失だ。品の高さにしても、才芸のすぐれてるにしても、先祖の誉れにしても、人に勝ると思える人は、たとえ言葉に出してこそ言わなくとも、内心に多くの罪ある。慎んで、これを忘るべき。馬鹿にも見え、人にも言い消され、わざわいをも招くは、ただ、この慢心である。
 一道にまことに長じる人は、自ら、明らかにその非を知る故に、志つねに満たされずして、ついに、物にほこる事ない。

<意訳>
 ある道にたずさわる人が、違う道の飲み会の席に参加する。
 「情けねーなぁ。これがオレの専門の道の集まりだったら、もっとこうパシッとハジけられたのに」
 とか、思ったり言ったりすることはよくあることだけれども、せっかくの席でそんな事言ってると世の覚えが悪くなる。
 自分の知らない道について羨ましく思うなら、
「あぁ羨ましい。なんでこの道を選ばなかったのだ」
 と素直に羨ましがってりゃいい。
 自分の教養をむき出しにして人と争うのは、角ある獣が角をかたむけ、牙がある獣が牙で咬むのと同じだ。人は自分の長所を誇らず、何物とも争わないことを徳とする。
 人より優れていることあるなら、それが欠点である。
 家柄、教養、武術に先祖自慢。人より自分は優れていると思った時点で、たとえ口には出さなくても、心の中にたくさんの罪が生まれる。
 自分の長所など慎んで忘れるべき。馬鹿だと思われ、人から自分の発言を正されて、いらぬ災いを招く原因は、全てこの慢心からである。
 まことに道に長じた者は、自分で明らかに自分の欠点を知っているから、いつまでも向上心が満たされることはない。だから自慢もしない。

<感想>
 ようするに自分は超一流の馬鹿だと肝に命じておけば、OKらしい。
 というか、常に満足するな、もっと上をめざせとも言っている。
 馬鹿で限度を知らないのが兼行の望む人間像のようだ。
 限度を知らない馬鹿はNGだろうか?

原作 兼好法師


徒然草 第百六十六段

2005-12-18 17:40:42 | 徒然草
 人間の、営み合へるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。

<口語訳>
 世間が、働きあっている仕事を見ると、春の日に雪仏を作って、そのために金銀・珠玉の飾りをつくり、堂を建てようとするのに似ている。その構築を待って、よく安置してるか。人の命ありと見るうちにも、下より消えること雪のごとくなるうちに、忙しく待つことはなはだ多い。

<意訳>
 人々が集まり忙しく働いている様子を見て思う。
 人間の営みの目的って、まるで春の日に作る雪仏のようだ。春のうららかな日に雪で仏像を作り、それを安置するお堂や金銀珠玉の飾りを用意する。お堂が完成した頃には雪仏は融けてなくなっているだろう。
 生きていると思っているうちにも、命は雪仏のように下から融けていく。なのに、忙しく働き、その結果を待つような人が多い。

<感想>
 兼行は、人々が集まり、なにか目的に向かって忙しく働いている様子に疑問を感じている。そもそも、そのあんたらのやろうとしている事の本来の目的じたいが、はかない春の日の雪だるまのようでないかい?
 生きているうちにも、雪だるまが溶けるように、自分が消えていなくなる時は迫っている。なのに、忙しく働き、その結果を待つのだけが楽しみのような人生はつまんなくないかと兼行は言っている。溝上さんも「つまんない」と言っていた。

原作 兼好法師


酔う

2005-12-18 09:40:17 | 駄目
 酒に酔いつつ可愛そうな自分に酔う。あーイケてんな俺。自分を異邦人だってさ、笑うよな。俺は日本人だ、健康保険書も戸籍もあるぜ。
 てゆーか、あれだよ。あれあれ。


徒然草 第百六十五段

2005-12-18 09:30:10 | 徒然草
 吾妻の人の、都の人に交り、都の人の、吾妻に行きて身を立て、また、本寺・本山を離れぬる、顕密の僧、すべて、我が俗にあらずして人に交れる、見ぐるし。

<口語訳>
 東の人が、京の人に交わり、京の人が、東に行って身を立て、また、本寺・本山を離れた、顕密の僧、すべて、我が俗になくて人に交わる、見ぐるしい。

<意訳>
 鎌倉の武士が京の人と交わり、京の貴族が鎌倉で身を立てる。
 また、世話になった寺をはなれた普通の寺の僧が密教の寺で修行し、密教の寺の僧は普通の寺で世話になる。
 全て、本来に居るべき場所に所属していない人間は、どこか見苦しい。

<感想>
 自分の感情や、あるべき自分を常に押し殺している人間は、傍目から見てもみっともないよという話だ。
 所属すべき場所を、河川敷や自分の部屋以外には発見できない異邦人な俺には痛い話だ。

原作 兼好法師