世に従はん人は、先ず、機嫌を知るべし。序悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。さようの折節を心得べきなり。但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序悪しとて止む事なし。生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るるが如し。暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先ず落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に。持ちとる序甚だ速し。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
<口語訳>
世に従う人は、まず、時の機嫌を知るべき。順序わるい事は、人の耳にも逆い、心にも違って、その事成らない。そんな時期を心得るべきだ。ただし、病いを受け、子生み、死ぬ事のみ、時の機嫌をはかれない、順序わるいとて止む事ない。生まれ・住み・変わり・滅びるの移り変り、まことの大事は、猛る河のみなぎり流れるがごとし。しばしも滞らない、ただちにおこないゆくものだ。ならば、仏と俗について、必ずなし遂げんと思う事は、時の機嫌を言うべきでない。とかくの用意なく、足を踏み止めるな。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋が来るのでない。春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋は通い、秋はすなわち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾む。木の葉の落ちるも、まず落ちて芽ぐむのでない、下よりきざしてるのに堪えられずに落ちるのだ。迎える気、下に設ける故に。持ってる順序はなはだ速い。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎる。四季は、なを、定まれる順序ある。死期は順序を待たない。死は、前より必ずしも来ない。かねて後にせまる。人皆死ある事を知って、待つことしかも急でないのに、覚えないうち来る。沖の干潟はるかだけれども、磯より潮の満つるがごとし。
<意訳>
世間に従うなら、まず、時の機嫌を知るべきだろう。
順序わるい事は、人の耳にも、心にも逆らい、その事は成しとげられないだろう。
時期を心えるべきだ。
ただし、病いや出産、死ぬ事などは、時の機嫌ではかれない。
順序が悪いからと止まる事もない。
人が生まれ、住み、成長し、滅びる。
移り変り。
こんな事は、河がみなぎり流れるのと同じで少しも滞らない、ただちに流れ去る。ならば、なんにしろ、必ずなし遂げようと思う事なら時の機嫌は関係ない。用意なんていらない、足を踏み止めるな。
春が終わって夏になり、夏終り秋が来るのでない。
春はすでに夏の気配をたくわえ、夏はすでに秋にへと通じている。
秋はすぐに寒くなって、初冬の小春日和の日。すでに草は青くなり、梅のつぼみも芽をつける。
枯れ葉は落ちる、だが、葉が落ちてから芽をつけるのではない、中よりきざしかけてる新芽に堪えきれずに葉は落ちるのだ。
むかえる新芽を、中に蓄えているが故に枯れ葉はたちまちに散る。
生まれ、老い、病いをうけ、死ぬこと、これに似ている。
四季には、それでも定まった順序あるようにみえるが死期は順序を待たない。
死は必ずしも前より来ない。いつでも後にいる。
人は皆、死ぬ事を知ってはいるけれども、急には来ないので安心しているうちに死はいつの間にか後ろに居る。
沖の干潟は遥か彼方だけれども、潮は磯より満つる。
<感想>
ブログには検閲がないので、簡単になんでも書ける。
昨日はかたわと書いたが、現在では、かたわと呼ばれるよりも身体障害者と呼ばれる方がこたえるはずだ。
しかし、誰であろうと多かれ少なかれ、体は歪み、あるいは身体に異常があるハズだ。それは障害ではないのか? ハゲも、近眼も、早漏も、貧乳も、出っ歯にデブなどの個人的な身体的特徴は、障害ではないのだろうか?
他人から障害者呼ばわりされる人は、滅多ない目立つ障害をかかえているだけで、健常と言われる人となにが違うのだろう。
障害者という枠でくくるから、差別が生まれる。
俺だってあんただって、体になんらかの障害を背負っているはずだ。単に目立たないだけで誰だって障害を持つはずなのに、重度な障害を持つ人間だけを、身体障害者の枠でくくる。他人からの決め付けは誰だってムカつくはずだ。
言おう、障害者など程度の差だ。
誰だって障害者だ。俺も数々の軽度の障害を抱えて生きている。
障害は身体的な個性である。くくるからおかしなことになる。
原作 兼好法師