墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

なるほど

2005-08-24 20:26:09 | 日常
 俺は、一時期。
 表現なんぞ結局、表現者のオナニーにしかすぎないと、したり顔でマジにそう思っていた時期もあるのだけれど、それはどうやら違っていたらしい。表現とは、「他人を信じる心」であったのだ。きっとわかってもらえるはずという祈るような気持ちこそが「表現」なのではなかろうか。
 このブログをはじめた当初は、作文にも不慣れだし、多少は誤解されても仕方ないだろうというスタンスではじめた。そしてそのスタンスは、現在でも多少はそうなのだが、俺は夢破れた漫画の雪辱をブログで果たせないだろうかと考えていたのである。
 漫画が駄目だから、ブログでスターになれやしないかと本気で考えていたのだ。
 だが、ブログを続けて行く中で、とことん痛恨したのは、はたして俺はわかってもらえているのだろうかという事だ。
 いい気になってセンズリ気分で文字をおどらせ、白濁したジルを放出する。これでいいのだろうかと当然に考える。
 そして、当たり前だけど、とりあえず意味だけはわかる文章を書こうという当然の答えにつきあたり、その角を曲がって、たどりついた先が、「祈り」なのである。
 グラスの底に顔があったっていい。
 でも、そのグラスの底の顔は、岡本太郎のキャラを理解できて、はじめてあってもいいものなのだ。岡本太郎を知らないガキがそのグラスで麦茶を飲んでも、単なる変なガラスのコップだ。
 「俺はきっと理解されてますよね」という祈りにも似た気持ちが、表現なのかもしれない。
 そう思った時、俺には欲が出た。あきらめて捨てたはずのものに再び挑戦してみたいと思いはじめている。 


徒然草 第二十九段

2005-08-24 19:28:23 | 徒然草
 静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。
 人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手慣れし具足なども、心もなくて、変らず、久しき、いとかなし。

<口語訳>
静かに思えば、万に、過ぎた時の恋しさのみがどうしようもない。
人静まって後、長い夜のなぐさめに、なんであるでもない具足(道具)を片付けて、残し置くまいと思う反古(書き損じの手紙など)などを破り棄てる中に、亡き人の手習い(心のままに、思いつくまま書いた歌や文章)、絵をかき散らした、見い出したのこそ、ただ、その折(時)の心地がする。このごろいる人(今でも生きている人)の文(手紙)でも、久しく(長い時が)たって、いかなる折(頃)、いつの年なのだと思うのは、あはれであるぞ。手馴れた具足なども、心もなくて、変らず、久しき、とてもかなしい。

<意訳>
 静かに思えば、過ぎ去った過去のみが懐かしい。
 人が寝静まったあと、身のまわりの道具を取り出し、書き損じの手紙などを整理する。長い夜の暇つぶしだ。
 古い手紙の中に、亡き人の落書きや、詩の習作などを見つけた。その当時を、ただ、思い出してしまう。
 まだ生きている人からの手紙でも、古いものは懐かしい。いつ、どんな時に、もらったものであったのかと考えているうちにさびしくなる。
 心もなく、当時のままの姿をのこす道具や手紙は、とても悲しい。

<感想>
 今日も兼好はちょっぴりブルー。
 「亡き人」がキーワードだな。落書きや、思いつきの文章をやりとりしていたほど親しい人を亡くしたらしい。それが、最近の兼好のブルーの原因らしいのだ。
 「亡き人」が誰なのかは、まだわからない。わかりたきゃ、本屋で「徒然草」の注訳本を買うか、このブログを毎日チャエキラするしかない。
 まー、みんなはそこまで兼好にゃ興味ないか。







原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫