墨汁日記

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徒然草 第十段(1)

2005-08-05 21:09:36 | 徒然草
 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿とは思へど、興あるものなれ。
 よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きららかならねど、木立もの古りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
 多くの工の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。

<口語訳>
 家居(住居、人の居る家)が(住む人に)似合いだ、あぁそれこそ望ましい、仮の宿とは思うけど、興味がある。
 いい人が、のどかに暮らす所は、さし照らす月の色もひときわしみじみと見えるものだ。今めかして、きららかではないけど、木立がなんとなく古くて、わざとらしくない庭の草も心ある様に、簀子・透垣(濡れ縁・板塀)の配置ぐあいは絶妙で、なんとなく置いてある調度(家具や庭のおきもの)も時代を感じさせ落ち着いていて、心にくい。
 多くの匠が、心を尽くして磨き立て、唐や、大和の、珍しい、得難い調度を並べ置いて、植木をこころのままに植え付けるのは、見苦しく、とてもさびしい。さてもはやどこまで生きながらえて住めるのだろう。また、瞬く間に煙になるかもしれないのに、ちょっと見ればわかる。だいたいは、家居にこそ、事様があらわれる。

<感想>
 この第十段はやられまくった。意味はなんとなくわかっても、どう現代語にしたらいいのかが、ぜんぜんわかんない。まず、出だしの 「家居のつきづきしく」 がわかんなかった。辞書を引くと 「家居」 は 「住居、住まい、家に住む事」 とある。「つきづきしく」 は 「似合う」 という意味の形容詞。単純に考えると 「家居のつきづきしく」 は 「住宅の似合う」 という意味になる。それじゃ意味がわからん。
 だが、黒ラベルを二本飲んで気がついた。「家居」 は熟語なのでなく、漢語なのかもしれない。ようするに 「家居」 はこの時代の外来語なんである。外来語と言えば英語だ。「家居」 を英語にしてみよう、「マイホーム」。 
「マイホームがお似合いって、良くない?仮の宿とは思っても興味あるよね」 というたぐいの少し浮かれた調子の文章だったのだ。これで、やっと意訳できる。意訳してみよう。

<意訳>
 家居が似合う、かっこいいよな、家なんか所詮は仮の宿だけどさ、興味はあるんだ。
 貴族がのどかに暮らす町は、月明かりすら、ひたすらしみじみしてるんだよね。
 けっして、はやりの最先端じゃないんだけどさ、木々がうっそうと茂ってて、草なんて勝手に生えてるだけなんだけど、なんか全てが生き生きとしてるんだよね。縁側から塀にいたるまで、なんとなく庭に置いてあるタライにまで時代が感じられて、落ち着いてて、いーよね。
 それに比べて、庭がわざとらしいうちはイヤミだ。
 中国や各地の珍しい石とか並べて、枝振りのいい松とか植え付けてさ、本人はいいと思ってても、見苦しい。いつまでも住めるはずもない仮の宿だってことがわかってないね。それに家なんてさ、火事でもおこれば一瞬で燃え尽きるものだよ。だいたい、庭の様子でそこのうちの主人の品格がはかれるよな。