墨汁日記

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徒然草 第十九段 意訳

2005-08-14 20:51:51 | 徒然草
 季節の移り変わり、それこそがあはれである。

 「秋こそあはれだ」と人は言う、それはそうだとして、秋だけがあはれなのだろうか。  
 春の景色に心は浮き立つ。鳥の声は春めき、のどかな日の光に垣根の草も芽吹き、春は深まる。かすみがかかり、桜の花もようやく色めき出すころには、たいてい雨風が続き、花は心あわただしく散りすぎるだけ。桜は青葉になるまで人の心を悩ませる。
 花橘の美しさは名前に劣らぬもので匂いも甘い、だが、梅の匂いにこそ昔を思い出す。振り返れば恋しい。
 山吹の清らかさ、藤のおぼつかなげな様子、すべて、捨てがたき思いばかり。

 「花祭りや葵祭のころ。こずえに涼しげに茂る若葉にこそあはれも、恋しさもある」と言う人がいた。まことにそのとおりだ。
 五月の節句、田植えの時期。水鶏の叩くような鳴き声に悲しみをおぼえる。
 六月、貧しき家の夕顔が白く映え、蚊遣り火がくすぶる。六月の禊の儀式もまたあはれでをかし。

 七夕の祭はあでやかで美しい。昼間はまだ暑いが、夜にはやや涼しくなる頃には、雁が鳴いて渡って来る。萩の下葉は色づきはじめ、早田で刈り入れがはじまると、書き尽くせぬばかりの美しい風景がひろがる。それが秋だ。
 台風が行き過ぎた朝ですら、秋はきらめきをはなつ。
 なんて事は、すでに源氏物語や枕草子に書き尽くされたこと。

 しかし、いまさら書いたからといって悪い事もなかろう。
 思った事を言わなきゃ腹ふくれる。
 どうせ、筆まかせのなぐさみだ。破り捨て、人に見せなきゃそれでいい。

 さて。冬枯れの景色こそ秋にも劣らない。
 散る紅葉は水辺の草にとまり、霜おりる朝。庭の小川より湯気たちこめると年の瀬である。ひとはみな急ぎ、忙しさを理由に空を見上げる者もいない。見るもののない月は寒く澄み切る。
 師走の二十日をすぎた空。空とは関係のない所で人の行事は続く。
 さて、とうとう晦日の夜。
 人々は、暗闇の中たいまつともしてかけめぐる。人の家の門をたたき、大声あげ、足を空に惑わし頭は地を探す。明け方になれば、さすがに喧噪はおさまるものの、去年の名残をさがし心ぼそくもなる。
 最近は都ではやらない、年末の霊祭の儀式を東方で見た時にはあはれをおぼえた。

 こうして明けゆく空。昨日と変わる景色はないが、新年の新しさに心は圧倒される。
 大路には松飾り。はなやかでほこらしげ。それがまたあはれではなかろうか。


徒然草 第十九段 口語訳

2005-08-14 20:50:12 | 徒然草
 折節の移り変わりこそ、すべてにあはれである。

 「もののあはれは秋こそまさる」と人々は言うけれど、それはそういうものとして、いま一層に心も浮き立つものは、春のけしきにこそあろう。鳥の声などもことのほかに春めいて、のどかな日の光に、垣根の草も萌え出るころより、やや春はふかまり、かすみもかかって、桜の花もやうやうと色めきだしはじめれば、折しも、雨風が続き、心あわただしく散りすぎる。青葉になりゆくまで、万事、ただ、花の事にのみ心を悩ます。花橘は名にこそ負けてはいないが、だが、なお梅の匂いにこそ思い出される、昔の事を、振り返れば恋しく。山吹の清らかさ、藤のおぼつかなげな様子、すべて、捨てがたき思いばかり。

 「灌仏会や、祭の頃の若葉、こずえに涼しげに茂りゆく様にこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされる」と人が仰るのは、まことにそのとおりである。五月、菖蒲さす頃、早苗とる頃の、水鶏の叩きに、心ぼそくなりはしないか。六月の頃、貧しき家に夕顔が白く見え、蚊遣り火がくすぶるのも、あはれである。六月禊、またをかし。

 七夕祭はなまめかしい。やうやう夜寒になり、雁が鳴いて来る頃には、萩の下葉は色づくほどで、早稲田の稲刈り干すなど、とり集め語りたい事は、秋にこそ多い。また、野分けの明朝こそ、をかし。言い続ければ、みな源氏物語・枕草子などで使い古されてるが、同じ事を、いまさらまた言えないという事もなかろう。思った事を言わないのは腹がふくれる事ならば、筆にまかせつつの、味気ない遊びなので、すぐに破り捨てるべきものであり、人が見るべきものではない。

 さて、冬枯れの景色こそ、秋に少しも劣らない。水辺の草に紅葉は散りとまり、霜がとても白くおりている朝、庭の小川より湯気立つのがをかし。年も暮れ果てて、人々急ぎあう頃は、またなんとなくあはれになる。すさまじいことと決め込んで見る人もない月は寒く澄む、廿日あたりの空こそ、心細いものはない。御仏名、荷前の使立つなどぞ、あはれで尊い。公の行事は多く、新春の用意ととり重なり催し行われるさまは、いみじい。追儺から四方拝に続くあたりが面白い。晦日の夜、たいそう暗いのに、たいまつともして、夜半過ぎるまで、人の家の、門叩き、走りあかして、何事だろうか、ことごとしくののしりて、足を空に惑わす、明け方より、さすがに音はなくなるが、年のなごりも心ぼそくなる。亡き人の訪れる夜として魂祭る行事は、このごろの都ではみないが、東の方では、まだおこなっている所もあるのは、あはれではなかろうか。

 かくて明けゆく空のけしき、昨日に変ると見えないが、ひきかわりめづらしき心地がする。大路のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげ、またあはれ。


徒然草 第十九段

2005-08-14 20:48:31 | 徒然草
折節の移り変わるこそ、ものごとにあはれなれ。

 「もののあはれは秋こそまされ」と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根の草萌え出づるころより、やや春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも、雨・風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思い出でらるる。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。

 「灌仏の比、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ」と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、菖蒲ふく比、早苗とる比、水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは。六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるも、あはれなり。六月祓、またをかし。

 七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず。

 さて、冬枯のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉の散り止まりて、霜いと白うおける朝、遣水より烟の立つこそをかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日余りの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名、荷前の使立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事ども繁く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺より四方拝に続くこそ面白けれ。晦日の夜、いたう闇きに、松どもともして、夜半過ぐるまで、人の、門叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくののしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて魂祭るわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。

 かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとはみえねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなり。


残暑見舞い

2005-08-14 07:55:15 | 日記
 朝五時半に起きてみたら、以外にも朝の五時半だった。
 
 なんか、わけわからん出だしだな。素直にはじめるか。

 今朝は五時半に起きた。ガジュマルに水をやり、矢川緑地に散歩にでかける。
 今日はよく晴れた。文句のつけようもない青空、雲ひとつない。湿度もさほどなく、涼しい風が吹く。日の光をふりそそぐ太陽から、真昼の暑さが想像できるが、朝はさわやかで気持ちがいい。
 矢川緑地に行くと、ツツクツクホウシにまじって秋の虫が鳴いていた。リーンリーンとかチチチチとか鳴いている。
 俺には、どの声がどの虫だなどと名前を当てることはできないが、きっと、鈴虫とかコオロギとかくつわ虫とかが鳴いてるのだ。羽を震わせ元気良く。
 秋のけはいってやつだね。そう、暑い暑い言ってるうちに、すぐそこまで秋のけはいがやってきたのだ。そう、あなたの後ろにも、もうすでに秋のけはいは忍び寄ってる。恐るべし秋のけはいだね。

 そんなで。

 全世界、推定3人の「日記」読者の皆様。

 残暑お見舞い申し上げます。
 まだまだ暑さは続きます折り、お体などこわさぬ様にお気をつけて。
 いろいろと、お祈り申し上げます。
 それでは、残暑がきびしいざんしょ。