墨汁日記

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兼好法師ってどんな人

2005-08-07 22:50:37 | 徒然草
 知識と教養はある。記憶力は抜群。だが、文章はややひとりよがり。友達になっても「あなたって、その程度の人だったんですね」と思ったら何も言わずに去って行くタイプ。

 どれだけ、兼好法師が頭いいか。まず、まともな辞書など存在しない時代なんである。もちろん一発変換のワープロすら存在しない。例えば分からない漢字があっても、調べる方法は人に聞くか、確かこの本にこの漢字が使われていたはずだよなと記憶をたよりに探してみるしかない。そんな時代にすらすらとこれだけの文章を書けるのは並大抵な知識ではない。一度見た漢字や、文章は二度と忘れないというような人間でなければ無理なのである。
 でも、やや潔癖でひとりよがりだな。
 例えば、女に対する見方にもそれがあらわれている。女は存在そのものが人心を惑わす存在であるとしてゆずる様子はない。女に欲情を覚える自分への反省はみられない。仏教的な被害者意識でしか女を見れていない。女は男を惑わします。それで終わりだ。では、欲情を抱いたお前のチンコはお前じゃないのかと聞きたくなる。ようするに自分は女の発する色香に惑わされちゃっただけで、悪いのは色っぽい女だ。という見方しかできない。そんなのは痴漢の言い訳だ。「あまりに色っぽいんで、つい触れちゃいました」と言ってんのと変わりない。被害者のつもりなのだ。この国では何故だか昔っから、みんな自分が被害者であると感じているという事実に気がついていない。それはともかく女については仏陀よりキリストの方がうまい事を言っている。「女を視姦するのは現実に強姦するのと同じ事である」
 でも、兼好法師の文章にはどれも何故だか、どこかに救いがあるのだ。なんだかわからない兼好法師自身の発する個性のきらめきがある。だからこそ、古典として読み継がれてきたのだろう。
 しかし、まさか兼好法師にしてみりゃ想像もつかないほど若い人に意見されるだなんて思いもしなかっただろうな。


徒然草の解説を読む

2005-08-07 21:48:42 | 徒然草
 「徒然草」のテキストをほじくりかえして吉澤貞人・安良岡康作による解説を読む。それらによれば「徒然草」は一気に書きあげられたものではなく、途中十年以上の休筆をはさみ何年かにわたって執筆されたものであると推測されている。そう言われる理由は、徒然草の文体や思想に序段から第三十二段までと、それ以降でかなりの違いが見られるかららしい。
 そこで、序段から第三十二段までを仮の第一部として「徒然草」の成立をながめると、第一部の完成は1319年、兼好法師が37才の頃。それ以降の残りの文章はそれから11年後の1330年から1331年にかけて執筆された。そして1366年から数年にわたり加筆修正がほどこされて一応の完成を見る。
 さて、ここで橋本治の意見を付け加えてみよう。橋本治は「徒然草」のごく初期の作品は兼好法師が出家する以前のものではないかと直感している。橋本治は学者でなく、作家だ。彼の意見はあくまで作家の勘である。
 だが、俺も「徒然草」を第十一段まで読み解いて、同じ感想をいだいた。

 十段以降はともかく、九段以前の徒然草の文章には、なにかをふっきろうという意志が感じられる。もしかして九段までは兼好法師でなく、出家以前の若い卜部兼好が書いたのではなかろうか。現世への欲望をふりきり出家するために自分を納得させる為に書いていたのではなかろうかと思われる著述が多い。 
 
参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫


ベタベタのキーボード

2005-08-07 15:01:04 | 駄目
 俺のキーボードは常にベタベタだ。なぜなら毎晩、酒を飲みながらタッチタイピングだからだ。ビールのビール汁と、つまみのつまみ汁と、俺の手汁で、俺のキーボードは常にベタベタなのだ。俺以外の他人がキーボードに触るのには清水級の決意が必要となる。ビールでなくて愛液でベタベタならうらやましい事ではあるのだがな。って、うらやましいか?
 でも、そんな俺も週に一回は台拭きでキーボードをふく。Macも罪だよ、純白のキーボードなんか発売して。約半年で、手あかにまみれ、純白は赤みがかった灰色と化す。
 日曜はキーボードを拭く日と決めている。まず、モニターとキーボードを乗せている折りたたみの四角いちゃぶ台を拭く。次にそのとなりに設置した、マウスパッドでもあり、食卓でもあるちゃぶ台を拭き、最後にキーボードを拭く。ゴシゴシ拭くとベタベタがなくなり爽快となる。
 ところで、今は昼の三時前なんであるが、実は誘惑に負けてさっきからもう飲みはじめている。キーボードにビール汁と汗をしたたり落としながら、タイピングしている。綺麗にしたものを汚す。これこそ醍醐味というやつではなかろうか。


徒然草 第十一段

2005-08-07 14:18:13 | 徒然草
 神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
 かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。

<口語訳>
 神無月の頃、栗栖野という所を通り過ぎてある山里にたずね入る事がありましたが、遥かな苔の細道を踏み分け、ひっそりと住みなしている庵があった。木の葉に埋もれる懸け樋の雫の他には、少しも音をたてるものはなし。閼伽棚に菊や紅葉などが折り散らしてある、さすがに住む人があるからなのだろう。
 これでもいられるんだなと、あはれと見ているうちに、むこうの庭におおきな蜜柑の木が、枝もたわむほどになっているが、周りをきびしく囲っており、少し興ざめして、この木がないほうがましかもと思えた。

<意訳>
 神無月の頃、とある山里を訪れた。その途中で栗栖野というところを通りかかると、長い苔の細道が踏み分けられ、その奥にひっそりとした佇まいの庵があるのを見つけた。木の葉に埋もれる懸け樋の雫の音以外には何の音もしない。仏に供物をささげる閼伽棚には菊や紅葉が切り取られ供えられている、だれか住む人のある様子だ。
 このような暮らしも、なかなか悪くない。もののあはれを感じられると見ていたら、むこうの庭に、枝もたわわに実る蜜柑の木があり、その周りに蜜柑を盗られまいとして柵をめぐらしていた。こんな人里離れたところの蜜柑なんか誰が盗るというのだ。こんな木はない方がましだなと思った。
  
<感想>
 この第十一段は、前の十段と関連した話しであるようだ。この段だけで独立した話しではなく、住まいは住む人の品格を現すという昨日の話しの続きのようである。
 しかし、十一段を読み解いていて、あまりのわけの分からない文章ぶりにあきれてしまった。語順がぐちゃぐちゃで文章のつながりがものすごく変なのだ。詩なら湧き出るイメージそのままに、湧き出た順番で書き連ねんのもありだけど。これは随筆だろ、もう少し他人が読んで分かるように書けよ。
 しかし兼好法師も、この俺にだけはこんな事を言われたくなかっただろうね。
「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり」
 これが十一段の出だしだ。なんとなく、意味はわかる。しかし、ちゃんと分かろうとすればするほど良くわからなくなる。
「10月頃、栗栖野を通り山里をたずね、遥かなる苔の細道を踏み分け、ひっそりと誰かが住んでる庵がある」
 結局、この庵はどこにあるのか? 山里なのか? それとも栗栖野か?
 苔の細道を踏み分けたのは誰か? 兼好法師か? それとも庵の主か?
 その後もまずい。「さすがに、住む人のあればなるべし」ってなんだよ。さっき「住みなしたる庵あり」って書いたばかりだろ。すでに、人が住んでいる庵があると書いているんだから、人が住んでいる事にふたたび感動し直すなよ。わけわからん。
「かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ」
 これも意味はなんとなくわかるが、語順がパラレルで頭がジャングルな文章だ。
「むこうの庭に、大きなミカンの木の、枝もたわわになっているが、まわりをきびしく囲っており」
 きびしく囲っているのはどこなんだよ? 庭なのか? ミカンの木のまわりなのか?
 大きなミカンの木が先にきて、その後に枝がたわわになっていると続く順番も、なにやら下手な翻訳の文章を読まされているようで、脳みそがかゆくなってくる。
 この第十一段、名文として教科書なんかにも紹介されているらしいが、どうなのと思ってしまう。しかし、なんとなく意味だけは通じたんだから、もしかしたらこれで良いものなのかもしれない。



原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫


朝の散歩

2005-08-07 10:36:07 | 日記
 植木に水をやり、六時半すぎに朝の散歩に出る。
 外に出ると、おもては晴れている。多少蒸すが風が少しだけ吹いており、今朝はすこし涼しいかなと思う。
 歩きはじめると、どこかの家から「もう起きちゃいかが」と、目覚ましが鳴り響いている。さらに歩くと、汗をかいてきた。すこし涼しいかなと感じたのは、一時の気の迷いであったらしい。やはり、今日も朝から暑い。昼間はおもてに出ないようにしよう。
 矢川緑地に行くと、もう植物がとんでもないほどに成長しまくってた。木々や雑草に圧倒される。真夏の植物をみると、お前らちょっとやりすぎなんじゃないのと思えるほど成長しまくる。日本中から人が一人もいなくなったら、たちまちこの国は植物に覆いつくされることだろう。あまりここに長居しすぎると蚊にくわれまくって、かゆくてしかたがなくなるので、足早に退散する。
 ローソンで、アイスレモンティーとハイライトを買って帰路につく。しかし、ちょっと歩いただけで汗だくだ。朝風呂にでも入ろう。