俺は、一時期。
表現なんぞ結局、表現者のオナニーにしかすぎないと、したり顔でマジにそう思っていた時期もあるのだけれど、それはどうやら違っていたらしい。表現とは、「他人を信じる心」であったのだ。きっとわかってもらえるはずという祈るような気持ちこそが「表現」なのではなかろうか。
このブログをはじめた当初は、作文にも不慣れだし、多少は誤解されても仕方ないだろうというスタンスではじめた。そしてそのスタンスは、現在でも多少はそうなのだが、俺は夢破れた漫画の雪辱をブログで果たせないだろうかと考えていたのである。
漫画が駄目だから、ブログでスターになれやしないかと本気で考えていたのだ。
だが、ブログを続けて行く中で、とことん痛恨したのは、はたして俺はわかってもらえているのだろうかという事だ。
いい気になってセンズリ気分で文字をおどらせ、白濁したジルを放出する。これでいいのだろうかと当然に考える。
そして、当たり前だけど、とりあえず意味だけはわかる文章を書こうという当然の答えにつきあたり、その角を曲がって、たどりついた先が、「祈り」なのである。
グラスの底に顔があったっていい。
でも、そのグラスの底の顔は、岡本太郎のキャラを理解できて、はじめてあってもいいものなのだ。岡本太郎を知らないガキがそのグラスで麦茶を飲んでも、単なる変なガラスのコップだ。
「俺はきっと理解されてますよね」という祈りにも似た気持ちが、表現なのかもしれない。
そう思った時、俺には欲が出た。あきらめて捨てたはずのものに再び挑戦してみたいと思いはじめている。
表現なんぞ結局、表現者のオナニーにしかすぎないと、したり顔でマジにそう思っていた時期もあるのだけれど、それはどうやら違っていたらしい。表現とは、「他人を信じる心」であったのだ。きっとわかってもらえるはずという祈るような気持ちこそが「表現」なのではなかろうか。
このブログをはじめた当初は、作文にも不慣れだし、多少は誤解されても仕方ないだろうというスタンスではじめた。そしてそのスタンスは、現在でも多少はそうなのだが、俺は夢破れた漫画の雪辱をブログで果たせないだろうかと考えていたのである。
漫画が駄目だから、ブログでスターになれやしないかと本気で考えていたのだ。
だが、ブログを続けて行く中で、とことん痛恨したのは、はたして俺はわかってもらえているのだろうかという事だ。
いい気になってセンズリ気分で文字をおどらせ、白濁したジルを放出する。これでいいのだろうかと当然に考える。
そして、当たり前だけど、とりあえず意味だけはわかる文章を書こうという当然の答えにつきあたり、その角を曲がって、たどりついた先が、「祈り」なのである。
グラスの底に顔があったっていい。
でも、そのグラスの底の顔は、岡本太郎のキャラを理解できて、はじめてあってもいいものなのだ。岡本太郎を知らないガキがそのグラスで麦茶を飲んでも、単なる変なガラスのコップだ。
「俺はきっと理解されてますよね」という祈りにも似た気持ちが、表現なのかもしれない。
そう思った時、俺には欲が出た。あきらめて捨てたはずのものに再び挑戦してみたいと思いはじめている。
ウソなんですよ、ウソ。漫画はすっかりあきらめました。俺が望むのは、可愛い妻と子供だけです。35にもなって今更のさらなのです。