墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

こっそり

2005-08-12 20:34:26 | 駄目
 実はいい気なようで内心不安。
 自分の書いてる「徒然草」の解釈があっているのか、そして的を得たものなのかどうかが不安になる。意見や先達の教えのある人、ぜひ教えを乞いたい。
 メール送信欄を増設いたしましたので、意見ある方で公にさらされるコメントは嫌と言う方はぜひメール下さい。
 
 なんて事をしおらげに書きながらも、メアド公開の真の目当ては女の子からの友達になって下さいのメールです。あざといんですから、もう。


徒然草 第十七段

2005-08-12 20:04:15 | 徒然草
 山寺にかきこもりて、仏に仕うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

<口語訳>
 山寺にかきこもって、仏に御仕え申し上げる事こそ、つれづれもなく、心のにごりも清まる心地がする。

<解説>

 『山寺にかきこもりて』 
 「かき」は現代でも残る「かき消す」「かき集める」の「かき」。動詞の頭につく接頭語である。

 『つれづれもなく』 
 有名な「つれづれなるままに」の「つれづれ」。ヒマだとか、所在ないとかの意味。正しい現代語に訳すのは無理。

<意訳>
 山寺にこもって修行するのもいいかも、つれづれも消えてなくなり、心の迷いもなくなるような気がする。

<感想>
 この段も出家以前の卜部兼好が書いた文章ではなかろうか。普通に読むと兼好の経験を語っているようにも読めるが、旅に行きたいと書いていた第十五段と同じく、こうなりたいという希望を書いた文章だと思う。
 要するに兼好は旅に出たい、山寺にこもりたいと言っている。どうやら、実家や京都を離れて一人になりたいらしい。



原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫


徒然草 第十六段

2005-08-12 11:52:28 | 徒然草
 神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。
 おほかた、ものの音には、笛・篳篥。常に聞きたきは、琵琶・和琴。

<口語訳>
 第十六段は、ずいぶんと短い文章だ。今日は一字一句正確に訳してみよう。

 『神楽』は神社で神を祭っておどる舞だよね。天の岩戸のうずめのみことが元祖だと言われている。

 『こそ』は、この場合は現代語の「こそ」と同じ意味として読んでも大丈夫らしい。

 『なまめかしく』は、動詞の「なまめく」が形容詞化したもの。「なま」は漢字で「生」あるいは「艶」。「なま」とは「ういういしく」あるいは「若若しい」状態であるということだ。本来は「若いって素晴らしい」という意味の誉め言葉だったのだが、流通していくに従い、「優雅」とか「上品」などといった、いろんな概念を含む総合的な褒め言葉に成長した。この段の場合には「優雅」とでも解釈しておけば良さそうだ。

 『おもしろ』は興味深い、興味がわく、などといった感情につけられた言葉で「おもしろ」は語幹となる。現代語で「面白い」と訳しても、原文と違う意味にとられる危険さえなければ問題はないと思う。

 『けれ』は「けり」の已然形。「けり」は回想の助動詞。「むかしこんな事があった」「こんな話しを聞いた事がある」「こんな物を発見しました」などといった内容を他人に伝えたい時に、昔の人は言葉の最後に「けり」をつけたのだ。いま現在この場所におじいさんがいる、これは古文では「翁あり」となる。今はいないけど、むかしおじいさんがいましたという事を伝えたいなら「けり」をつけて「翁ありけり」となる。あえて、「けり」を現代語で言うなら「むかしむかし、おじいさんがいました」の「ました」が「けり」にあたるのだろうか。「けり」は「ました」より、もっと広い意味で使われていた言葉なので、そういうことなのかと思い込まれると困る。

 『おほかた』は、現代語の「大方(おおかた)」と訳しても、問題なさそうな気がする。

 『ものの音』の「もの」は形式名詞。まぁ、あれこれ考えずに、これは素直に古語辞典に従い「ものの音」は「音楽」のことであると理解しておこう。

 『には』は、現代でも使われている「には」と同じ意味。と言ってもこの場合「俺には、なにもないのだ!」の「には」とは少し違う。「俺には、負け犬がお似合いさ」の「には」なのであろう。

 『笛』は笛で、日本の笛。

 『篳篥』はひちりきと読む。中国の笛のこと。

 『常に聞きたきは』は、すんなり「常に聞きたいのは」と現代語に直せる。「たき」は希望の助動詞「たし」の連体形。現代語の、「見たい」「食べたい」の「たい」とほぼ同じ意味の言葉であると考えても間違いではなさそうだ。

『琵琶』は琵琶だよな。あの「耳なし芳一」が平家の亡霊相手にかきならすやつだ。

『和琴』は正月番組できれいな着物のねーちゃんがかきならす、あの琴だよね。

 すべての語句をチェックしたので、さっそくこれらをもとに第十六段の正確な口語訳を書いてみよう。
 
『神楽こそ、優雅で美しく、おもしろい。
 大方の、音楽には、笛・篳篥。常に聞きたいのは、琵琶・和琴』

 なんだこれ。意味不明だ。

<意訳>
 仕方がないから意訳しよう。だが、その前に他人の現代語訳をカンニングしよう。
 まずテキストを見る。「おほかた」を「一般に」と訳している。次はネットで、「徒然草」を現代語訳している人の訳をカンニング。「おおかた、ものの音には」を「よく聞こえてくる音は」と訳している。
 あっ! わかった。兼好法師が何を言いたいのかが。そのイメージが消え去らないうちに意訳する。

『神楽こそ、うつくしく、最高だ。
 よく聞く音楽は笛に篳篥。いつでも聞きたいとおもうのは、琵琶と琴』

<感想>
 兼好法師の時代には、音楽はナマ以外にはありえなかった。踊りや音楽などに飢えてたんだろうね。特に琵琶と琴は常に聞きたいと思っていたらしい。
 長い文章の場合、多少意味が分からなくても前後の流れから意味が推測出来る事がある。しかし、短い文章は言葉がブチ切りなので、文章を書いた人の身になって考えないと意味が分からなくなってしまう。
 以外に古典は短い方が難しい。




原作 兼好法師

現代語訳 protozoa

参考図書
「徒然草」吉澤貞人  中道館
「絵本徒然草」橋本治  河出書房新書
「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波文庫
「徒然草 全訳注」三木紀人 講談社学術文庫


素足で満足

2005-08-12 08:35:58 | 日常
 今朝は四時に起きた。早起きは三文の得と言うが、誰も三文なんてくれない。これは許されざることである。
 ちゃんと各都道府県あらゆる町や村に「三文おじさん」あるいは「三文おばさん」がいて、早起きした者に三文を配って歩くというシステム造りを国政に要求する。しかし、その前に一文銭の復活が早急な重要課題となるだろう。

 あー。政治の話しをしたら疲れた。そんなで今日から来週の火曜日までパン屋のバイトはお盆休みなんだ。夕刊配達のバイトはやるけどね。だから休みとはいえ微妙。

 俺が何者かみんな知ってる?
 35才のフリーター。パン屋と新聞屋でバイトのかけもちしてる。

 そういういろんな状況をまぜあわせて今朝は四時に起きた。小雨まじりのくもり。風はなく嫌に蒸す。とくに部屋の中は暑い。ガジュマルに水をやり、矢川緑地に朝の散歩に行く。散歩の帰りにローソンで紙パックの紅茶とコーラを買って帰宅。
 普段なら右足の親指の痛いタコをがまんしながら、パン屋で製造のアルバイト中のはずの時間に、今日はおうちでパソコン。いつもは靴下に包まれてムレムレの両足も今は素足で満足。


第十五段 補足で蛇足

2005-08-12 05:13:25 | 徒然草
 第十五段は、けっして兼好法師本人の旅の経験を書いた文章ではないようだ。あくまで、旅というものの一般論を語っているにすぎない。まだ行った事のない旅への憧れを語っているのが、この段なのではなかろうかと思う。
 テキストによれば、兼好法師は二度ほど関東に下り鎌倉まで旅をしている。その旅は30才代の頃と推定されている。
 京都から鎌倉まで歩いてテクテク四往復もしているのだから兼好法師はかなりの旅の達人のはずだ。なのに、この第十五段には、そんな達人の心意気とか、旅での苦労とかには全く触れていない。単純にのどかに旅はいーよねー。とのほほんと書いているように見受けられる。
 だから、この段は、まだ本格的な旅に行った事のない若き兼好法師、すなわち卜部兼好が旅への憧れを書いた文章であろうと想像する。
 
 俺は自分の解釈に都合の良いように「徒然草」を読んでいる。兼好法師を心の友にし、兼好法師のおかれる状況や気持ちを勝手に想像して「徒然草」を解読している。それでいいと思う。
 だから俺の作文に資料的価値はない。夏休みの宿題の参考にはならないよ。