ドリーム 2(セカンド)

長坂徳久が語る夢教育(ときどき日常)

「競技としての少林寺拳法」と「護身としての少林寺拳法」

2012年12月08日 02時48分39秒 | 教育・指導法

ある教育者の書かれたものを読んで、

 

そうか!

 

と気づいたことがあった。

 

その方は、森博嗣 『常識にとらわれない100の講義』大和書房)を引用されていた。それが以下。

スポーツの世界で評価を受けるのは結果を出した人だ。
ここ一番に自分の力を出し切るにはどうすればよいのか。
そこに至るまでの調整力がものをいう。
最近ではチーム体制で競技力に関するすべてのことをコントロールしていく。

普通の仕事はそうではない。
調子が良かろうが悪かろうがやめるわけにはいかない。
悪いときは悪いなりに、なんとか被害を最小限に食い止める手腕が求められる。
体調とか精神状態とか、人間の調子というものを一定に保つことは簡単ではない。しかし、これは天気のようにどうにもならないというものではない。
少なくとも、どうすればどうなるのか、かなり事前にわかるものだ。
いかに最善の状態にしておくか。
このへんの心得はスポーツ選手以上に強調されていい。
世間では、コンスタントな成果を期待できる人は信頼される。
スポーツと違って、求められるのは上限の高さではなく、最低限これくらいは大丈夫という下限の高さである。

その意味で、優秀な人とは毎日コンスタントに仕事をする人のことである。いちばん調子が良いときの成果で人を評価するのはスポーツくらいのものだ。

《以上、引用終わり》

 

競技としての少林寺拳法は、やはり「スポーツ」の側面は否めない。

ベストな体調を整え、入念にアップして、心技体のピークパフォーマンスを目指す。

私はそれを批判しない。それもまた拳士たちの人間的成長の一過程として取り組むことができるからだ。

だから、橋本西では、

「大会にも力を入れている。」

 

かたや、護身としての少林寺拳法を見た場合は、下限の状態でどこまでやれるかが求められる。

最悪な状況、状態でも、果たして自分の身を守れるかどうか?

最低限どこまでできるのか? それが護身であり、宗門の行としての少林寺拳法なのかもしれないと思った。

私が、いつも、橋本西が競技志向になってしまわないように心しているのは、そういうことだったのか・・とも思った。

 

少林寺拳法を教育活動と位置づけるならば、

「最低でもどこまで教えられるか。」

「どんなに身体能力的に劣る子でも、一定の水準まで(私は初段取得と考える)できるようにさせていくのか。」

「どんな障害を抱えていようが、できるようにさせていくのか。」

「それぞれが目的も違うし、目標も違うが、みんなが自分の少林寺拳法活動に満足できるような道場。」

という考え方ができるかもしれない。

 

一人が100歩進むことを目指すのがスポーツだとすれば、

一人一人が一歩ずつ進むことを目指すのが少林寺拳法なのだろうか。

少なくとも、橋本西は、

一人が100歩進むことよりも、全員が大きな一歩を進むことを目指していきたい。