ゆめひこう 

日々の思いを

聖書の初め

2013-05-19 14:00:53 | カトリック
新約聖書の初めはマタイです。
系図が延々と書かれていて、たいていそこで挫折すると。
わたしも何回もチャレンジしましたが、途中まででした。

どうしてみんなに嫌われるような、面白くない書き方をしたのかと。

今日の神父様の講座はそのお話でした。

マタイにとっては、神の働きかけがアブラハムから始まっていると伝えたかった。
まずアブラハムに子孫を繁栄させると約束された。
次の登場はダビデで、その玉座が永遠に続くものになると明言した。
次がバビロン捕囚では預言者たちを通して新しい神の誓いを明らかにした。

そこからキリストに続く。

キリストの誕生は、人間に対する神の究極の愛の成就であったと伝える。
ヨハネには
「神は御独り子をお与えになるほど、この世を愛された」(ヨハネ3:16)
とある。

キリストは最後に
「行ってすべての民を私の弟子にしなさい」(マタイ28:8)
とある。

(キリストは伝えなさいと言っているのであって、修行しろなどとは言っていない・・・。)

だからイスラエル民族だけの神だけにとどまらないのを弟子たちも理解していった。


放蕩息子の話は、息子が戻ってきて父親に赦してもらったというなら、単なる人情話に終わる。

このたとえ話は神が息子を追いかけていって離さず、ずっと付き添っていたこと。
そして連れ戻してきたという神理解、「神は人間を見捨てずに働きかけつづけている」が必要。


たくさん考えて、頭が疲れました・・・。
帰りにミサに与りました。     
               
               初夏の気配です