有作未庵  烏兎怱怱 有作憂さ話 

有作(うさ)=煩悩の生ずること。
憂さ話=つらさや苦しさを語ってなぐさめ合うこと。
月日の経つのは早いですね。

あの日の今頃

2008年01月17日 09時44分43秒 | うさうさばなし
旦那が出勤しようとして大渋滞にはまってた頃かな。

前夜、たまたま実家に居た。
よくある事だったんだけど、その日も旦那は私の待つ私の方の実家に帰ってきて、そのまま家族で泊まる事にした。

古い木造家屋で家鳴りが酷かったんだけど、あの夜は特に頭上の欄間辺りがパシ!と定期的とも感じる程、頻繁に鳴っていて、そこに掛けられた大きな額がもし落ちてきたらヘタしたら死ぬな、なんて考えたりしてなかなか寝付けずにいた。
ふと気付くと地響きしていた。裏のポンプ車の暖気が毎朝ズンズン響くので、それかと思ったが、エンジン音がしない。変だなと思ってたら地響きはどんどん激しい揺れに変わっていった。

慌てて掛け布団を隣に寝かせてた赤ん坊にすっぽり掛けた。先ず頭上の額が落ちてくると思ったから、とっさにそうしたんだろう。赤ん坊はキョトンとしていた。

床の間の床柱がぐらぐら揺れていた。

赤ん坊の向こうに寝ていた妹が半身を起こして「何!?え!?地震!?」とかなんとかうろたえている。

その頃隣の部屋の母は…。母は私よりさらに寝付けなかったそうで、遠くでドン!と音がした後に地響き、そして揺れが来たらしい。
寝たまま頭の方を見ると縁側に繋がれていた飼い犬が恐怖に怯えて声も出せず、リード紐を限界まで伸ばし母の元に行こうと必死で床を掻いていたので腕を伸ばし、両手を繋いで揺れがおさまるのを待っていたそうだ。

揺れがおさまると妹が急いで「テレビ!NHK!」とリモコンを手にした。1番うろたえているように見えた妹が1番冷静だったかもしれない。

こたつに足を入れて一枚の掛け布団を横にして使っていた私と夫の足にはそれぞれこたつの足に繋がれていた猫がしがみついていた。頭上の額は落ちず、痛い目にあったのは猫の爪が食い込んだ足だけだった。

テレビに映ったアナウンサーが地震の速報を伝えていたけれど、詳しい事はまだ分からなかった。

夜勤に出ていた父から上ずってそれでいて楽しげとも取れるような声で電話がきた。「えらい揺れたな!大丈夫か?」その声の調子に日頃から我が実家のボロ加減に不安を持っていた私は「柱がぐらんぐらんに揺れて死ぬかと思ったわ!」と怒った。

父よりさらにどこかズレている弟は激しい揺れに目を覚ましてはいたものの起きてはこず、そのまま寝ていた。

ニュースでだんだんと情報が増える中、夫がとりあえず出勤。しばらくして「車が進まん!」と引き返してきた。

当時の夫の勤務先は臨海の工業地帯で、あちこちが液状化して道路も所々陥没したりして大変だったらしい。

それからしばらくはテレビをつけっぱなし、次々に増える犠牲者の名簿に幼い命の表示を見つけては自分の赤ん坊を抱きしめて涙を流した。

後日、高層の建物からは神戸方面が炎で赤く染まっているのが見え、世代によって、空襲の時の様子を思い出したという話を聞いた。母も子供の頃隣街が空襲にあい、空が赤く染まっていたと話してくれた。

神戸はまた、母にとって青春の思い出深い土地で、辛そうだった。

幸い身近には震災の犠牲者はいなかった。

電車がかなり復旧した頃、母が「様子を見て来る」と結婚するまで住んでいた西宮に向かった。

私は夫が得意先に行く事になった時に頼まれてついて行った。爪痕が深く残る長田。
待っている間に自動販売機でジュースを買ったら賞味期限がとうに切れていた。切なくてそのまま鞄にしまった。

何も出来ないけれど、せめてこの街に残って頑張っている店で食事して売上に貢献しようという夫の提案でプレハブのお好み焼き屋に入った。

あの時に会った人達が皆元気で笑顔だといいな。

地震列島日本。
次の南海地震は東海地震と連動した大規模な物になるそうだ。
自分はともかく、子供達の為に少しは備えなくちゃいけないな。考えるばかりでなかなか行動が伴わない私だけど、守りたいものがあるから少しは頑張りたいし、頑張れると思いたい。

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