日田の三隈のひとつ「日隈神社」
亀山公園 ( 日隈山 ) の遠望
日隈神社は日田市を流れる三隅川の河畔にある亀山(きざん)と呼ばれる丘上に鎮座する。
ここは日隈山とも呼ばれ、日田三丘と呼ばれる日隈、月隈、星隈の三つの丘の一つである。
元治元年(1864年)に、後漢時代の銅梁作細線式獣帯鏡が出土した古墳跡(日隈1号墳)でもあり、
安土桃山時代には日隈城が築かれていた。
ほかに、大正14年(1925年)に建てられた日田郡馬原村庄屋の穴井六郎右衛門が行った
幕府への直訴を称えた記念碑などがある。
日隈山はこんもりと森をなし、一帯は亀山公園として整備され市民の憩いの場となっている。
「 日 の 隈 神 社 由 緒 」
祭神
後醍醐天皇
楠 正成命
春日大明神
所在地 日田市大字庄手601番地
境内 10,913.1平方米
後醍醐天皇、楠正成命の二柱は、
明治維新前より旧日田郡光岡村(友田村)の「松陽山岳林永昌禅寺」に安置されていたが、
明治元年太政官より神仏分祀の達しがあり、
時の日田県知事松方正義(後の内閣総理大臣大勲位侯爵)はこの命令に従い、
ここ日の隈山(亀翁山)に社殿を新営して明治3年5月遷宮、日の隈神社と称し奉った。
尚九州に於いて楠正成公を祀ってある七社の内、本神社は最高の社格を有していた。
春日大社は、天正以前より鎮座していたが、
慶長6年3月、領主毛利伊勢守高政の城代隼人佐長世法師、
本郡田島村の若八幡神社の相殿に遷し奉り、
350年後の安政3年7月再びこの山に鎮座し、大正9年9月に本神社に合祀した。
日隈城は、安土桃山時代に日田盆地を流れる三隈川沿岸に築かれた平山城であった。
豊臣政権下の直轄地 ( 蔵入地 ) となった際に宮城豊盛によって築かれ、
毛利高政が改修した際には五重の天守や三重櫓が建てられたとされる。
毛利氏は関ヶ原の戦いの際の寝返りなどで功を上げたことにより、
佐伯2万石の所領を安堵され日隈城を実質の支城としたが、
一国一城令の発布後は、廃城とされた。
江戸時代には洪水や火災などによって城下であった隈地区も被害に遭い、
現在では、森春樹が口伝や 『 豊西記 』 などをもとに著した 『 亀山抄 』 などで
城跡や当時の情景を伺えるのみである。
現在、城跡は亀山公園として整備されているが、
城跡として保存されている遺構はなく、
大手門枡形の石垣が残るのみで当時の詳しい様子はわかっていない。
松 方 神 社 跡
明治元年(1868)初代日田県知事に任じられた「松方正義」公は、
赴任後間もなく県役所と豆田町を直結する豪華な石造りの「一新橋」を架橋し、街筋の整備を計った。
これを手始めに明治2年、棄児・孤児・貧児の収容所としての「養育館(三本松町)」を創設して、
延べ360余名を養育し、その社会事業は全国的にも注目を集めた。
(一説には我が国孤児院発祥の地といわれている)又、
同3年にはこの地に日隈神社を造営する等諸々の善政をなした。
その後、明治政府の要人として中央政界で活躍しのちに内閣総理大臣となって我が国の発展に寄与した。
後世の日田郡民は公の徳を慕い縁故の深い此の地に大正13年(1924)生祠を建て
経済の神・養蚕の神・家内繁盛・子宝の神として称えた。
太平洋戦争の終戦後、駐留軍(GHQ)の指令により解体され、
神殿は本庄町天満宮へ鳥居は中ノ島大釣稲荷神社へ、また玉垣は日の隈町水天宮へそれぞれ移された。
この日の行程、
「 道の駅・原鶴 」 ー
「 道の駅・うきは 」 ー
「 夜明大橋 」 -
「 大肥橋 」 -
「 筑後鉄道軌道橋 」
ー
「 筏場眼鏡橋 」 -
「 白手橋 」 - 「 日隈神社 」