「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

長崎県雲仙市  ・  近代土木遺産 「 雲仙観光ホテル 」

2012-09-07 22:29:06 | 近代化産業遺産・土木遺産







■ 所在地 /  長崎県雲仙市小浜町雲仙
■ 竣 工  /  1935年 ( 昭和10年 )
■ 設計者 /  竹中工務店 ( 早良俊夫ほか )
■ 登録有形文化財


1932年(昭和7年)、当時の鉄道省観光局は、
日本への外国人客誘致による外貨獲得のための国策として、
日本各地に15のホテルを建設しようと計画した。
これにより政府による低金利融資を受け上高地や琵琶湖をはじめ、
日本各地に外国人向けホテルが建設されることになるが、
その一環として日本郵船が運営していた上海航路などにより、
外国人客が多く訪れていた雲仙にも洋式ホテルの建設が決定した。

国から融資を受けた長崎県は、県選出の代議士で大阪の堂ビルホテル経営実績がある
株式会社堂島ビルヂング社長、橋本喜造に建設と運営を依頼。
1935年 ( 昭和10年 ) 10月10日、国有地及び県有地約3,200坪の敷地に
雲仙観光ホテルが誕生した。
雲仙国立公園が日本で初めての国立公園として指定されたその翌年のことであった。

日本の在来建築にアルプス地方に見られるスイス山小屋風のデザインを融合。
地下及び1階はRC造で、骨材は丸石。2・3階は木造。
外観は、柱や梁 、斜材など木造骨組をそのまま外部に出すハーフティンバーと
雲仙の溶岩石と杉やヒノキなどの丸太を組み合わせ、落ちついた雰囲気に仕上がっている。
内部は、床材に米松、手摺りはインドネシア産の硬木材・ジェルトンなどの建築資材を用い、
各所に手斧 ( ちょうな ) 削りと呼ばれる日本の伝統的な技も見られる。
ちなみに竹中工務店が手がけた設計施工の第一号となったホテルである。




寝る子は育つ。柴犬 「 ムサシ 」

2012-09-07 22:20:23 | 柴犬 ムサシとピース



寝る子は育つ。柴犬 「 ムサシ 」







ケージから自由に歩き回れるように柵を設置した











夕べ環境が変わったのと、一匹になった不安からか?
夜もガサゴソと音を立てていた。
それで疲れたのか?今日は寝ていることが多かった。
大理石の上はヒンヤリとして気持ちいいのか?
ピースもよくここで横になっていた。

心もち便がゆるいので、
明日の朝も変わらなかったら心配だから
一度病院に連れて行ってみようと思っている。




沖縄県金武町  ・  フィリピン移民の父 「 大城孝蔵 」

2012-09-07 21:42:03 | 沖縄



上の毛にある金武グスクの公園に立つ 「 大城孝蔵 」 の銅像




写真は金武区の上の毛(ウィヌモー)に立つ「大城孝蔵」の銅像である。
大城孝蔵は、フィリピン移民、ダバオ開拓の功労者として知られる。
 
金武町民は南米移民も多いが、フィリピン移民も多い。
その移民地フィリピンに「リトル金武町」が形成されていた。
それを裏付ける資料がある。それが「金武町史誌」である。
編纂員の地道で莫大な聞き取り調査によって、
フィリピンにあった金武町人街が地図になり、屋号と共に明らかにされた。
初めて「金武町史:移民編」を手にした時私は驚いた。
私の父も(若いある一時期そこに働きに行っていた。
しかし、戦争の足音が近づき、
徴兵が近づいていた父は故郷から出兵したいと沖縄に帰ってきた)という話を聞いていた。
が、これほど(一つの町がそっくり移動したような)の方が、
移民して豊かに暮らしていたとは知らなかった。
ほとんどの方がマニラ麻栽培に従事していた。

大城孝蔵は大規模なマニラ麻栽培を成功させ、
ミンダナオ島ダバオ開拓の先駆けとなった。
ダバオ市の開発発展に尽くした功績は多大で、現地住民からも慕われ、
バブセロ(パゴ・オーシロ)という地名まで残している。
昭和5年には約一万人の日本人移民がいたが、内7割が沖縄県人であった。
「戦争が無ければ、ずーとそこに住んでいたと思うよ、
それほどいい所だった。
気候も食べ物(果物)も」と多くの人は語っている。

沖縄からの移民ときいて、思い出す歌がある。
それは、BEGINが歌う 「 パナマ帽をかぶって 」 である。





パナマ帽の材料となる 「 アダン 」





「パナマ帽をかぶって」 


作詞・作曲 比嘉栄昇
編曲 BEGIN


アダンの葉っぱで 作られたパナマ帽
俺はそれだけあればいいのさ そこがふるさと

飛び乗るよ移民船に 今も昔話じゃないさ
生きていたいから働くのさ 金の為じゃない

Oh灼熱のひび割れた大地に 落ちた
汗も一滴の 水だと信じよう
そう アダンの木陰さ パナマ帽をかぶって



「 シンカヌチャー 」 のCDが届いた。

2012-09-07 18:01:31 | 音楽 ・ 映画














今日の午後から、ゴロゴロと雷鳴が響き渡り、ドバーッと雨が降った。
雨はどんなに降ろうとパソコンにそんなに影響を与えないが、
雷は今までのデーターまで使えなくなってしまうので脅威である。
そのため、午後からの書き込みやコメントはスイッチを入れては切り、
切っては入れるの繰り返しだった。
そして、先ほどソフトバンクのナイトゲームが終わったので、
パソコンの再開である。


昨日、ムサシのことでバタバタしていたら、
ネットで注文していたCDが沖縄の宜野湾市から届いた。
沖縄限定なのでネットで頼むしかなかったが、
こうしたマイナーなCDが聴けるのも嬉しいものである。
CDは “ 島唄 ” の宮沢和史と沖縄のミュージシャンのコラボである。
シンカヌチャーとは、一体なんぞや?っていう人も多いだろう。
そのシンカヌチャーとは、ウチナーグチ ( 沖縄の方言 ) で、
「 仲間たち 」 という意味である。
まさに、そのタイトルにもなっている宮沢和史と 「 シンカヌチャー 」 である。
この歌詞の中に出て来るニセターは 「 青年達 」 。
アングヮーターは 「 少女達 」 という意味である。
鹿児島の 「 よかにせどん 」 とは好青年のことを言う意味から、
この語源は、琉球から来たものではないかと思われる。



「シンカヌチャー」


ニセターニセターあの海を越えて行け
我したウチナーワッター島ぬシンカヌチャー
アングヮーターアングヮーターあの風を連れて行け
我したウチナーワッター島ぬシンカヌチャー

対訳

青年達よ青年達よ あの海を越えて行け
私の島沖縄 私たちはこの島の仲間
少女達よ少女達よ あの風を連れて行け
我らが沖縄 私たちはこの島の仲間


エイサーもそうだが、沖縄の三線や太鼓の音は
魂を揺さぶったり、惹きつけたりする力を持っていると思う。
あの音と独特のメロディーに心を鷲づかみにされ、
南の島へ想いを馳せるのである。