フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

全的に考える PENSER D'UNE MANIERE TOTALE

2007-02-12 00:30:19 | 哲学
以前に、自分の全存在の中における科学の占める位置がどれほどのものなのかについて、「科学すること、賢くなること」 と題して書いた。「人間としてある」 という中で、科学をすることから得られるものがどの程度のものなのか、という問題である。これは科学に限らないかもしれない。一般に、仕事と言われているものに当てはまることだろう。仕事をすることと人間存在について考えることとは必ずしも一致しないどころか、前者が後者を邪魔している場合が多いのではないか、という疑問であった。少なくとも私の場合、仕事を口実に自らの存在についての考察を避けてきた、先延ばしにしてきたということに気付き、そろそろその問題を全的に考える時期に来ているのではないかという思いが頭をもたげてきたように感じたのだ。

昨年出会ったピエール・アドーさん
の "La philosophie comme manière de vivre" (「生き方としての哲学」) を読んでいて、これに対応するような問題に触れているところにぶつかった。

Dans ce perspective, j'ai été influencé, dans ma jeunesse, par le cardinal Newman, qui a écrit une Grammaire de l'assentiment, dans laquelle il distingue les assentiments notionnels et les assentiments réels ; en anglais notional et real assent. L'assentiment notionnel, c'est l'acceptation d'une proposition théorique à laquelle on adhère d'une manière abstraite, comme une proposition mathématique, 2 et 2 font 4. Cela n'engage a rien, c'est purement intellectuel. Le real assent, c'est quelque chose qui engage tout l'être : on comprend que la propostion à laquelle on adhère va changer notre vie.

「この点について、私は若き日に教えを受けた枢機卿ニューマン氏に影響を受けました。彼は 『同意の基本原理』 という本の中で、観念的な同意と現実的な同意を分けて考えています。観念的同意とは、抽象的に支持する理論的命題 (例えば、2+2=4 というような数学的命題) の同意のことで、われわれに何事をも促すことのない、純粋に知的なものです。それに対して、現実的同意はすべての人を促すものです。それは、支持する命題がわれわれの人生を変えうるものとして理解されます。」


ところで、先日のジャクリーヌ・ド・ロミイさんのインタビューで、扇動政治はこの人の時代からあると紹介されていたアルキビアデス (Alcibiade; vers 450 - 404 av. J.-C.) という人物に興味が湧き、彼について読むことにした。手始めに、プラトンによる 「アルキビアデス I」 をこの連休に紐解いてみた。この対話は、美少年であったアルキビアデスに思いを寄せるソクラテスがその愛を告白するところから始る。あなたの付属物 (肉体・美貌) に惹かれて寄ってくる連中が去っていってもわたしはあなたそのもの (心・魂) に惹かれているので、それが向上をやめない限りあなたから離れることはない、というのがソクラテスの心である。この対話で扱われているひとつのテーマが、まさに 「全的に考える」 という問題と関係していた。

できるだけすぐれた善い人間になることが望みであることに一致した二人は、さらに話を進める。何にすぐれた人なのか、と問われたアルキビアデスは仕事をすることと答える。それではどんな仕事なのかと問われ、結局どの仕事も賢さをもたらさないことにアルキビアデスは気付かされる。そしてデルポイの神殿の箴言 「汝自身を知れ "connais-toi toi-même"」 という言葉の意味を探ることになる。

私自身の疑問は、人類が目覚めて以来存在し続けた問題であったことがわかる。この対話はアルキビアデスが20歳くらいの時のものらしい。それ以後の彼の人生は波乱万丈で、その中にロミリさんが指摘していた扇動政治との関連も出てくるはずである。この人物については、これからも読んでいきたいと思っている。

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2 コメント

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美少年 (Nao)
2007-02-12 09:37:53
ソクラテスにアルキビアデス、ハドリアヌスにアンテイノウスと偉人と美少年は対になつている例が多いですね。何故なんだろう?と彼らの女性との関係もふくめて、考えてしまいます。ソクラテスもハドリアヌスも妻との関係は希薄ですものね。どうかんがえればいいのでしょうか?
美少年の行方も気になるところです。アンテイノウスは若くして、水死していますがアルキビアデスは波乱万丈の人生とか、彼のお話楽しみにおまちいたしております。
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少年愛 (paul-ailleurs)
2007-02-12 10:00:15
ハドリアヌスのことは知りませんでしたが、当時は少年愛が広く(?)行われていたということを読んだことがありますし、今回の対話でも開けっぴろげに話されています。この時代に触れたばかりですので、これから色々読んでいく中で当時の様子が見えてくるのかもしれません。アルキビアデスはその後、歴史の中の大きな流れに巻き込まれていくようですので、私も楽しみにしております。

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