最近、ある人のちょっとした言葉や詩の一節に反応する自分を認めることがある。その時、そこに自分のどこかと繋がっている何かを見、真実に繋がる糸口があるという予感を感じている自分を確認する。ただそれはほんの一瞬の出来事で、意識しないとあっという間に跡形もなく消え去ってしまう。その瞬間を捉えることの大切さに気付き始めている。そんなことを考えている時、今年のはじめ仙台に寄った時に目に入った詩集のことを思い出した。
清岡卓行 「一瞬」
それが美
であると意識するまえの
かすかな驚(おのの)きが好きだ。
帯に見たこの言葉の中の 「おののき」 に気が付いたということだろうか。それを捉えること、逃がさないことが何かを生み出すかもしれない、そう信じてでもいるかのようである。
この詩集の中に 「失われた一行」 がある。
夢のなかに浮かんだ すてきな
花ではなく
笛でもなく
詩の一行。
もどかしくも午前八時
やがて十時。
と、時間が経つもその一行は現れず。そして秋の庭を眺める。秋の空に浮かぶ雲を眺める。そして偶然プラスチックの洗濯ばさみを見つける。その洗濯ばさみが消えた一行に導いてくれそうになるが、ならず。さらにガラス戸をあけるとミモザの木が眼に入る。半年前の春の雪で折れたその木の記憶をたどる。そうしているうちに再びあの一行に辿り着きそうになるが、その奇跡は起こらなかった。
著者70歳代の作である。
「胡桃の実」 という詩では、嗜好の変化を歌っている。
胡桃割りで割った胡桃の固い殻のなかの
やや柔らかで豊かな中味が
七十代に入っての嗜好品になろうとは!
[・・・]
胡桃の中味を総入歯で噛みくだき噛みしめるとき
過ぎ去った七十年の
いろいろな嗜好の記憶がよみがえり
それらの甘辛いカクテルの気配に眼を閉じる
十代半ばでは音楽を聴きながらの紅茶
二十代始めには白乾児 (パイカル)
三十代末はタバコ
四十代には胃酸過多に対する脱脂粉乳 (スキムミルク)
五十代は緑茶
六十代半ばから赤葡萄酒 (ヴァン・ルージュ)
がお供だったという。
そんなことを思い返すときなど来るのだろうか。
存在の仕方をここまで言語に昇華できた人はいない。今も自分を震撼させます。あぁ、ここであなたが書いてくれて、うれしいです。そんなことしか言えません。やがて私も60になります。