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昨日、翻訳をしながら気付いたことがある。それは、私のやり方が原文の真意を汲み取ってそれを正確に伝えるべく言葉を探すというよりは、むしろ原文で触れられていることと似たような部分を自分の中に求め、それを活性化しながらあたかも自分の考えのように訳し出しているのではないかということである。そのため、訳し出された日本語がそのまま自分の言葉になって定着しているのである。この2年ほどこの作業を続けてきたわけだが、その過程でいろいろな人の頭の中で起こっていることを日本語に置き換えている間に、置き換えた分だけの考えが自分の中に植え付けられていたのではないか、楽観的に言えばそれだけ豊かになってきたのではないか、そんな想いが巡っていた。事実、訳し出したものを口にしているうちに文字通り興奮してくるものもあった。誤りを犯しながらもこれまで続けてきたのは、このような効果を無意識のうちに感じ取っていたためなのだろうか。
まあ、そうなると距離の置き方は難しいですね。音楽でも聴いてると別に好みでなくても演奏すると好きになることがあります。翻訳という作業も、楽譜を読んだあとそれを自分の音にして発するのと同じなので、その手間暇が、た音楽を聴いたり本を読んだりするよりも自分の深いところに trace を残すので、自分と一体化しそうです。それは判断を狂わせる原因ともなるので、要注意ですね。
後、ValoirとEvaluer をうっかり混同するというようなことは、たとえばこの前の文脈の中では、Evaluerであれば必ず目的語がつくものです。だから、誤解のしようがないのですが、Paulさんは訳語で目的語を補っておられました。この辺、原文に目的語がないのはちょっと変かもと感じるようになるにはたくさん読むしかないですね。
それから誤訳のところですが、訳した時にはほとんど何も考えていなかったということだと思います。ご指摘のように、ひたすら読んでいかなければならないということだと思います。貴重なコメントありがとうございました。
「千の風になって」という今街を席捲している歌をご存知と思いますが…。
亡き人は墓の中でなく、あなたのそばに居るというなかなか泣かせる歌詞ですすが「Iam not there、I do not sleep」の原詩が「そこにわたしはいません、死んでなんかいません」ーーと直訳されていることに、いつまでたっても馴染めません。もっと密やかな日本語が使われてしかるべきでないかという思いがあるのです。
翻訳は作者の時代や背景も十分に掴んで、読者の国の言葉に置き換えるべきという考えもあるそうです。
実際に翻訳などど関わったことはありませんが、卒論のテーマを英小説から取り、今思えば無茶苦茶主観的でした。でもその作品の対し「同化」の気持ちはあったようです。
「同化」についても理解できます。これも以前から気付いていることですが、私の場合は事実を知るための読書は少なく、自分が反応しそうなところがあるものを好んで読むところがあります。自分の中にあるものを言葉にする助けにしようとしているのかもしれません。かなり偏った読書と言えそうです。