フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

癒しの楽園 [287]

2010年05月24日 | アートな快感




            癒しの楽園



                            

 うららかな平日のある日。

 一ヶ月ぶりの半休をとり、
 午後から向島・百花園にて憩いの時を過ごす。
 江戸時代から続く、小じんまりとした緑と池のじみ~な庭園なのだが、
 風情たゆたう静けさの小宇宙は、
 50半ばのおっちゃんに格別な居心地のよさをもたらす。
 年季の入ったベンチに腰掛け、あるいは風雅な小道をブラつきながら、
 目には可憐な草花、耳には極上の音楽で快い潤いを。
 浮き世離れするこの楽園との戯れは、
 そこそこハードな日々の疲れを癒す至福のひと時だ。

 この日のご馳走はモーツァルトのピアノ協奏曲を三曲。
 かつてインプロヴィゼーション(即興演奏)のコンサートで
 一世を風靡した人気ピアニスト、キース・ジャレットによる演奏。
 追っかけをやってたくらいだからCDは全部揃えたが、
 今もよく聴くのはベストセラー『ケルン・コンサート』と、
 『ゴルトベルク』ほかバッハ録音の数枚。

        
        『キース・ジャレット/ケルン・コンサート』
                       ECM/1975年


 27曲あるモーツァルトのピアノ協奏曲だが、近ごろのお気に入りは20番、
 21番、23番、27番あたりで、比較的ひんぱんに聴く。
 カーゾン、グルダ、ブレンデル、ピリス、バレンボイム、レヴィン等の
 超名盤たちが目白押しで、なかなかキースの順番は回ってこないのだが、
 時おり無性にこのキース盤が恋しくなる。

 さて、この作品群におけるクラシックの超一流どころの演奏に共通するのは、
 「極度の洗練と美しいテンション」だと私は思う。
 それぞれ個性は極端に異なるのだが、この二点だけは共通しており、
 それが国際的に好まれるモーツァルト・ピアノ協奏曲の現代像なのだろう。
 だから、その二点にまるで無関心なキースの演奏はモーレツに異端である。
 現代モーツァルト像などワシ知らんよ~てな風情で、
 無防備すぎる冒頭ソロからずっとわが道を往く。

 古(いにしえ)の即興演奏名人アマデウスが楽譜に残した音楽を、
 同じく現代の即興名人キースがインプロを封じて楽譜通りに弾くという、
 なんとも渋いユーモア。
 そんなキースのモーツァルトには、
 例えばバッハの骨太感やベートーヴェンの肉厚感などが内包されていて、
 何でも細分化したがるクラシックの耳で聴くと、
 それらが場違いな不純物やら違和感となって響く。
 曲想もタッチも重くて、つまり、いわゆるモーツァルトらしくない。
 発売当時の専門誌のCD批評はすべてボロクソであり、
 地団駄踏みつつそれらに同感するところは多かった。
 だが、私の中にはとても重要な何かを見過しているようなイヤな感触が残った。

  昨年暮れから本誌パセオにフラメンコのライブ感想を書くようになってから、
 ジャンル問わずでそういう引っ掛かりを残すCDを
 引っぱり出して聴く機会が増えた。
 それぞれのジャンルの耳で聴くのではなく、
 フラメンコな耳でもっと自由に聴いてみたくなったからだ。
 つまり先入観(知識)を捨て、単身アーティストの内部に潜入するアプローチ。
 それはおそらく防衛本能に基づく逆襲的トレーニング法。


             
          『キース・ジャレット/モーツァルト:ピアノ協奏曲』
                              ECM/1996年


 そして、池のほとりをブラつきながら、久々に聴くキースのアマデウス。
 ゆったり目のテンポと厚みからはベートーヴェン、
 両手の明晰なバランスからはバッハ、そしてボーダーレスな
 美しい単音メロディからはキース・ジャレットが聞こえてくる。
 現代モーツァルト像という先入観にすっぽりハマった、
 がんじがらめの聴き方から生じる違和感。
 では、そうした先入観を取っ払う場合、
 キースのモーツァルトは私の耳にどう響くのだろう?

 そう発想を切り替えたのち、リピートで聴く“白鳥の歌”第27番。
 聞こえてくるのは、全体に骨太で重厚だが、
 要所にピアノ音楽だけに可能な美しさが散りばめられた、
 まったく新鮮かつ刺激的な音楽。
 酷評覚悟でここ数十年の音楽界の常識を捨て去り、
 何ものからも自由なピアニストとして、
 等身大でモーツァルトに向き合うキースの真摯な心が視えてくる。

 ああ、なんて大きなモーツァルト!
 やはり確信犯だったキースの選んだ聴き手は、
 どうやら私らヘボな聴き手ではなく、モーツァルトその人だったようだ。
 インプロ名人同士の親愛なる友情。
 「おれの名作を勝手放題に弾きやがって!」と、
 だが満面の笑みでキースの肩を抱くアマデウス。

 彼は、自分の作品にキースが反映した地球音楽の栄光と、
 真の後輩キースその人を、新鮮な歓びと感動で聴いたことだろう。
 キースはモーツァルト以前と以後に生まれた音楽遺産を融合させながら、
 しかし一貫性に充ちた魂によって、
 単身モーツァルト演奏の新しい地平を切り拓いたのだった。

 嗚呼、そのことに気づくのに14年。
 現代モーツァルト像には磨き抜かれ研ぎ澄まされた人類の叡智があるが、
 無限なるアートにはどこまで行っても終着駅などないのだと
 奥村チヨも云ってたじゃん(うそ)。

 さておき、妄想とは云えこの重大な手掛かりを発見できた歓び(事実上の錯覚)に、
 とりあえず池の鯉に食いかけのパンをやる。
 こうして楽園における癒しの半日は、明日への英気へと連環してゆくのだった。

                               

             




 



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