作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 大河ドラマに便乗するテレビ番組(歴史エッセイ137話) 】

2014-03-13 15:43:35 | 05 歴史エッセイ

黒田官兵衛について、いろいろと語るのは良いけれど、
中にはトンデモナイ歴史を作って語る偽物も混じるのは
困りもの。

官兵衛が中津に隠居していなければ、徳川でも石田でもなく
間違いなく大阪城で秀頼の傍にいた筈。

秀吉は大の恩人を遇するに、死を迫りかねない雰囲気を出し
流石に官兵衛は耐えがたく、如水と名をあらためて中津に隠居
の形を取った。そこまでは良い。

九州を平定して第三勢力をと狙ったのが、徳川にも石田にも
知れて、慌てて子息長政を徳川の援軍にと送ったなんて出鱈目
も良いところ。

長政は最初から徳川に尻尾を振って、上杉征伐の軍に加わって
いた父に似ぬ愚か者であった。

この時代の二世には、ロクでも無いのが多い感がある。
黒田長政、池田輝政、細川忠興などみんな徳川に騙され、肝を
抜かれた愚か者の集団であった。


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【 後藤又兵衛がもう出ている(歴史エッセイ136話) 】

2014-03-06 13:23:32 | 05 歴史エッセイ

NHKの大河ドラマを黒田官兵衛が主役であるから珍しく毎回見ている。
いま抱いている違和感は、早くも後藤又兵衛が登場し、松寿丸を鍛えている
場面があることである。まだ三木城の別所長治は小寺・赤松と信長に拝謁に
行っている段階なのに。だからまだ又兵衛は、黒田に預けられもしてはいない。

又兵衛は、父が別所長治の武将で、三木城が落城の危機に瀕した時に、
友人の黒田官兵衛に息子を託したというのが、かつて読んだ限りでの史実で
あった筈。

長じた後の松寿丸あらため長政は、父の才能を受けることなく、世の流れに
従って、極悪人徳川家康に屈したバカモンに成り果てた。
子ども時代に、父が何かと又兵衛を見習えと言うのにも、反感を募らせ又兵衛
を追放してしまう。しかも他の大名連に書面を送り、又兵衛採用の芽をも摘む。
なんとも狭量なオトコである。

又兵衛が大阪城が浪人衆を雇い入れた時に、いちはやく入城して真田幸村や
明石全登と共に徳川勢を苦しめて、漸く名を後世に残した。

父の官兵衛は秀吉に才能を警戒され、自ら出家して如水を名乗り隠居する。
関ヶ原を長陣と読んで、第三勢力を企てるが、如水の本心は徳川と討つことに
あったと思いたい。

秀吉は官兵衛なくして天下人には成れなかった。恩を仇で返す形で隠居させた
秀吉は人の風上に置けぬ嫌なサルであった。

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【 肥後の加藤が来るならば(歴史エッセイ135話) 】

2014-02-28 18:38:12 | 05 歴史エッセイ

島津藩では士気高揚のために幕末までも歌われた歌が残され、

その歌詞がタイトルの「肥後の加藤が来るならば」であったと聞いた事がある。


関が原に西軍として加わり、島津勢が少数であることに、軽侮を露わにした

石田三成の指図を無視して、合戦の間は一発の弾丸も撃たず、ただ己の陣地

を守り抜き、合戦の勝敗が明らかになった後に、前に向かって、すなわち徳川の

本陣を襲うかに見せて、家康の肝を冷やさせた上で、多くの将兵を失いながら、

鈴鹿を超えて海路で薩摩に帰りついた薩摩藩では、以後も徳川の仮想敵国を通し

遂に幕末を迎えるにいたった。


その薩摩藩での歌われ続けた歌のことである。肥後の加藤とは、もちろん清正の

ことである。清正は死ぬまで豊臣を主君として仰ぎ、特に遺児秀頼を支え続けて

いたが、徳川の謀略で毒殺されたとの説が多く、清正の死後加藤の家は潰された。


加藤の後には、福岡から細川が移住してくるが、そんなことに関わらず、薩摩では

肥後の加藤と歌われ続け、誰も肥後の細川なんて認めては居なかった。


細川が熊本に入部の際にも、行列の先頭には清正に関わる物を掲げて領民の

了解を得る苦労をしたようである。


いまの熊本人も誇りするのは加藤清正であり、熊本城であって、細川の名を出す人に

会ったことがない。

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【 淡きこと水の如し(歴史エッセイ134話) 】

2014-01-20 16:20:28 | 05 歴史エッセイ

この前文に「君子の交わりは」があるのだが、黒田官兵衛が隠居するに
当たって如水を号したのは、あくまでも主君として仕えてきた秀吉のジェラシー
を怖れての名乗りであった筈。水の如く全く野望は持ち合わせておりませんと
隠居号で天下に宣伝したわけ。

秀吉ごとき俗人が天下人になり得たのは、側近に官兵衛と半兵衛を得たから
とは、あまねく全日本に知られていた。

秀吉の死後、家康のごとき超のつく悪人に天下が転がり込んだのも、如水が
九州中津に引っ込んでいたが故で、大和郡山か琵琶湖畔に所領を得ていたなら
まず石田三成の登用もなく、西軍の実質上の指揮権が石田に成ったはずもない。

関ヶ原があったとしても、僅かの半日の合戦だけで、勝敗が決することはあり得ない。
黒田の天下が実現しても、後世の日本にとって徳川幕府りもはるかに良い政権が
出来ていた。


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【 竹田城址のはなし(歴史エッセイ133話) 】

2013-12-26 16:41:17 | 05 歴史エッセイ

近年になってから、竹田城というのが、朝霧に浮かぶその姿が美しいと
話題になり、現地には駐車場も無ければ、トイレも無いとかで、その混雑が
また話題になっている。

何処にあるのか調べたら、神戸市民として迂闊なことに、但馬地方の和田山に
存在すると知って慌てた。

但馬・丹波辺りは山に囲まれた辺地のイメージが強く、京都・大阪・神戸にも
近いのに関らず、大きな都市もない。

古代の豪族に日下部氏というのがあり、葛城氏、大伴氏、秦氏等と同じ時代からの
名族であったと伝えられ、その流れに太田垣氏という何代も続いた豪族が出たという。
応仁の乱以降は山名氏の勢力圏に組み込まれ、赤松なにがしの名が城作りに関与
したらしい。

歴史に信長が登場し、山名も亡ぶが太田垣の名前は見たことすら無い。

竹田という名から、竹田の子守唄に関係があるのかと調べたら、まさに同地区の
貧困層から生まれた歌だそうで、一時は放送禁止に遭ったとも。


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【 会津藩は気の毒な宿命に墜ちた(歴史エッセイ132話) 】

2013-04-09 17:50:08 | 05 歴史エッセイ

藩主松平容保は、元々会津松平家の人間ではない。
尾張の属領ともいうべき、高須藩に生まれ、兄が尾張を
そして弟が、戊辰の役で会津と共に幕府側の主力として
最後まで戦った桑名の藩主になった。

容保は高須三兄弟の真ん中である。
弟が養子に入った桑名藩は、すでに京都所司代に任じられ
ており、幕末の勤皇の士が、或はそれを名乗るものが跋扈して
京都所司代のチカラだけでは、取締りの役目が果たせなくなって、
容保の会津藩に、それまで職名もなかった京都守護職を、
幕閣から命じられた次第。

長州を主軍に、倒幕の勢いが増す京都に、大軍を率いて赴任
するのは、会津藩を挙げて猛反対の気運の中を、容保は藩祖
保科正之以来、徳川宗家の危機に際しては、論議の外と強引
に藩の重役たちの反対を押し切っての上洛。

すでに京都に在って、殺伐な時代の主役化していた、浪士組の
新撰組の抱え主となったことが災いした。新撰組を美化して描く
馬鹿者が作家を名乗る中に多くいるが、実体は連合赤軍の粛清
を想起させる程の、殺戮集団である。

新撰組は食い詰め浪人の集まりで、それが会津候お抱えとなって
衣食が足り、浪士と見れば問答無用の殺害に及んで、世間の眉を
ひそめさせる振る舞いが多かった。

さて、藩祖保科正之だが、彼は二代将軍秀忠が侍女に産ませた、
隠し子で、信州の小藩保科家で保護されて成長した。
実弟忠長を、謀反の名を着せて切腹させた三代家光が、正之の
存在を知って、大いに喜び、以後弟して厚く遇した事が、後世に
会津藩にとっての仇となる。

孝明帝が最も信頼したのが容保であったにも関らず、不良公卿の
岩倉具視が帝を暗殺し、容保と会津藩の運命が暗転する。

徳川家康は、個人的には大嫌いなヤツだが、十五代の徳川将軍の
中では唯一、秀でた人物と言えて,後の十四人は、吉宗を含めて
ロクデナシばかりである。

保科正之は、不幸な生い立ちではあったが、家康の血を引いた人間
の中で、ただ一人の人物であったと思われる。
縁もない高須藩から、容保を養子に迎えたばかりに、長州勢を主力
とする官軍に、およそ日本の歴史上も、もっとも残酷な目に遭わされた。

藩を挙げて、下北半島の寒風吹きすさぶ、コメなど取れるはずも無い
僻地に追いやられるのである。こと会津に関する限り、その悲惨な運命
に涙する。

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【 備中松山藩 山田方谷のこと(歴史エッセイ131話) 】

2013-01-31 10:19:55 | 05 歴史エッセイ

昨日の衆院本会議で、平沼赳夫がだらだらと喋ったのが、
備中松山藩の財政家、山田方谷についてであった。

備中松山藩は、秀吉の毛利攻めの際に、清水宗治が
立て籠もった高松城があった場所で、秀吉は水攻めで
城内の兵たちを苦しめる。

本能寺で信長が明智光秀に殺されたとの報に接し、
直ちに毛利方と講和を結び、大返しで兵を引き上げ
山崎山麓での明智との決戦の勝利して、信長後継の
資格を手にする。

現在は高梁と呼ばれ、観光客の訪問が多いと聞く。

ところで、備中松山藩は表高5万石の家であったが、
その実コメの収穫は1万9千石でしかなかった。

当然藩の財政は赤字になる。山田方谷は農家の
出身だと聞くが、幼少より学問に秀でて、在世再建の役を
命じられる。19世紀初頭の頃である。

明治政府が出来てから、大久保利通から大蔵大臣に
招聘されるが固辞したと伝えられている。

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【 幕末の上杉家は謙信・景勝の上杉に非ず(歴史エッセイ130話) 】

2013-01-15 13:39:41 | 05 歴史エッセイ

伊達藩と共に徳川方を集め奥羽列藩同盟を主催した
米沢の上杉藩だが、官軍の勢いが強いと見て、簡単に
降伏するだらしなさには、謙信の子孫の陰も見えない。

上杉の藩主の血は、例の吉良上野介の子が養子として
入っているから、秋田の佐竹が官軍方の旗色を鮮明に
したにも拘らず、佐幕派のままであったのも仕方が無いか。

幕末の騒然たる世評にも、何の政治色を見せずにいた、
南部藩だけが、恨みも無い秋田藩領に攻め込んだ罪を
問われて、新政府に家老が断首の刑に処されている。

外交オンチは、加賀の大藩前田家もそうだが、上野の山に
立てこもり、官軍に抵抗した彰義隊を、大村益次郎が指揮
した官軍のアームストロング砲を、据える場所に藩邸の庭を
提供しただけで、辛うじて官軍方に加えれた。

この砲は佐賀鍋島藩が、自力で作ったものだが、徳川期に
学問が最も盛んだとされた、鍋島の佐賀には不思議な事に
現在は特にこれと言う産業が無い。

司馬遼太郎さんの『街道を行く』にも、「佐賀には何もなか」
とある。

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【 佐竹の秋田藩だけが官軍に(歴史エッセイ129話) 】

2013-01-11 18:18:14 | 05 歴史エッセイ

NHKの大河ドラマが、平清盛の不人気で、
低視聴率の新記録を取る不名誉さ。

その後を受けて、幕末の会津藩を舞台に
新島八重の生涯を描く「八重の桜」が始まった。

会津は福島県である。福島の復興なくして、
日本の復興は無い、との民主党の掛け声は、
単なるスローガンで終わり、福島県の現状は
田畑も荒れ放題、ガレキの山が学校の近辺にも
といった惨状。

幕末の会津藩は、今回の天災以上の災禍であった。

最後の将軍、慶喜が大政を奉還し、大阪城からも
逃亡し、江戸も捨ててさっさと静岡に隠棲したが、
その身代わりにされたのが、会津藩だった。

同じ日本人が、あそこまで会津をイジメたかと想えば
明治の官軍の、思い上りに吐き気を催す。

新撰組を保護する京都守護職に、松平容保が就いたが
為の、特に長州藩の憎悪であった。

今日のエッセイの主題は、会津ではない。
そっちの方はNHKが大金を投じてやってくれる。

幕末に官軍が東へ、そして北に進路をかえて攻めて来る。
伊達と上杉が、奥羽列藩同盟を呼びかけて、諸藩が同盟
に参加したが、ひとり秋田藩だけが、官軍側に付くと表明。

外交オンチの南部藩が、秋田藩を攻めるが、伊達も上杉も
いち早く官軍に降伏した。

戊辰の役は、関ヶ原の復讐戦だったとは、司馬さんの文章
以前からの、ボクの信念だった。(小四以来だ)

秋田藩は、常陸から移された佐竹家の藩で、佐竹は上杉と
同盟して江戸を襲う密約があった。
それを察知した、徳川家康が上杉の禄を削ると共に、常陸の
大藩、佐竹家を日本海の寒い地に移動させたのだ。

流石は新羅三郎義光の流れをくむ、天下の源氏である。
西軍の主力、薩長と共に復讐戦に立ち上がったものと見る。

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【 新説・関ヶ原の合戦始末記(歴史エッセイ128) 】

2013-01-10 17:54:26 | 05 歴史エッセイ

豊臣時代の九州の猛将といえば、加藤清正だろうと
言われそうだが、当の秀吉が自ら西国無双の者と称え
豊臣の姓まで与えられた、凄い男が居った。

その名を立花宗茂といい、1600年の関ヶ原の合戦
当時は、義兄弟毛利秀包と共に、大津城に東軍の旗を
上げた京極高次を攻めて落城させたが、僅か一日の差
で関ヶ原には姿を現さず、これが西軍が敗れた大きな
原因となった。

関ヶ原の合戦当日、九月十五日の戦いは午前中は西軍
先鋒宇喜多秀家の先陣の将明石全登が、東軍福島正則
の先陣を率いた可児才三を圧倒しており、明らかに西軍が
優勢であった。

そこに松尾山に籠もった小早川秀秋の裏切りがあった
との説があるが、現場に毛利秀包と立花宗茂の両将が
参戦していたら、戦況は大きく変わっていたに違いない。

裏切りの小早川秀秋は、秀吉が北政所の甥を名門毛利
の跡継ぎに押し込めるべく画策し、いちはやく小早川
隆景が本家毛利を救わんと、自らの跡継ぎに貰い受け
た愚鈍で有名な男だった。

秀秋が隆景の養子に成る前の小早川家の当主は、秀包
その人であったのだ。戦場に秀包の姿を見た、小早川
家臣たちは、「彼の場所にこそ我が主君はおわします
ぞ」と騒ぎ立て、徳川家目付を血祭りに斬捨てて松尾
山を我先に駆け下り参陣した筈である。

その前に徳川家康自身が、立花宗茂の登場に恐怖を抱
いて、本陣を後方に引いたと思われる。

関ヶ原の戦況は大きく西軍勝利に傾き、南宮山の前を逃げ
る家康を、山頂にいた毛利秀元自らが、家康に通じた吉川
広家の首を「裏切り者」と罵って刎ね、その勢いで家康本陣
が崩れる中から、家康を見つけ出し身柄を拘束した。

大いにありえた話である

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【 織田がつき羽柴がこねし天下餅(歴史エッセイ127) 】

2012-12-28 18:34:24 | 05 歴史エッセイ

座りしままに喰らう徳川。と続く川柳とも落書きとも、
つかぬ言葉を、戦後教育では知らない人が多いらしい。

この意味は、天下取りに最初に着手したのは織田信長。
信長が永年にかけて、眼の上のたんこぶを意識していた
武田勝頼を自刃に追い込んだ1582年の、その年に
京都・本能寺で明智光秀の謀反によって、自らも非業の
死を遂げる。

毛利攻めの最中にあった、羽柴秀吉が高松城水攻めを、
城主清水宗治の自刃と引替えに、講和をまとめ、後世に
いわく大返しで、山崎での明智との合戦に勝利することで、
信長の遺志の通りに天下を統一する。

秀吉が死に臨んで、家康の手を取って押しいただく事まで
して秀頼の向後を頼んだのに、秀吉の死後は変身して、
勝手気ままな行動を取る。

秀吉の糟糠の妻、北政所を巧言で京都に隠棲させて、自ら
大坂城に乗り込み、西の丸に天守閣まで造らせて住む。
もちろん費用のすべては、秀吉の遺産を使う。

ここまで勝手な振る舞いは許されぬと、石田三成が家康の
上杉征伐の留守に、家康打倒の兵を挙げる。

天下分け目の関ヶ原の合戦に、松尾山に陣取った小早川勢
を裏切りさせて、形勢を逆転させ、僅か半日の戦に勝利する。

徳川家自体の軍勢は、秀忠が率いて中山道を進む途中、
信州上田城の眞田昌幸に行く手を遮られ、関ヶ原の合戦には
間に合わなかった。

この合戦は、小早川秀秋が裏切る寸前まで、西軍主力の
宇喜多秀家が、徳川に味方した秀吉の親戚、福島正則を
圧倒していた。

西軍の主将、毛利輝元が大坂城に籠もっていたが、またも巧言
を用いて、毛利を防長二州に閉じ込める。

十五年の後に、大坂城が墜ちて秀頼と淀君は自殺する。

秀吉によって内大臣にまで位を上げてもらった恩を忘れ、
天下を取った家康の汚さを、19世紀の誰かが憤りの思いで
歌ったものだと思う。

家康のやり方は、如何にも汚い


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【 東北大震災と関東地区地震との関連(歴史エッセイ126) 】

2012-12-28 16:32:24 | 05 歴史エッセイ

今回の安倍内閣にアドバイザーとして内閣に
入った、京都大学院の藤井教授が指摘されて
いるが、過去二千年の歴史を調べたら、東北の
大震災と、首都圏のそれとは、十年の時差で
起きる可能性が、非常に高いそうである。

もちろん西日本の危険度も、東北・首都圏と
関連性があり、95年に阪神大震災があったから
と言って、当分は安全だとは言い切れない。

日本の地勢的なリスクには、地震・津波に加えて
富士山の噴火も挙げられる。

織田信長が桶狭間に今川義元を急襲し、その首を
取ったとは、誰も知ることだが、その年1560年には
富士山が噴火した記録がある。

今川の領土は今の静岡県で、富士山麓に今川家が
有った事を思えば、上洛の兵を動かす経済力が
あった事が不思議に思える。

当時は甲斐の武田と越後の上杉が、何回も川中島
で戦っており、両家とも下卒は農家を動員しての軍で
あった。富士山の噴火がもたらした筈の、農地に及んだ
火山灰の影響が、特に武田家に無関係だったとは、
考え難い。歴史の中の大きな?である。

(歴史エッセイ69,70参照)

【 歴史エッセイ (69) 桶狭間合戦と富士山噴火 】はこちら


【 歴史エッセイ (70) 富士噴火(続) 】はこちら

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【 日本史上最も汚い男が徳川家康(歴史エッセイ125) 】

2012-12-27 18:13:06 | 05 歴史エッセイ

大坂城冬の陣で城攻めの難易に手こずり
講和を結んだ際に、総堀埋めと称して、
本丸を裸城にしてしまった一件が特に汚い。

大阪方は、堀を埋める徳川方に、容赦なく
鉄砲を用いて撃ち払えば良かったのでは。

どうせ半年後には、夏の陣が起きて、大坂城
は火炎に包まれる運命が待っていたのだ。

黙って堀がすべて埋め尽くされるのを見ていた
城方の神経が分からない。

戦後家康は、豊国廟も暴いたが、日本の歴史
で、生前世話になった相手の墓を暴いた奴は
徳川家康ぐらいのものである。

何が公方様だと言いたい。



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【 石原慎太郎は日本の歴史を知らない(歴史エッセイ124) 】

2012-11-08 10:12:45 | 05 歴史エッセイ

足利十五代将軍を足利義輝だと言い張ったのは有名。

その石原が、何かといえば「薩長連合」を持ち出す。
そして薩摩と長州は戦争をした間柄だと言う。
幕末の京都に長州軍が大挙して押し寄せ、御所の蛤御門を
守っていた会津藩と激突する。
途中まで中立の立場だった、薩摩藩が御所が危ういと見て
守備側に参戦した。
公然と薩摩藩と長州藩が、戦ったわけではない。

今の第三局の中で、薩摩はどこで、長州はどこに当るのか。
石原の気持ちの中には、「立ち上がれ」も薩長のいずれかと
言いたいのであろうが、「立ち上がれ」は薩摩でも長州でもない。

ついでに書くが、薩長の中を取り持った主役は、坂本竜馬では
ないぞ。
中岡慎太郎と土方久元が、熱心に両藩の仲を取り持った。

中岡は竜馬と共に、幕府が大政を奉還した京都で斬られて死ぬが、
土方は明治維新の中で、伯爵に昇進する。
土佐人としては、幸福な人である。

坂本竜馬は、好奇心旺盛で、薩長連合の案を中岡から聞いて
それは面白いと、後から割り込んだ人物。

越前の松平春獄や、宇和島の伊達宗城といった、大名に直接
会って、海援隊の資金を出させた辺りは、土佐の脱藩者としては
立派なものである。しかも竜馬は郷士の身分の者であった。

ついでに書いておくが、幕末の四賢候の中に土佐の山内容堂が
入っていることに異議がある。ヤツは佐幕派の巨怪というべきで
愚候の代表であった。NHKの大河ドラマの歴史観には、往々に
徳川様さまが見て取れる。




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【 蒲生氏郷は織田信長の養子(歴史エッセイ123) 】

2012-10-16 18:32:31 | 05 歴史エッセイ

近江国日野から出た大名だが、信長のお気に入りで
息女冬姫を与えて、信忠の弟の扱いを受けていた。

信長の遺志を継いだと見られている秀吉だが、
朝鮮入りを目指して名護屋城を築いた秀吉を詰り、
「サル奴が、ついに狂いおったか」と叫んだと伝えられる。

温暖な松阪から、雪深い会津に追われた形で、
伊達政宗に毒を盛られて、死んだとも言われる。

蒲生氏郷が、健在であったなら、上杉家の会津移封もなく、
さすれば、家康の上杉討ちも無かった。

歴史小説には、何処となく、作家の作文が盛られる。
つまりは、歴史のイフである。歴史にイフが盛られてこそ
登場人物たちが、活き活きと動き出すのである。

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