作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 父と兄の敵に屈した池田輝政(歴史エッセイ121) 】

2012-08-28 11:52:00 | 05 歴史エッセイ

徳川家康という、生まれ素性も知れぬ男が天下人に収まる。
どこの馬の骨かという点では、秀吉と変わるところがない。

天下人として君臨する、きっかけに成ったのが「関ヶ原」の
前哨戦に当たる、尾張清洲城攻撃であった。

秀吉の数少ない親族の身で、愚かにも家康の先陣を気取った
福島正則は、狂人の類で同僚の池田輝政と激しく清洲の先陣
争いを行なう。

池田輝政も不思議な男で、父勝入と長兄元助とを長久手の軍で
家康に討ち取られていながら、その敵の天下取りに尽力する、
まことにヘンな男である。

清洲城主は織田信秀。例の本能寺の変で、信長が明智光秀の
謀反で殺された時に、長子信忠も共に殉じて死んだ。
まだ幼児であった、三法師が長じて祖父の旧城の主となっていた。

福島正則も、池田輝政にとっても、信長様は秀吉様の主君である
との想いはあった筈である。すなわち信秀は両名にとって主筋に
当たる。

両人狂ったように、清洲攻めの先陣争いに、功名を競った。
家康には詐欺師の要素があり、加えて魔術にも長けていたと見る。

詐偽と魔術で狂わされた正則と輝政は、お互いに憎悪の念を燃やし
清洲の主筋に襲いかかったのである。
時に家康はどこに居たか。のうのうと江戸に居坐って、清洲の戦いを
遠望していたのである。

正則も輝政も、愚か者よと罵られて然るべきである。

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【 織豊時代の二人の池田氏(歴史エッセイ120) 】

2012-08-23 17:19:19 | 05 歴史エッセイ

小学生五年生で、出たばかりの吉川英治の新書太閤記を読んだ
ボクは今様の言葉をもじれば、れっきとした歴児であった。

秀吉が信長の下で出世していく過程で、二人の池田姓の武将が
登場する。

一人は秀吉から見て、前田利家同様に先輩格の池田恒興で、
若いときの名が勝三郎。入道して勝入と号した。
「勝」の字が入る。

もう一人は、摂津の守護池田勝正で、こちらも「勝」に字の人。
子どもの時に、ボクはこの二人を同一人物と間違えていて、
困惑すること暫しであった記憶がある。

前者は信長の乳兄弟で尾張の人。後者は四国の三好氏が京洛を
支配していた時期の摂津守で、後に家臣の荒木村重に下克上されて
滅びる。

勝三郎、後に勝入と号して、ボクを惑乱させた「勝」の字の人は、
信長の死後、秀吉の天下取りに大いに協力するが、徳川との小牧の
睨み合いに飽いて、親族の森長可と相語らい、徳川の本拠岡崎を攻めんと
秀吉に申し入れ、渋々承諾した秀吉が、問題の甥三好秀次を伴う条件で
岡崎奇襲を承諾する。

歴史にイフ・タラは無いというが、この時に池田と森だけで岡崎に直行
していたら、、おそらくこの奇襲作戦は成功したであろう。
因みに森長可は、信長が愛した小姓森蘭丸の長兄である。

池田と森は作戦に成功し、実戦で破れて家康の前に首を曝した。

歴史はイフ・タラを考えてこそ、興味深くなる。
岡崎を落とされていたら、家康は小牧で屍を秀吉の前に曝したであろう

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【 崇徳上皇は日本の怨霊界のドン(歴史エッセイ119) 】

2012-07-31 18:40:52 | 05 歴史エッセイ
日本人は多くの神々を持つ。多神教の国家である。
天然自然に神の存在を感じ、大氏族の長も神として崇めた。

天孫族が日本列島を支配する過程で、多くの氏族が争いに敗れ
その軍門に下ったことであろう。
天孫族は、降参した氏族を許し、それらの氏族が敬う神の存在をも
許したのであろう。その結果が、八百万の神のまします日本国に
なったのだと思う。地方に行けば、その地の独特の祭りがある。
これもまた、多くの氏族が統一された過去を示している。

中でこの世を去るにあたり、恨みを抱いて他界した人物は祟りをなすと
怖れられ、その鎮魂のためにも神社が出来た。

平将門は神田明神と成り、江戸の三大祭の頂点に立つ。
菅原道真は、藤原四兄弟を呪い殺し、怖れた平安朝は天神様として
鎮魂にこれ努めた。

怨霊の世界のドンが、崇徳院である。太平記は途中から文体が変わる。
明らかに他人が付け足した巻が付け足されている。
おどろおどろしい場面が画かれている。怨霊の世界である。
中心に居る人物こそが、崇徳上皇である。

京都に戻してくれとの懇願を否定され、血書を書いたと伝えられている。



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【 平治の乱の時代、源氏には義康もいた(歴史エッセイ118) 】

2012-07-12 11:40:06 | 05 歴史エッセイ
河内源氏の棟梁である。義朝とは相婿の関係もあり
同盟関係を結んでいた。

後に関東に下り、足利氏の初代となる。
八幡太郎義家の孫にあたる。
堂々たる源氏の一族である。

先日書いた義平だが、叔父義賢が関東の武士連に人気があると、
義朝が嫉妬し、長男の義平に命じて討たせるのである。

頼朝の軍に先立って、平家追討の旗を挙げ、京都に攻め入った
木曽義仲は、義平に討たれた義賢の遺児である。

その義仲を、同族の義経が、兄頼朝に命じられて討つのである。

こうした例を上げていくと、源氏という同族相打つ運命を持った
源氏の嫌な面が見えてきて、さりとて平家は好きになれない。



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【 大河ドラマに源氏側の武士が少ない(歴史エッセイ117) 】

2012-07-11 18:22:10 | 05 歴史エッセイ

平家側には大勢が出演しているのに、源氏は義朝とその子が
三名居るぐらい。

保元の乱で、義朝が実父為義をはじめ、兄弟たちを斬首した
為もあろうが、史実には登場する、主な武士を無視した脚本の
所為と取れる。

頼政は、平治の乱の途中で、義朝を見限るが、光保という大物が
消えている。
光保は、例の信西が穴に隠れているのを、発見し首を斬った人物。

源氏に同族相討つ傾向があったことは事実で、悪源太義平も、
関東で叔父(義朝の次弟)義賢を斬った前科を持つ。

ドラマとはいえ、義朝が気の毒に見えてくる。

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【 平氏は桓武、源氏は清和だけじゃない(歴史エッセイ116) 】

2012-07-10 17:48:26 | 05 歴史エッセイ

源平といえば、保元・平治の乱で討たれた源氏の仇を、
小児ですらなかった牛若丸が、源九郎義経と成って、
壇の浦で平家滅亡の歴史となるが、多くの子や孫の処置に
困った末に、皇族から外して源平両氏を名乗らせた天皇は
桓武・清和両帝の他にも多くいる。

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【 大河ドラマの造りばなし(歴史エッセイ115) 】

2012-07-10 15:08:40 | 05 歴史エッセイ

加茂川?の畔での、清盛と義朝の一騎打ち。
現実にはあり得なかったこと。
いかに清盛が主題でも、あれはあり得ない。
もし本当に一騎打ちがあったら、義朝が簡単に
清盛のクビを取り、平治の乱の結末は変った
歴史になったであろう。

清盛の不人気か、大河ドラマの不振が原因か、
神戸の観光タクシーに人が来ていません。

ついでに、重盛と義平の一騎打ちは、
史実にあったが、重盛はひたすら逃げに逃げただけ。
悪源太の異名を取った、義平にかかっては、公卿同様の
重盛に勝ち味は皆無であった。

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【 平治の乱 (歴史エッセイ114) 】

2012-06-05 14:38:32 | 05 歴史エッセイ

保元の乱だけでは、片手落ちだから平治の乱も書く。
3年が経った1159年に、勢力を大きく欠いた源氏と
逆に勢いを伸ばした平家が争った戦である。


今回も信西の企みなどが原因として上げられるが、
実際は藤原氏の権勢を、清盛の平家が奪い取った結果を生んだ。


保元の乱でのヒーローは、鎮西八郎為朝であったが、
平治の乱でのそれは、悪源太義平である。


清盛の長男、重盛と義平が、御所の前で左近の桜、右近の橘を
めぐり戦ったと伝えれれているが、早く死んだ者は美化される代表で、
重盛に悪源太の名で知られた義平に勝てるはずがない。


ただ桜と橘の二本の木をめぐって、重盛はただ逃げに逃げた。


義平は若くして、父義朝の命で、義朝に代わって坂東武者を
統御していた、叔父義賢を討ったことで、悪の呼び名を得た豪の者。
重盛ごときに、手を焼いたとも思えない。
弓矢で勝負したら、あっけなく義平が勝ったであろう。


それじゃ「平家物語」にならないから、一騎打ちをさせただけのこと。


「時は平治、地は平安、そして我らは平家なるぞ」と、重盛に叫ばせないと
物語が完成しないのである。

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【 保元の乱は保源の乱(歴史エッセイ113) 】

2012-05-31 13:14:00 | 05 歴史エッセイ

ただ今NHKの大河ドラマが進行中の、
後白河天皇が、崇徳上皇と対立する保元の乱だが、
ボクは小学校の三年生の頃から、病弱で遊ぶ友達がなく、
毎日のように、学校から図書館に通い、歴史本を借りて
読みふけっていた。

親切な司書のオジサンがいて、ボクの席まで来ては、
難しそうな箇所を教えてくれていた。

平家が清盛の下にまとまって、天皇側に就いたのに対し、
現時は為義が一族を率いて、上皇側に就く。
為義の長男義朝だけが天皇方に奔り、結果は天皇方の
夜討ちが成功して勝利する。

乱の後の処理で、義朝は父為義をも斬首するが、
八幡太郎義家の系譜は保たれた。
すなわち、源氏を保ったから、保源なんだと、小四のボクは
思いこんでいた。

僅か三年の後に、平治の乱が起きる。
為義に殉じた、義朝の弟たちはみんな居ない。
せめて末弟の、鎮西八郎為朝だけでも、健在だったら、
平治の乱で、源氏の大敗は免れたと思えてならない。

平治の乱は、まさに平家が勝利して、天下を治めるための乱であった。

源氏の血は、同類相打つ、困った血である。
義朝の長男で、悪源太として知られた義平は、叔父の義賢を殺す。
義賢の遺児が、木曽に逃れて、いち早く打倒平家に立ち上がった
あの木曽義仲である。

その義仲を、頼朝は弟の範頼に軍を預け征討を命じるが、範頼は弱い。
そこで颯爽と登場するのが、源九郎義経である。
義経は従兄弟に当たる、木曽義仲を討伐する。

鎌倉には義仲の子、大助が人質として送られていたが、頼朝は幼い大助をも
容赦なく殺してしまう。

この辺り、源氏の系統は、同類相打つ困った争いを優先する。

範頼が手をやいた平家追討は、どうにも進行しない。
結局は義経の、神業とも思える奇策の連続で、平家は壇ノ浦で滅びる。

狡兎死して走狗煮らると、漢書にある。
頼朝は末弟の義経の京での人気に、大いに男のジェラシーを燃やす。
戦の最大の功労者が、吉野山から安宅の関を通り、平泉の藤原氏を頼っての
長い逃亡の旅にの末に、自刃の道をとらされる。

結果は鬼嫁政子の実家、北条氏の天下を呼び、頼朝の系譜は頼家・実朝の
二人の子が、相次いで殺され、ここに源氏嫡流は絶える。

すべては、義朝にはじまる源氏の同士討ちの結果である。

源氏を継いだと称した足利氏も、尊氏が弟の直氏を殺すし、
こちらは源氏の系譜を騙った徳川も、家光が弟忠長に対する子ども時代の
ジェラシーに耐えられず、死に追いやるのである。

まあ、徳川が源氏の別流新田氏の血を引くというのは、まったくの騙りである。
よくも十五代も持ったものだ。

明治維新まで続いた源氏の系統は、常陸から秋田に移封された佐竹氏だけである。

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【 頼朝がキライ(歴史エッセイ112) 】

2012-05-01 15:39:28 | 05 歴史エッセイ

義経には同情もあって贔屓するが、頼朝は好きになれない。
それ以上に北条政子が嫌な女だとの想いが強い。

頼朝は従兄妹の木曽義仲と連携すべきであった。
それを義経に撃たせたのは、同族として頼朝の狭量を見る想いで
どうにも好きになれない。

本来なら、日本の歴史は源義仲が平家を倒して、天下人となったと
書いてあっても不思議ではなかった。
そうなれば、少なくも頼朝の源家が三代で途絶え、北条氏に天下を
取られることもなかった。

義経は義仲と境遇が似ている。
共に幼くして、世を忍び落ち伸びた体験を持つ。
お互いに従兄弟同士の仲ではあるし、協力できたと思う。

木曽の軍勢が、京都で乱暴狼藉を働いたというが、藤原氏の栄華が
続いた歴史の中で、武士の台頭があったのだから、平家だって同じ
事をしていた筈だ。

木曽から義仲について来たのに、そんなにワルは居なかった。
多くは京に登る軍勢と聞いて、進軍の途中から参軍してきた悪党どもの
仕業であったろう。


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【 源平となれば(歴史エッセイ111) 】

2012-05-01 14:43:39 | 05 歴史エッセイ

大河ドラマは相変らず見る気がしないし見てもいない。

同じNHKに「家族に乾杯」というのがあり、屋久島を訪れる番組だったから
暇つぶしに見ていた。

鶴瓶とともに出ているのが、まだ18歳の武井咲という子で、なんと常盤御前
の役だという。

源氏の棟梁義朝の子を三人産み、清盛の女児をも産まされた、歴史に登場
する悲劇の女性の代表的な一人である。

もっと明確に言えば、彼の牛若丸、長じて義経の母親である。

源平という言葉を聞くと血が騒ぐ。小学生時代の歴児の名残である。

源氏の方に贔屓するが、源氏の中でも頼朝は大嫌いな人間で、判官びいきで
義経ファンという、単純なヤツがボク。

頼朝の代理人としての義経は戦の神の如き存在だった。
それが、自分のための戦に変った瞬間から、やる事為す事うまく行かない。

歴史上にも稀な、運の反転である。

司馬遼太郎さんの作品の中で、「義経 上下」は未読だった。
土曜日に神戸元町の海文堂で購ってきたから、目下ベッドに置いて睡眠薬の
代わりにしている。

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【 天智も不思議なことが多い人物(歴史エッセイ110) 】

2012-01-12 18:49:05 | 05 歴史エッセイ

後に平安京が出来たから、大津といっても京都の傍じゃない
かで済むが、
天智が近江朝を開いた時点では、飛鳥から大津
とは、突拍子も無い辺地であった筈。

御陵の中に沓の片方だけとは前述したが、天皇の地位にある
者が狩に出るのに
供をする十名ぐらいは居って当然。

中大兄皇子という、即位前の名前からも、「中大兄」すなわち、
「中」で兄が居たことを
示唆している。
天武の母は半島から来た人とは、知られたことだが、本当は
異母兄弟の
天武の方が長兄ではなかったか。
それなら娘の持統を年長の義兄に与えたとしても納得がいく。

聖徳太子の時と同じく、蘇我入鹿を自らの刃で倒すほどの
豪気な皇子が、大兄皇子を
名乗ったまま、女帝斉明の新羅
征伐に参加した事に、不思議を感じないか。
新羅との戦は、唐の新羅側参戦もあって、惨敗に終った。

飛鳥から遠く近江に都を移したのは、唐の侵攻を怖れての
逃避と見るのが自然。

異母兄にあたる天武との仲は、良くはなかったと思う。
天武が天智も、その子大友皇子も殺し、王朝を簒奪したという
のが、天皇家に伝えられた
話。
故に桓武は天武の系統を先祖と認めなかった。

日本書記も古事記も共に、年長者とはいえ、母が半島系の人
であったことに、コンプレックス
を抱いていた天武が、自らを
天智の弟と、皇位を継ぐことを正当化させるための編纂命令
であった。

以上がボクの推察である。すべてが自然に見えてくる。

もうひとつ、天武には天智に恨みがあった。万葉の名歌人、
額田王を盗られたことがある。

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【 徳川期に二人の女帝 (歴史エッセイ109)】

2012-01-12 09:31:24 | 05 歴史エッセイ

109代明正天皇と117代後桜町天皇の二人。

明正天皇は前述徳川家康の孫に当たる二代将軍秀忠の娘。
あわや徳川が藤原氏、平氏と同じく天皇の祖父として
宮中にも介入する企てを、
徳川を嫌った後水尾天皇が、明正に譲位して
上皇に退き、徳川の野望を断った。

ちなみに後水尾天皇に対する、水尾天皇は居られない。

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【 【訂正】推古女帝は聖徳太子の叔母が正解(歴史エッセイ108) 】

2012-01-12 08:46:32 | 05 歴史エッセイ

昨日のブログで、聖徳太子を母親推古帝の摂政と書いたのは
誤りでした。

直系の成人男子でありながら、しかも英明な太子と伝えられ
ながら、皇位に就くことなく、
お墓も特に作られず、三人同居の
扱いは異例でしょう。

本当に実在した人なのかと、また山背大兄王の一族皆殺しは
事実ですが、この人が
本当に聖徳太子の御子であったかも、
疑問の多いところです。

古代史には疑問点だらけ。記紀は信用できません。

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【 天皇家が危うい?(歴史エッセイ107) 】

2012-01-11 18:21:58 | 05 歴史エッセイ

今日のアンカーで青山繁晴氏が力説した話題の中に、
女系宮家の創設や、女系天皇を認めよう
といった話が出た。

ちょうど天武=持統系に男児が恵まれず、文武と聖武の他は
元明・元正と女帝が
続いた後も、聖武の娘が即位して孝謙
女帝となり、いったん皇位を淳仁帝に渡したが、
すぐに廃帝と
し、孝謙が再び皇位に帰り咲き称徳帝となったのを最後に
絶えたのと似た
状況にあるわけで、今大騒ぎしているのは
皇室典範という法律に男系男子が皇位に就くと
定めている
からという他愛の無い論点であって、そんなものは皇室典範
を書き直せば済む
ことだと思う。

の時も天智の子孫の中から光仁帝を見出し、その子桓武
が継いで平安朝が長く続いたわけで、
徳川期にも秀忠の娘
和子を押し付けられた後水尾帝が、和子との間に娘が出来た
のを
幸いとして退位され、その娘に譲位した例がある。

聖徳太子にいたっては、成人男子でありながら最後まで皇位
に就けず、母親の推古女帝の摂政として終った。
その子山背大兄王の子や孫たちはすべて蘇我氏によって
自死に
追いやられている。
つまり聖徳太子には祀ってくれる子孫がいないのである。

当時は蘇我氏専横の時代であった。
ボクは聖徳太子その人が存在しなかったのではないかと
疑っている。

話が飛んだが、問題を天皇家に戻して、あまり騒ぎ立てるの
は皇太子や秋篠宮家に
対しても不敬のきわみと言うべきで、
皇室のことは先ず皇室のお考えに重点を置くべき
と考えて
いる。

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