おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

杉本文楽 @ 神奈川芸術劇場

2011年09月13日 | 文楽のこと。

杉本文楽@神奈川芸術劇場 2011/8/14 (もう、一カ月以上も前!

 

杉本博司氏演出による文楽・曽根崎心中を、今年オープンした神奈川芸術劇場で見た。もともとは3月に上演される予定だったものが、震災の影響で延期。そう、あの頃は、計画停電があったりして、首都圏も混乱のさなかにあったんですよね。延期になってチケットの値段が上がりました。芸術劇場のこけら落とし公演として補助金が出る予定だったのが、年度が替わってしまったので出なくなったとか…。興行主の都合で延期したわけではないんだし…ホント、お役所って融通効かないなぁ。

 

劇場の中はとっても今っぽくてステキでしたが、自分の席にたどりつくまでの動線がイマイチ。大ホールは建物の510階部分で、5階まで遅くて狭いエスカレーターで上がらなくてはいけない(一応、エレベーターもありましたが…)。劇場のキャパに対して入場口が狭いし、チケット切ってもらったあとにそれぞれの席に近いドアに向かうための動線もしっくりこなかった。「建物そのものがアート」という発想で、キレイに作られているのですが、利用者の快適さもアートの一要因に加えてほしいな…という感じ。

 

国立劇場・国立文楽劇場での定期公演とは違って、演出家・杉本氏とのつながりで見に来ている方も多かったようです。定期公演の時よりも、なにか、華やいだ雰囲気…というか、おしゃれな人が多かったし、いい匂いがした。 

 

さて、肝心の公演は…。杉本氏が新しい試みとして文楽の演出をする以上、定期公演と同じ曾根崎をやっても意味がないわけで、色々と、斬新な試みがありました。観音めぐりでお初の横顔や、寺の名前が映像で映し出されたり…。

 

「面白い!」と思ったのは、舞台の奥行きを使っていたところ。通常の公演での登場人物の動きは、圧倒的に上手(かみて)と下手(しもて)を結ぶ線にそったものが大半を占めていて、わりと平面的な印象なのですが、杉本文楽は三次元。舞台奥からお初が歩いてくると、だんだん顔の輪郭がはっきりして、表情が見えてくる。見るモノに「近づいてくる」という感覚は新鮮でした。ただ、私はたまたま前の方の席だったから臨場感を味わえましたが、あの大きなホールの後方の席の人には、近づいてくる実感も湧きづらいし、そもそも、人形の表情が見えなかったかもしれないなと思います。

 

天満屋の段の暖簾の美しさが際だっていた。通常の文楽公演でも暖簾はしばしば出てきますが、所詮小道具は小道具という程度の存在。しかし、杉本文楽では有無をいわさぬ存在感。鮮やかな緋色が「郭」という別世界を象徴しているようでもあり、こういう斬新な表現の仕方もあるのだな―と思いました。

 

手すりなしで、人形遣いの足元までオールスルーで見せていたのも新鮮。主遣いも高下駄を履かずに草履だったので、その分、足遣いさんはいつも以上にキツかったのではないでしょうか。さらに、小道具を出す人も、なるべく観客の目に触れないようにいつもとは違う動きを強いられたと思います。定期公演でこういう演出を取り入れることはないだろうし、その必要もありませんが、でも、普段は見えないところが見えるというのは、面白い趣向でした。ただ、それが、心中の物語の演出として必要な要素ではなかったと思います。

 

 他にも、「パーツ」としては興味深いことはいっぱいありました。でも、正直なところ、1つの物語として、作品として、心に迫るものがあったか―というと、そうでもなかったなという印象なのです。

 

 例えば、嶋さんと清治さんという、本公演ではありえない組み合わせの床―始まる前は「いったい、どんな物語を紡ぎ出してくれるのだろうか」というワクワク感がありました。清治さんのナイフのように鋭い三味線の音色に、嶋さんの情感たっぷりの語り、共に、独自の世界を持った二人がどのようにぶつかり合い、高めあうのだろうか―。でも、実際のところは、激しいぶつかり合いもなく、譲らない二人(私の勝手な想像ですが…)が、ほどほどに大人の妥協をしていて、切なさも悲しさも響いてこない。

 

 そもそも、清治さんが三味線を弾くのにメガネをかけているというのが、なんとも違和感でした。今回は、新しい作曲をした部分もあり、慣れ親しんでいる曾根崎とは違うので譜面を見ながらの演奏。清治さんだけではありません、みんな譜面を見ているから、観客からは三味線さんの頭頂部ばかりが見えてしまう。個人的なシュミですが、やはり、床の上にいる人は、シャキッと背筋が伸びて、キリリとした表情でいらっしゃるのがカッコエエのです。

 

 そして、これは言っても詮無きことですが、やっぱり、ナマ音の文楽をやるには天井が高く、会場が広すぎ。大夫の声も、三味線の音もなんとなく拡散して迫力がなかった。

 

 細かい部分は、いちいち挙げていても切りが無いし、あまりにも個人的なシュミの問題ではありますが… 「最初」と「最後」だけはメモしておこう。

 

本公演、地方公演で何度も曾根崎を観ているけれど、何度観ても、私は「はすめし」屋の窓辺にお初の横顔が見える登場シーンが大好きなのです。中盤以降、2人が心中へと追い込まれていく展開の中では、お初は「度胸の据わった姐さんキャラ」として描かれていますが、「はすめし」屋のシーンだけは、徳兵衛が好きで好きで仕方ない恋するカワイイ女。恋するお初を見て、一緒に、胸がキュンとしてしまいます。でも、今回の舞台では、お初の「カワイイ」面はほとんどなかったなぁ。ずっとクールなままなのが物足りなかった。

 

私の中のbest of 曾根崎は、20102月公演。天神森でいよいよ心中しようとする場面。2人の身体を結びつけるための長い紐を作ろうとしていて指を切ってしまったお初を気遣う徳兵衛。これから死ぬ2人が指先の血におろおろし、最後の「生」を確認するのが痛々しくも、エロチックだった。そして、お初を固く抱きしめて、自らの首に刃を当てる徳兵衛。2人が息絶えた瞬間、会場は無音となる。大夫の声も、三味線もない。観客も、拍手をすることすら忘れて、あまりの美しさと切なさに息を呑む。

 

今回は、2人が死んだ後も、鳴り物が続いていた。個人的には、全編を通して、そこが一番、興ざめだった。「無音」、それこそが、死を象徴するのに…。それに、お初が指を切る場面、あったっけ? 思い出せない。少なくとも、エロチックには描かれていなかったと思う。2人の死をせかすような寺の鐘の音もなかったな。

 

「結局、文楽ファンって、コンサバなんじゃん!」と言われれば、「おっしゃる通りです」と言うしかありません。でも、杉本文楽を見たことで、「いつもの本公演でやっている曾根崎って、めちゃめちゃ完成度が高いんだっ!」てことがすごくよくわかりました。他者として、客観的に、美しい装置、美しい舞台を見ているのではなく、いつの間にか、物語に引きずり込まれ、感情移入せずにはいられないように、長い年月かかって作り込まれてきているのだと思います。お初の横顔にしても、鐘の音にしても、その全てが、観客を物語に引きずり込むためのフックなのです。

 

その「良さ」が当たり前になってしまうところを、杉本文楽という新しい刺激を得たことで、「良さ」を再認識できた意味は大きいと思います。今後の本公演の曾根崎がさらに磨き込まれていけば、文楽ファンにとっては嬉しいことです。そして、杉本文楽で文楽デビューした人が、本公演の面白さを知ってくれれば、なお、素晴らし!

 

 最後のカーテンコールで、簑師匠が登場した時、黒衣の裾の部分に、小さな赤い飾りが付いているのが見えた。お茶目っ! 最後にそれが見れたのが嬉しい気分で、会場を後にしました。

 


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