郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

喜歌劇が結ぶ東西

2005年12月07日 | 日仏関係
昨日はヴェルディのお話でしたが、第二帝政期のパリで、もっとも流行った歌劇は、実のところ、ジャック・オッフェンバックのオペレッタ、喜歌劇です。
一番有名なのは、『天国と地獄』で知られる『地獄のオルフェ』でしょうか。

天国と地獄

オッフェンバックのオペレッタというのは、風刺がきいていまして、皮肉なんですけれども、だれをあてこすっているのかしかとはわからない、巧妙な皮肉だったんだそうです。さらにいえば、従来の上品なオペラからするならば、猥雑でもありました。ここらあたり、幕末の歌舞伎にとても似ていると思ったりします。

で、慶応3年(1867)万国博覧会のパリで、訪れた各国の王族が争うように見たのも、オペラ座のヴェルディではなく、ヴァリェテ座のオッフェンバックでした。『ジェロルスタン女大公殿下』です。後に浅草オペラになりまして、日本では『ブン大将』として知られています。

喜歌劇 「ジェロルスタン女大公殿下」

ヒロインのジェロルスタン女大公は、ロシアのエカテリーナ女帝をモデルにしたようではあるんですが、皮肉られているのは、上演当時の欧州各国の王侯貴族です。しかし、皮肉られているはずの当の王族たちが、争うように見物しました。
といいますのも、ヒロインを演じるオルタンス・シュネデールが、歌が上手かったかどうかはわかりませんが、非常に魅力的であったから、のようです。
イギリスのプリンス・オブ・ウェールズ(エドワーード王太子)、ロシアのアレクサンドル二世と二人の皇子、エジプト副王イスマイル・パシャ、などなど、みんなオルタンスに夢中になり、オルタンスは、王侯の通過儀礼と言われたんだそうです。

昨日もちょっと触れたエミール・ゾラの『ナナ』なんですが、お話はちょうど、1867 年万博のパリにはじまり、普仏戦争開戦のパリで終わります。主人公は、歌は下手だけれども性的な魅力にあふれた若い女優のナナです。

名画デスクトップ壁紙美術館 マネ《ナナ》

ナナは、女優であると同時に、クルチザンヌ、ドゥミモンデーヌともいいますが、いわゆる高級娼婦です。

第二帝政時代 の高級娼婦

エミール・ゾラは、ナナのモデルとして、いく人ものクルチザンヌの話を取材し、複合したようなんですが、女優としてのナナのモデルは、あきらかにオルタンス・シュネデールで、万博のパリを訪れたプリンス・オブ・ウェールズが、ナナに夢中になり、楽屋を訪れるシーンがあるんですね。ナナの出演する劇も、ギリシャ・ローマ神話の神々を俗世間におろして茶化したような筋立てで、オッフェンバックの『地獄のオルフェ』などを意識したものでしょう。
この時代のパリを見るのに、『ナナ』はとても参考になります。
上品な貴婦人方の話題は、ナナの演じるオペレッタを裂け、イタリア座のイタリア語で演じられる品のいいオペラだったりするんですが、その夫や息子はナナに入れ上げ、品がいいはずの貴婦人も、若い愛人をこしらえて遊んでいたり。
こんなパリに、水戸烈公の子息である徳川民部公子がいて、公子のお付きには、水戸の攘夷武士がいるんですから、おもしろいですね。
公子もどうやら、『ジェロルスタン女大公殿下』を、ご覧になられたようです。

民部公子は、元治元年、わずか11歳で京都へ出て、禁裏守護の水戸藩士の将となります。兄が将軍となり、パリ万博に使節団を出すことになって、年若い弟の起用を思いつくんですね。
薩長連合が結ばれ、孝明天皇が崩御され、政局がゆれ動く動乱の京都から、突然、パリの社交界です。
しかし、若いということはすごいことで、ほどなく公子は慣れて、楽しまれたんですね。

これも昨日名を出した後の駐英大使、林董ですが、彼が万博のパリを訪れたのは17歳のときで、公子よりは二つ年上ですが、若いんです。
彼の実兄に、松本順がいます。司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』の主要登場人物です。オランダ軍医のポンペに学んだ蘭方医ですが、京都時代から新撰組と交流があり、土方のことも語り残しております。
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帝政パリの『ドン・カルロス』

2005年12月06日 | 日仏関係
スエズ運河開通祝賀にオペラが注文されたなら、その2年前、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会で、オペラが注文されないはずはありません。以前に、『オペラ座の怪人』の感想で記したと思うのですが、帝政最後のこの博覧会には、世界の王族が集い、舞踏会やら競馬やらオペラやら、華やかな社交がくりひろげられたのですから。
もちろん、その王族の中には、最後の将軍・徳川慶喜の弟、徳川民部公子もいます。

これも以前に記したように、このとき、オペラ・ガルニエはまだ完成していません。このときのオペラ座は、1821年に仮に作られ、サル・ル・ペルティと呼ばれていた劇場です。
劇場内部の雰囲気は、オペラ・ガルニエに似て、大円天井に天井画が描かれ、巨大なシャンデリアが下がっているという豪華なものだったそうです。といいますか、この様式を、オペラ・ガルニエが引き継いだんですね。
このとき、パリオペラ座の注文に応えて、ヴェルディが作ったオペラが、『ドン・カルロス』です。パリオペラ座の注文ですから、フランス語ですし、バレー入りです。
 オペラにバレーが入るのは、現在の感覚からすれば変な気がするのですが、19世紀前半、王政復古のフランスでは、バレー入りの華やかなグランド・オペラが全盛でした。それがかなり長く、パリオペラ座では続くんですね。
 ヴェルディなども、パリで上演する場合は、バレーを入れるわけです。なんでも、オペラ座の踊り子を贔屓するパリの紳士方が、バレーなしでは承知しなかったからなんだそうですが。
『オペラ座の怪人』でも、プリマドンナが、バレーの場面が多いと文句をいったりしていますよね。
最近、この初演に近い形の『ドン・カルロス』がパリで上演され、それがDVDになったと知って、買ってみました。
フランス語ですが、残念ながらバレーは入っていません。それと衣装や背景が、現代的すぎるというんでしょうか、初演では絢爛豪華だったはずなんですが、地味で、ちょっと初演の雰囲気を味わうというわけには、いきませんでした。

オペラ「ドン・カルロス」

粗筋を書く気力がないので、リンクさせていただきました。
原作となったのはシラーの劇で、舞台は日本でいえば太閤秀吉のころです。
主人公、ドン・カルロスの祖父は、ハプスブルグ家のカール五世なんですが、カール五世の母親はスペイン王女で、ハプスブルク家の元々の領地に加えてネーデルランド、フランドル、スペインの領土すべてを相続し、神聖ローマ皇帝になったというお方です。
これに敵対したのがフランスのヴァロア家の王で、神聖ローマ皇帝に名乗りをあげ、猛烈な選挙運動をくりひろげたりもしたわけです。
結局、カール五世は、ハプスブルク家の元々の領土と神聖ローマ皇帝の名乗りは、弟に譲り、息子のフィリッペ2世、つまりドン・カルロスの父親には、スペイン王の地位を譲ります。

で、オペラ上演当時、19世紀の欧州なんですが、ハプスブルク家は、オーストリア・ハンガリー帝国の皇統として存続している一方、スペイン・ハプスブルク家の方の血統は絶え、フランスのブルボン王家がスペインに入って久しかったんですね。

この『ドン・カルロス』、パリ初演の評判は悪かったそうなのです。長すぎたのと地味だったのが原因、ということなんですが、スペイン貴族出身のウージェニー皇后は、腹を立てて途中で席を立った、というような話もあるようです。
予言的、といっては言い過ぎかもしれませんが、この三年の後、帝政崩壊のきっかけとなった普仏戦争は、スペイン王位継承問題が直接の原因となって、起こるんですね。

スペイン王国2 普仏戦争の原因

スペインへの思い入れが深い皇后が、積極的に口を出しただけに、敗戦後のフランスでは、開戦の責任を元皇后に求めるようなむきもあったようなのですが、それはどうでしょうか。エミール・ゾラの『ナナ』に描写されていますが、パリ市民は熱狂的に開戦を支持したのですし、ねえ。
イギリスに亡命して余生を送ったウージェニー皇后は、華やかに君臨した万博のパリで、遠国から来訪した年若い徳川民部公子に接したことを終生忘れず、その晩年まで日本に好意を抱いていたと、やはりこのとき幕府の在英留学生としてパリを訪れていた林董が、語り残しています。
林董は、榎本武揚の親戚で、帰国後函館戦争に参加しますが、後に許されて新政府に出仕し、イギリス大使を長年務め、日英同盟の立て役者となった人です。

最後に、『ドン・カルロス』の感想なんですが、驚いたのは、ドン・カルロスとロドリーグ、男性二人のデユエットです。なんなんだ? これは。情感こもりすぎです。
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歌劇『アイーダ』と皇后

2005年12月05日 | 日仏関係
先日、プラハ国立歌劇団の『アイーダ』を見てきました。
実は、原語の生のオペラを見るのは初めてです。子どもの頃、日本語のオペラは見たことがあるんですけどね。『マダム・バタフライ』でした。
いえ、ちょうど、幕末物語に絡む時期のオペラですし、少しでも、当時のオペラ見物の雰囲気がわかるかな、と。会場は地方の文化会館ですし、わかるわけはないんですけれども、一応、ロングの黒手袋に毛皮のストール、真珠の三点セットで決めてみました。ああ、毛皮のストールはネットオークションで、そこいらのコートよりはるかに安い値段で手に入れた中古品です。

プラハといえば、オーストリア・ハンガリー帝国の弟二の都。パンフレットによれば、国立歌劇場は、1887年、ドイツ人が創設したそうですから、ハプスブルク朝貴族の社交場ですわね。クーデンホーフ伯爵はオペラ好きだったそうですから、妻となった光子さんも、出かけたはずですね。たしか、プラハに親族を訪ねた記録はありますから。
しかし、こんな地方都市にまでプラハから歌劇団が来るなんて、幕末明治は遠いですねえ。
会場はともかく、小規模ながらきっちりバレーも入れた演出で、公演そのものには満足しました。

アイーダよもやま話

凱旋行進曲が聴けるので、上のサイトをリンクさせてもらいました。
ここにあるように、『アイーダ』は、スエズ運河開通を祝うオペラとして、エジプトからの注文で、ヴェルディが作ったものですが、付け加えるならば、スエズ運河は、ナポレオン三世、第二帝政フランスの国策事業だったんです。
先頭に立ってこの事業に取り組んだフランスの元外交官フェルナンド ・ド・レセップスは、ウージェニー皇后の親戚です。
開通の祝賀には、ウージェニー皇后が出席しましたが、これにあわせて注文していた『アイーダ』は、結局間に合わなかったのです。

スエズ運河の完成と買収

スエズ運河の完成は1869、明治2年。その翌年には普仏戦争が起こってフランス帝政は瓦解します。『アイーダ』が完成したとき、ウージェニー皇后はイギリスへ亡命の身でした。
いえね、あの勇ましい凱旋行進曲は、世紀の運河開通祝賀にいかにもふさわしいんですが、悲劇的でしめっぽい結末は、祝賀オペラというよりも、栄華を誇ったフランス第二帝政への挽歌、に見えたり、してしまうんですよね。
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『オペラ座の怪人』と第二帝政

2005年10月19日 | 日仏関係
映画「オペラ座の怪人」

また突然書きます。
しばらく以前から、幕末から明治初頭にかけての江戸とパリを調べています。
幕末を舞台に物語を書きたいと20年来思っていて、書きかけたこともあるのですが、どういう角度から書けばいいのか、なかなかまとまりがつかなくて、上手くいきませんでした。
それが、ちょっとひらめいたものがありまして、これならいけるかなと、書きはじめたところです。
これはご存じの方も多いと思うのですが、幕末もかなり押し詰まった時点で、フランスが幕府を応援し、イギリスが薩摩を応援するんですね。もちろん、応援するにはそれぞれの思惑があるんですが、そういった政治的意図とは別に、当時のイギリスの気風は薩長側に親近性があり、フランスの気分は江戸の幕臣になじむものがあったように思えるのです。
つまり、当時の江戸とパリには、相通じる雰囲気があったのではないかと。

それで、映画「オペラ座の怪人」です。
実のところ、ガストン・ルルーの原作も読んでいませんし、ミュージカルについても、ほとんど知らなかったにもかかわらず、なぜか頭の中にイメージが出来上がっていました。
19世紀末のパリのオペラ座の地下に醜い怪人がいて、その怪人が、歌姫だか踊り子だかの美しい少女に報われない恋をする、というだけのストーリー認識の上に、ミュージカルでは、怪人がせつない恋心をオペラ「真珠採り」のアリア(「耳に残るは君の歌声」)に託して歌いあげているらしい、という話を小耳にはさみ、どうも、そこに昔TVで見た「天井桟敷の人々」のイメージが重なったらしく、古典的な報われない恋の物語だと思い込んでいたんですね。
2月に、映画を見に行きました。いえ、悪くはなかったのですが、勝手な思い込みとは大きくちがっていました。
で、先日、付録映像付きのDVD『オペラ座の怪人 コレクターズ・エディション (初回限定生産)』を買って見るまで、なぜちがうのかもわかりませんでした。
ミュージカルには、2種類あったんですね。「真珠採り」のアリアが歌われるのは、ケン・ヒル演出の「オペラ座の怪人」で、これは、さまざまなオペラのアリアを取り入れたもの。
このケン・ヒル版に触発され、アンドリュー・ロイド・ウェバーが全曲オリジナルで作曲し、演出した「オペラ座の怪人」が、今回の映画のもとになったもので、どうりで、「真珠採り」のアリアは歌われないはずです。
2月に劇場で見たときには、思い込みゆえか、「なにかちがう」という違和感が先立ったのですが、DVDで見返してみると、これはこれでなかなかいいのではないか、という気になりました。
違和感の最たるものは、ファントム(怪人)がいい男にすぎたことでした。ジェラルド・バトラー演じるファントムは、まったく醜くはなく、といいますか、あの程度の特殊メイクでは、本来の容貌を損なうことなく、むしろ人妻でもよろめきそうなくらい、格好よくて、魅力的でありすぎる。
これでは、魅せられてあたりまえで、母にさえ愛されることがなかった怪人の思いにせつなくなる、ということはありえません。
しかし、あらためてDVDを見てみると、この映画の主旨からいけば、ファントムはこれでいいのかもしれない、むしろ主人公の歌姫クリスティーヌが清純にすぎるのではないか、と思えてきました。
一つには、附録で、オリジナル・ミュージカル初代のクリスティーヌ役、サラ・ブライトマンの映像を見たこともあるでしょう。アンドリュー・ロイド・ウェバーは、妻サラのためにこのミュージカルを作ったんだそうで、たしかに、若き日のサラの熱唱はすばらしいものです。
ロイド・ウェバー版の「オペラ座の怪人」は、怪人(ファントム)が主役なのではなく、クリスティーヌが主役なのです。主題歌で歌い上げられているように、怪人は、クリスティーヌの心の中にいます。
芝居にしろダンスにしろ歌にしろ、観客を陶然とさせる天才には、なにかが取りついているのではないか、と思えることがしばしばあります。例えばニジンスキーのように、浮き世離れしていて、日常を生きるに不器用であり、見方によってはデーモニッシュで、「よき夫でありよき父である」ことはできないのです。
幕末の歌舞伎にも、そういう役者がいました。名女形、三代沢村田之助です。壊疽で足を切り落としてなお、執念で舞台に立ち続け、その舞台の美しさは伝説になりました。
つまり、歌姫クリスティーヌをはさんで、怪しく官能的な魅力を持つファントムと、白馬の騎士そのままの青年ラウルが競う三角関係とは、芸に打ち込んで、喝采をあびつつも孤独な陶酔をとるか、「よき妻よき母である」ことを選び、平凡でも豊かな日常に幸せを見出すか、という、若き歌姫の心の葛藤の視覚化なのです。
映画のクリスティーヌ役、エミー・ロッサムは、パトリック・ウィルソン演じる熱血王子ラウルと並ぶと、実にぴったりくる若さで、もしも設定が、ラウルというできすぎた恋人がありながら、迫害されてきた醜いファントムの運命に心をゆさぶられ、博愛の情に駆られる可憐な乙女、という素直なものであったならば、サラ・ブライトマンよりもお似合いでしょう。
しかし、そうであるならば、ファントムが魅力的であっては、見る者を説得できません。危険な魅力的をただよわせるファントムは、「歌うことの官能の陶酔に身をゆだねることは、人並みの幸せを捨て、怪人となることでもあるのだ」という意味でクリスティーヌの分身の象徴であり、そのファントムにふさわしいクリスティーヌは、破滅を知りつつもなお魅せられていく複雑な心の陰りを、表現する必要があるのです。
その点で、エミー・ロッサムは若く、演技が瑞々しすぎて、サラ・ブライトマンの妖しさにはかないません。
しかし、まあ、映画ですからね。映像の美しさは格別ですし、ファントムの危険で怪しい魅力と、情熱的な白馬の騎士ラウルの魅力と、素直に、二人の対照的、かつ典型的な男性像を楽しめばいいのかもしれません。
オペラ座の地下深く、蝋燭の火が水にゆらぐファントムの隠れ家は、胎内の視覚化でしょう。花に埋もれる歌姫の化粧室の鏡の向こう、仙道を馬で、そして水面をゴンドラで、クリスティーヌがファントムに地下深く導かれていく場面は、胎内回帰願望をくすぐる世紀末の耽美、でした。
おとぎ話として見ればいいのでしょう。フロイド的で恐縮ですが、クリスティーヌは茨の城に眠るエレクトラコンプレックスのお姫さまであり、ファントムは、娘が離れていくことを許容できず、魔人となって王子さまの訪れをはばむ父親、なのでしょう。

で、話をもとにもどしますが、「オペラ座の怪人」は、パリのオペラ座、オペラ・ガルニエを舞台にしています。設定では、1870年のお話です。1870年は明治三年で、維新の戦火がおさまって間もなくのころ。
原作がそうなっているのでしょうけれども、実のところ、オペラ・ガルニエが完成したのは1875年なんですね。
にもかかわらず、なぜ1870年なのか。
答えは簡単です。1870年には普仏戦争が起こり、栄華を誇った第二帝政は瓦解して、続いた悲惨な内戦がパリの浮かれ気分を吹き飛ばしてしまうのです。
経済の発展には、政権の安定が不可欠ですから、フランス革命による政情不安により、フランスの産業、経済は、イギリスに大きく遅れをとります。以降、ナポレオンの帝政、王政復古、共和制と、ヨーロッパ全土をまきこんでフランスは揺れ動きますが、1852年、ナポレオン三世による第二帝政がはじまり、それまでの遅れを取り返すかのような好景気にフランスはわきます。
ペリーの浦賀来航が1853年(嘉永6年)ですから、フランスの第二帝政は、そのまま日本の幕末なのです。
この第2帝政期、パリは大きく変貌をとげます。中世の面影を残す都市の改造に着手したのは、セーヌ県知事、オスマン男爵で、道路を大きくひろげ、石畳を敷き、清潔で壮麗な近代都市をめざしたこのパリ大改造は、オスマン大改造と呼ばれています。
オペラ・ガルニエは、1862年の着工です。オスマン大改造の一環であり、ナポレオン三世好みの絢爛豪華なバロック様式が採用され、第二帝政に花開いたパリの神髄となるべき建築だったのですが、完成したとき、帝政は消滅してしまっていたのです。
共和制を舞台にしたゴシック・ロマンなぞ、気の抜けたシャンパンのようなものでしょう。「オペラ座の怪人」の舞台は、瓦解の予兆の不安を紛らわすように、豪奢な泡沫の夢をむさぼる、第二帝政の最末期でなければならなかったのです。

第二帝政末期パリと、幕末の江戸を結びつける出来事がありました。
1867年(慶応3年)、つまり維新の前年、普仏戦争の4年前に行われた第二回パリ万国博覧会です。
これは、日本がはじめて参加した万博で、幕府は、将軍の弟・徳川民部公子を筆頭にした使節団をパリに送りこんでいるんですね。薩摩と佐賀も参加し、倒幕に傾いていた薩摩藩は、パリでも幕府に噛みついたりしているのですが、江戸の商人やら芸者やら芸人やらも、万博でにぎわう花の都パリへ、くり出しています。
万博といえば、近代化と進歩の祭典、であるはずです。
しかし、第二帝政下のこの万博には、反近代の夢がただよっていたのではないでしょうか。ちょうど、オペラ・ガルニエを代表とするこの時代の建築が、書き割りのように、過去への豪奢な夢をつめこんでいたように。
パリの万博会場のまわりには、広大な庭園がしつらえられ、その庭園には、エキゾチックなオリエントのパヴィリオンが立ち並んでいました。江戸の水茶屋も、その中にあったのですが、それは、夢のように不思議な空間でした。
また、この万博には、世界各国から王族が集い、華麗な社交をくりひろげ、パリの歓楽に身をひたしました。
その中でも異彩を放っていたのは、身分を隠してパリを訪れた、弱冠22歳の美貌のバイエルン王、ルドヴィヒ2世です。ルキノ・ヴィスコンティの映画「神々の黄昏」で知られるババリアの狂王ルートヴィヒ2世は、フランスの太陽王ルイ14世に憧れ、ワーグナーの描く中世に酔いしれ、その過去への夢を書き割りのような築城に託したことで、身を滅ぼします。
ちょっと意外かもしれませんが、ルートヴィヒの築いた三つの城、ノイシュヴァンシュタイン城、リンダーホフ城、ヘーレンキームゼー城のうち、リンダーホフ城には、直接に、パリ万博の影響がうかがえるのです。
王は、万博終了後にイスラム様式のパヴィリオンの一つを買いとり、リンダーホフ城に運んで再建するとともに、その庭には、万博会場で注目をあびた洞窟のような水族館をまねて、ゴンドラが浮かぶタンホイザーの人口洞窟を作りました。
映画「オペラ座の怪人」のファントムの隠れ家は、リンダーホフ城の人工洞窟に似ていますが、それははからずも、「オペラ座の怪人」の舞台である第二帝政末期の万博に、ルーツを持っていたんですね。
ルドヴィヒの城が壮大な舞台の書き割りであったように、フランス第二帝政の象徴であるオペラ・ガルニエも、最初から舞台の書き割りじみた存在であり、地下の洞窟には、過去の幻影という名の怪人を宿す必要があったのでしょう。

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