風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

稲作と「狐」

2016-02-09 20:59:42 | 歴史・民俗




狐は田の神の眷属だと思われていたようです。



狐塚という地名があちこちにあるようですが、この眷属たる狐を祀った祠があったのかも知れませんね。


稲荷神とはその名のとおり、稲の神様、田の神様、農業神です。その眷属であった狐が、やがて稲荷神と同一視されるに至った。それだけお狐様は稲の普及に尽力したのかもしれません。ある方がおっしゃるには、

「眷属たる狐は、稲の束を加えて、日本中を駆け回った」のだそうですよ。私にはわかりませんが、もしそうなら、大変な苦労をされたことでしょうね。



お狐様が走り回ったどうかはともかく、少なくとも大和国家は、稲作を列島中に広めることを至上命題としていたように、私には思えてなりません。列島中に黄金色の花を咲かせることが、

「神」より与えられた使命だと考えていたのでしょうか。



そう、稲は単なる穀物ではない。神より日本の民にあたえられし格別な「糧」なのである、と信じていた。




「表」側から大和国家が、「裏」からお狐様が、稲作を広めるべく働き続けた。しかし、素直に言うことを聞く輩ばかりではなかったでしょう。


特に「蝦夷」と呼ばれた剛直なる東北の民は強力に抵抗した。

そしてその軋轢は、


悲しい「争い」を生んだ……。




日本人がなぜこれほどまでに、稲というもの、米というものを「特別視」してきたのか。それは国家規模の一大事業だったからであり、その事業を裏側から支えるための、お狐様の大いなる働きがあったのかもしれません。

物心両面から、神より与えられし特別な「糧」を広めようと努力しつづけた。


米を特別視する価値観は、このようにして、日本人の心深くに浸透していったのではないでしょうか。




しかし稲作が広まっていく過程で、多くの争いがあった、多くの人の命が犠牲になったこともまた、事実です。




私はその事実を、忘れずにいたいと思う。


一膳の飯、一粒の米、


大切に、有り難く



「いただきます」








神より与えられし特別なる「糧」、それが「米」。


仇や疎かには、食べられません。






ど○兵衛の方が好きなんだけど……(笑)

DIZZY MIZZ LIZZY [Glory] 1994

2016-02-08 05:45:29 | 今日のメタル









デンマーク最大の成功を収めたロック・バンド、ディジー・ミズ・リジー。

初めてこの曲を聴いた時のインパクトは絶大でした。冒頭のギター・リフの段階でもう、「やられ」ましたね(笑)これはスゲエぞ!と。

どこか哀愁漂うメロディに、絶妙な展開のギター・ソロ。完璧ですわ!

純粋なハード・ロック、へヴィ・メタルとは言えませんが、そんなことはどーでもよろしい。これはね、もうホントに、

掛け値なしの、名曲です。

悪いことは言いません、聴きなさい!聴くべきです!



四の五の言わんで、聴け!!!(笑)

田の神信仰

2016-02-07 09:09:07 | 歴史・民俗



日本文化は稲作農耕が主体であり、日本人は農耕民である。



確かにそうなのですが、だからといって、非農耕の道を選んだ人々のことを切り捨てていいのか?それだって立派な日本の「文化」じゃないか!


私は以前からそう思ってきたし、これからもその考えは変わらない。


ただね、こういう考えを口にする人は、えてして「反天皇」的思想に走りやすい。私はそれは嫌いです。

私はそっちじゃありません(笑)その点は明確に否定させていただきます。


天皇と日本人の関係は、単純に「支配するもの」と「されるもの」という関係ではありません。そこのところを見誤るから、間違った論旨を展開することになる。

非農耕民も決して天皇は否定していなかった。



木地師が所有していた由緒書には、木地師の祖は皇族某の家臣であった小椋某であり、木地氏は皇族某より、日本中の山に入るのを勝手とする許可を得ている、として日本の山中を徘徊していました。現在では、その由緒書は偽書であろうとされていますが、いずれにしろ木地師たちは、皇族との関わりに誇りを持っていた。

非農耕民もまた、皇室を敬っていたのです。その彼らの思いを無視して、「反天皇」的な論旨を展開するのはいかがなものか?


そうした点を見誤ることなく、日本と日本人と日本文化というものを見ていきたい。まったくの素人ながら、そんなことを思う今日この頃です。







さて、田の神信仰です。


水田稲作が入ってきたのは紀元前10世紀頃、と考古学上ではいわれております。それ以前は1万年に亘る縄文文化が日本を席捲しており、大自然森羅万象すべてに神宿るとして敬う日本神道の源流はここにあると思われます。

水田稲作は後発のものです。しかしながら稲作は弥生以降の日本人の社会を形成する基盤となっていき、それに伴って稲作農耕に関わる祭祀が、神道の中心的祭祀となっていきます。

では縄文的祭祀、神観念はまったく否定されてしまったのか?それは違うと、私は思う。



水田稲作は大量の水を必要とします。ではその水はどこから流れてくるのか。



冬の間に山々に積もった大量の雪が、春の雪解けとともに、大量の水を麓に流し、生きとし生けるものを潤わせる。


山の「恵み」によって、稲は育つわけです。人々は山の恵みに感謝し、山の神と田の神とを結び付けた。


山の恵みに感謝する。これは縄文時代の信仰と基本的には変わらないんですね。縄文人たちは山=森の恵みを享受し、感謝しながら暮らしていた。田の神信仰もそれに従するかたちで発展したとみていいでしょう。


さらに森があることによって、水は保水されますから、人々は村の近くの森を整備して「里山」として維持することを心掛けます。この里山で生態系が保持され、人々はこの森の「恵み」をも享受するわけです。

山と森の恵みに感謝する。生業の主体は変わっても、信仰の根本はほとんど変わることがなかったんです。





田の神は冬の間は山にいて、春の訪れとともに里へ下りてくる、とされています。まさに冬の間に積もった雪が、春の雪解けとともに麓へ流れてくるのと軌を一にしているわけですね。

山の神信仰は、そのまま田の神信仰に繋がったわけです。


また、先祖は山に帰るとする、日本古来の祖霊信仰とも繋がっている、という考察も成り立つでしょう。このように田の神信仰の形態の中には、様々なかたちで縄文以来の信仰形態との繋がりを見ることができるのです。





縄文から弥生へ、日本人の精神文化は途切れることなく繋がっていたのです。1万年に亘って続いた縄文文化を舐めちゃいけませんね(笑)



稲作文化のみをもって日本文化とする視点が、いかに狭く軽々しいかということ、わかってもらえるとありがたいです。



日本文化は奥が深いのです。

東北縄文人と農耕

2016-02-06 11:28:16 | 歴史・民俗




九州北部で本格的な水稲農耕が始まったのは、紀元前10世紀ごろだとされています。

稲作農耕はその後徐々に北上していき、紀元前3世紀ごろには関東、仙台平野付近、そして青森県津軽地方にまで伝播されます。



弥生時代、農耕社会のムラは環濠集落といって、周囲に濠や柵を巡らした中に居住域や祭場などを設け、濠外に墓域、さらにその外側に水田が広がっているのが一般的な形式のようです。


濠や柵を巡らしてあるのは、外敵の侵入を防ぐためです。農耕社会の成立とともに、農地や水を巡っての争いが起きることが多くなった。



濠の内側で、有力者の下、人々は暮らし、農耕という土地に縛られた生活の中で、私生活は当然ながら制限され、否応なしに集団行動が強要されていく。



狩猟採集から農耕への転換は、単に食料取得手段の転換だけではなく、社会制度そのものの大きな転換です。稲作農耕への転換は、人々の生活がほぼすべて、稲作を中心にして回っていくということであり、稲作を中心とした政治、経済そして祭祀の下に、日々の生活が営まれていくということです。




1万年に亘る縄文時代、農耕社会へ転換する機会はもっと早くからあった。しかし転換しなかったのは、する「必要」がなかった、からでしょう。





「豊かさ」の指標はそれぞれです。これで十分だと思えば、十分豊かな生活だし、足りない足りないと思い始めたら、いつまでたっても「豊か」にはなれない。


縄文の人々は長いこと、これで十分だと思っていたのでしょう。だからこそ1万年に亘って縄文時代は続いたわけだし、九州で農耕が始まってから関東や東北南部、そして津軽に到達するまで、6~700年近く掛かっているというのも、農耕生活の方が「豊か」な生活だ、などとは、簡単には思えなかったから、ではないでしょうか。


しかしそれでも、最終的には農耕社会への転換を人々は受け入れた。そこに何があったのか。



農耕社会への転換は、祭祀をはじめとする社会基盤を大きく変えていくことにも繋がるし、一度転換してしまえば、それが社会の基盤となるわけですから、二度と「止める」ことはできなくなる。


この転換には、相当な覚悟が必要だった、ともいえます。


その覚悟を決めさせたものが何であったのか。その「鍵」となるのは



やはり「天皇」あるいはそれに準ずる存在、だったのではないでしょうか……。






ところで



仙台平野に展開された農耕社会では、環濠集落というものがなかったようなのです。

集落の形態は縄文時代に準ずるかたちだったらしく、祭祀の形態も縄文からの様式を色濃く残しながら、弥生的な形式も取り入れられているというかたち。縄文的な生活を完全に失ってはいないんですね。

農耕社会の「本場」とは違った独自性を保持していたわけです。


これが津軽に至りますと、祭祀の形態は縄文時代とほとんど変わらず継続されているんです。祭祀が変わらないということは、社会基盤がほとんど変化していないということでしょう。つまり津軽の人々は、農耕社会への転換そのものを受け入れたわけではなく、食料生産手段の一つとして、農耕も取り入れて「みた」わけです。


青森県の農耕遺構である垂柳遺跡をみてみますと、紀元前3世紀ごろから農耕が行われ、これが紀元前1世紀ごろに起こった大洪水で水田が埋まったのを契機として、その後、農耕はまったく行われなくなってしまうんです。以降、北東北では一切稲作は行われなくなり、北海道から南下してきた続縄文文化が、北東北を席捲することになります。



津軽の人々はなぜ稲作を捨てたのか?長いことそれは、「寒冷地」の不便さによるもの、とされてきたし、今でもその説は有力な説として機能しているようです。

しかし考えてみれば、稲というのは基本、夏の作物ですよね?夏に十分な暑さがあれば、稲は育つわけです。


津軽の夏は結構暑い。東北は夏でも涼しいなどというのは、東北を知らない都会人の無知なる思い込みにすぎません。事実、仙台平野の稲作農耕は、途切れることなく継続し続けています。仙台よりは津軽の方が、より北方に位置するとはいえ、津軽の夏も仙台の夏も、暑さはほとんど変わらない。

「寒冷地」だったから稲作を捨てた、農耕を捨てたとする説は、必ずしも妥当とは言えないかもしれません。



東北太平洋側では、夏に「やませ」と呼ばれる冷たい季節風が吹き、夏でも「寒い」ことが往々にしてあります。宮沢賢治の「アメニモマケズ」にある寒さの夏、というのがこれに当たります。

しかし津軽には「やませ」は吹きません。条件としてはむしろ、太平洋側の方が厳しい面がある。

それでも稲作が途切れなかった仙台平野では、稲作というものが単なる食料生産手段ではなく、社会の基盤を成す「システム」として機能していたからでしょう。つまり津軽では、稲作は社会基盤とはなり得なかった。

津軽をはじめとする北東北の人々は、その社会基盤を、あくまでも縄文的な形態の中に置いていたのです。



彼ら縄文の民にとって、稲作農耕などは決して

「魅力」あるものではなかったのです。




こうした縄文の残滓ともいうべき人々は、列島のあちこちにあったでしょう。稲作農耕が列島を席捲していく中で、彼らはその独自性を堅持し、発展させていった。


これもまた「日本文化」です。


日本文化とは多様であり奥が深いのです。



稲作だけが、日本文化の底流ではありません。

「一歩」の勇気

2016-02-05 06:09:24 | つぶやき




私は野球のことはさほどに詳しいわけではありません。

特に最近の選手のことはほとんどわからない。辛うじてわかるのは、ホークスの柳田選手、通称ギータくらいか。あの方も、杏果推しですからね(笑)


そんな私でもK氏のことは知っています。もう一人のK氏とともに、高校野球の大スターでしたし、プロに入ってからも目覚ましい成績を上げていました。

特に、宿敵(?)巨人を倒して所属チームが日本一になったときの涙は、よく憶えています。



そんなK氏がどのような心の軌跡を辿ったものか、私には知るすべもありませんが、つまりはK選手も、



「落とし穴」に落ちたのだ。



どんなに強そうな人でも、心には弱い部分がある。その弱い部分にポッカリ空いた穴の淵に立って、あと「一歩」を踏み止まる勇気が持てなかったのだ。

その場だけの安らぎのために、その場だけの快楽のために、


それまでの人生すべてを、棒に振ってしまった。



あと「一歩」を踏み止まる勇気があれば……。




大きな業績を残した方だけに、引かれていく姿は



ただただ、哀れです……。








「一歩」を踏み止まる勇気があるか否か、それが人生の明暗を大きく分ける。


気を付けましょう。「明日は我が身」です。



あなたも、


私も。






YES [Owner Of A Lonely Heart]



【誰も一人なんかじゃない、一人になろうとするだけなんだ】
ももいろクローバーZ 「白金の夜明け」より



結局すべては、己の「想い」と「行動」次第。


誰のせいでもないんだよ。

GOTTHARD [Standing In The Light]1992

2016-02-04 04:57:24 | 今日のメタル









スイス史上最大の成功を収めたハード・ロック・バンド、ゴットハード。

何と言いますか、非常に「気持ちの良い」サウンドですね。アメリカのバンドなどとは違った意味での「爽やかさ」があります。爽やかというか、男気というか。とにかく良い(笑)


2009年にヴォーカルのスティーブ・リーが交通事故のため他界。その後スイスでは、バンドが以前に発表したすべてのアルバムがチャート・インしたとか。愛されていたんですねえ。


2011年に新たなヴォーカリストを迎え、バンドは現在も活動継続中。

がんばれ!

丸かぶり

2016-02-03 10:39:18 | つぶやき







節分に恵方巻を食べる。

世の中にすっかり定着しちゃったかのように言われていますが、はたしてどんなのですかね?


少なくとも私は、一度も食したことがないし、食す気もない。



元々は関西あたりの風習で、我が東北には、そんな風習など影も形もなかったわけだし、某セブンイレブの戦略に乗っかるつもりはサラサラございませんです、ハイ。



べつに関西が嫌いだとかいうわけではありません。むしろ関西は好きです。



しかし私にも、


「東北人」としての矜持がありますもので




あしからず。






平泉 節分会(2015)




達谷窟毘沙門堂は、その名のとおり窟=洞窟を塞ぐ形で建てられています。

一説にはこの窟、中央に反逆した蝦夷たちの拠点の一つであったとも、言われているようです。

節分は「鬼」を祓うとか。その「鬼」とは



誰にとっての、「鬼」なのでしょうねえ……。

WE ARE BORN

2016-02-02 06:47:05 | ももクロ










2月17日にももいろクローバーZの3rdアルバムと4thアルバムが、2枚同時発売されます。

その3rdアルバム、「AMARANTHUS」収録の曲、『WE ARE BORN』のMVが、Fullヴァージョンではないですが、ついに解禁されました~~~!!!やった~~~!!!



あらゆる局面での、「生まれる」ということをテーマにした曲のようですね。今にはじまったことではないですが、分かり易い「アイドル定番曲」という方向に進もうなどとは、サラサラ思っていないようです。むしろ益々先鋭化の方向へ進んでいるように思えます。ヨシヨシ。


パンクともメタルともつかない攻撃的なアレンジに乗る、ポップなメロディ。どなたかもおっしゃっておりましたが、往年のhideを想起させる曲に仕上がっています。かつてのX(現在のX Japanではない)の大ファンだった私としては、惹かれずにはおられませんねえ。


途中で終わっちゃってますけど、この後の展開が素晴らしいんですよ。ホント、スゲーですよ、この曲!



ニューアルバム、なかなかの手ごたえとお見受けしました。

あー、早く全部聴きたい~~~!!!



常に挑戦を続けるももクロの、新しくも、ももクロ「らしい」アルバムであると確信致します。



今年もももクロの快進撃は続くぜ!

ももクロ舐めんなよ!(笑)

VAN HALEN [Panama]1984

2016-02-01 05:34:03 | 今日のメタル










エドワード・ヴァン・ヘイレンのギター・プレイを初めて聴いたときは「ビックリ」したものです。

そのテクニックもさることながら、なんというか、音の「能天気」さに驚いてしまった。

「泣きのギター」なんて言葉があるように、ギターというのは、悲しみを帯びているもの、と、勝手に思い込んでおりましたもので、だから、エディの底抜けに明るいギターの音には、ある種の驚愕すら覚えたものでした。

そんな能天気ギター(笑)にピッタリの曲、それが、Panamaだ!



映像は1989年の武道館ライヴ。ヴォーカルは二代目、サミー・ヘイガー。全盛期ですね。