風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

東北縄文人と農耕

2016-02-06 11:28:16 | 歴史・民俗




九州北部で本格的な水稲農耕が始まったのは、紀元前10世紀ごろだとされています。

稲作農耕はその後徐々に北上していき、紀元前3世紀ごろには関東、仙台平野付近、そして青森県津軽地方にまで伝播されます。



弥生時代、農耕社会のムラは環濠集落といって、周囲に濠や柵を巡らした中に居住域や祭場などを設け、濠外に墓域、さらにその外側に水田が広がっているのが一般的な形式のようです。


濠や柵を巡らしてあるのは、外敵の侵入を防ぐためです。農耕社会の成立とともに、農地や水を巡っての争いが起きることが多くなった。



濠の内側で、有力者の下、人々は暮らし、農耕という土地に縛られた生活の中で、私生活は当然ながら制限され、否応なしに集団行動が強要されていく。



狩猟採集から農耕への転換は、単に食料取得手段の転換だけではなく、社会制度そのものの大きな転換です。稲作農耕への転換は、人々の生活がほぼすべて、稲作を中心にして回っていくということであり、稲作を中心とした政治、経済そして祭祀の下に、日々の生活が営まれていくということです。




1万年に亘る縄文時代、農耕社会へ転換する機会はもっと早くからあった。しかし転換しなかったのは、する「必要」がなかった、からでしょう。





「豊かさ」の指標はそれぞれです。これで十分だと思えば、十分豊かな生活だし、足りない足りないと思い始めたら、いつまでたっても「豊か」にはなれない。


縄文の人々は長いこと、これで十分だと思っていたのでしょう。だからこそ1万年に亘って縄文時代は続いたわけだし、九州で農耕が始まってから関東や東北南部、そして津軽に到達するまで、6~700年近く掛かっているというのも、農耕生活の方が「豊か」な生活だ、などとは、簡単には思えなかったから、ではないでしょうか。


しかしそれでも、最終的には農耕社会への転換を人々は受け入れた。そこに何があったのか。



農耕社会への転換は、祭祀をはじめとする社会基盤を大きく変えていくことにも繋がるし、一度転換してしまえば、それが社会の基盤となるわけですから、二度と「止める」ことはできなくなる。


この転換には、相当な覚悟が必要だった、ともいえます。


その覚悟を決めさせたものが何であったのか。その「鍵」となるのは



やはり「天皇」あるいはそれに準ずる存在、だったのではないでしょうか……。






ところで



仙台平野に展開された農耕社会では、環濠集落というものがなかったようなのです。

集落の形態は縄文時代に準ずるかたちだったらしく、祭祀の形態も縄文からの様式を色濃く残しながら、弥生的な形式も取り入れられているというかたち。縄文的な生活を完全に失ってはいないんですね。

農耕社会の「本場」とは違った独自性を保持していたわけです。


これが津軽に至りますと、祭祀の形態は縄文時代とほとんど変わらず継続されているんです。祭祀が変わらないということは、社会基盤がほとんど変化していないということでしょう。つまり津軽の人々は、農耕社会への転換そのものを受け入れたわけではなく、食料生産手段の一つとして、農耕も取り入れて「みた」わけです。


青森県の農耕遺構である垂柳遺跡をみてみますと、紀元前3世紀ごろから農耕が行われ、これが紀元前1世紀ごろに起こった大洪水で水田が埋まったのを契機として、その後、農耕はまったく行われなくなってしまうんです。以降、北東北では一切稲作は行われなくなり、北海道から南下してきた続縄文文化が、北東北を席捲することになります。



津軽の人々はなぜ稲作を捨てたのか?長いことそれは、「寒冷地」の不便さによるもの、とされてきたし、今でもその説は有力な説として機能しているようです。

しかし考えてみれば、稲というのは基本、夏の作物ですよね?夏に十分な暑さがあれば、稲は育つわけです。


津軽の夏は結構暑い。東北は夏でも涼しいなどというのは、東北を知らない都会人の無知なる思い込みにすぎません。事実、仙台平野の稲作農耕は、途切れることなく継続し続けています。仙台よりは津軽の方が、より北方に位置するとはいえ、津軽の夏も仙台の夏も、暑さはほとんど変わらない。

「寒冷地」だったから稲作を捨てた、農耕を捨てたとする説は、必ずしも妥当とは言えないかもしれません。



東北太平洋側では、夏に「やませ」と呼ばれる冷たい季節風が吹き、夏でも「寒い」ことが往々にしてあります。宮沢賢治の「アメニモマケズ」にある寒さの夏、というのがこれに当たります。

しかし津軽には「やませ」は吹きません。条件としてはむしろ、太平洋側の方が厳しい面がある。

それでも稲作が途切れなかった仙台平野では、稲作というものが単なる食料生産手段ではなく、社会の基盤を成す「システム」として機能していたからでしょう。つまり津軽では、稲作は社会基盤とはなり得なかった。

津軽をはじめとする北東北の人々は、その社会基盤を、あくまでも縄文的な形態の中に置いていたのです。



彼ら縄文の民にとって、稲作農耕などは決して

「魅力」あるものではなかったのです。




こうした縄文の残滓ともいうべき人々は、列島のあちこちにあったでしょう。稲作農耕が列島を席捲していく中で、彼らはその独自性を堅持し、発展させていった。


これもまた「日本文化」です。


日本文化とは多様であり奥が深いのです。



稲作だけが、日本文化の底流ではありません。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (たま♪)
2016-02-07 16:13:38
あー、こちらの記事を読んで、やっとわかりました。
結果的には後に東北も稲作文化に飲み込まれてしまったから、今の日本が東北も一緒に統一されたけれど。稲作文化に飲み込まれず、独自の文化を貫こうとされていた先祖の方々もいらしたんだ、ということを薫兄者は忘れないであげたいというお気持ちなのですね、きっと。
今の便利な暮らしは稲作文化なくしては存在しなかった、と思います。誰もが普通に白米を食べられる生活、ネットやら音楽やらの便利な生活も、稲作文化があったからこそ。その恩恵を受けいれながら、稲作文化よりも縄文文化が尊いと言ったところで嘘くさいというか、嘘ですけど。
それでも、縄文文化の清清しい面を守ろうとしてそれを貫いた方々の生きかたは素晴らしいし、尊敬に値すると私も思います。
返信する
Unknown (薫風亭奥大道)
2016-02-07 16:38:05
たま♪さん、米はただの食料ではありませんでした。古事記や日本書紀には、稲作を行わない人々のことを、獣のごとくに記述している部分もあるし、稲作を行うということは大和国家にとって、至上命題だったのでしょう。そしてそれを日本列島中に広めることを推進した。
だから、天皇制の広まりと稲作の広がりとはある意味セットだった面もあるわけで、だからこそ、日本文化、日本人、日本国家=米的な観念を持つ人々もでてくるわけです。
律令制の土地制度や江戸時代の石高制の基本は、ほぼすべて米の採れ高を基準にしています。米は政治であり経済であり、ある意味天皇をも象徴するものだったといっていい。
下手に知識のある人ほどね、そうした観念にとらわれやすい。たま♪さんみたいに、アシタカのごとく「曇りなき目」で見られたら、いつまでもそんな観念に捕らわれることはないのかもね。
「曇りある目」で見る人が多いのですよ。
残念ながら。
返信する

コメントを投稿