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有安杏果研究序説 その1~子役時代の栄光と挫折~

2014-10-21 19:47:21 | ももクロ



                     




有安杏果(ありやすももか)
平成7年(1995)3月15日生まれ。出身地・東京(ただし生まれたのは京都で、一時期埼玉に暮らしその後東京へ転居。資料によっては埼玉出身とある)。
うお座。A型。
身長・148㎝。(非公式記録として149㎝)
所属・ももいろクローバーZ。イメージカラー・緑。
キャッチフレーズ・「ももクロのちょっぴりおバカな小さな巨人」
愛称・有安、有安さん、杏果、ももか、ももちゃん、ありちゃん(主に夏菜子)、やっさん(主にれに)など多数。なお、高城れにによって命名された「ケバブ」は、意味がわからないせいか、現在ではほとんど使用されません。




ももクロのメンバーの中でも、その歌唱力とダンス・パフォーマンスで一目置かれる存在。元メンバー・早見あかりによれば、有安杏果(以後、杏果で統一)の加入以降、ももクロのダンス・パフォーマンスは劇的な変化を遂げたといいます。杏果加入以前は、ツー・ステップばかりの簡単な振り付けだったとか。




さて、杏果命名の由来ですが、当時放送されていたドラマ「ダブル・キッチン」の中で、山口智子演じる若い主婦が、お腹の中の赤ちゃんに「ももちゃん」と話しかけていたことに影響されたとか。

その母親が、生まれたばかりの愛娘・杏果があんまり可愛いものだから、読者モデルに応募してみようと思い立ち、オーディションに参加したのがきっかけで、子役専門の事務所に所属するようになります。

最初の一年程は、母親以外の人に抱かれるとすぐにぐずってしまい、なかなか仕事がつかなかったそうですが、それでも少しづつ仕事が増えて行き、数々のCMやドラマ、映画、「ポンキッキーズ」のレギュラー等、多くの仕事をこなすようになっていきます。













CMの仕事でアメリカに行ったとき、飛行機の座席はいきなりビジネスクラスだったそうです。それが当たり前だと思っていたら、ももクロの仕事で飛行機に乗ったときの座席は…。そのとき杏果は、世間の厳しさというものを知ったに違いありません。

この頃の杏果は、子役タレントとして栄光の絶頂にありました。


仕事が増え、ポンキッキーズなどのレギュラー番組が付くにつれて、杏果自身も仕事が楽しくなってくる。やがて杏果は、当時人気があったBoAのような、歌って踊れる歌手になりたいという夢を持ち始めるのです。





小学校5年生のとき、EXILEの事務所が主催するダンス&ヴォーカルスクール「EXPG」にも所属するようになります。母親が月謝が払えないというので、特待生になれば月謝が免除されることを知った杏果は、必死に勉強・練習して見事特待生に合格します。

とにかく杏果という人は頑張り屋さんで、これだけ忙しく芸能の仕事をこなしながら、学校の勉強も決しておろそかにはしませんでした。成績は優秀だったそうで、夏休みの宿題なども、きっちりと計画を立てて早めに終わらせていたそうです。

ただし、ニュースや新聞はほとんど見ないし、本もあまり読む方ではなかったようで、一般常識というものが致命的なくらいに、無い!

キャッチ・フレーズの「“ちょっぴり”おバカ」の意味は、この一般常識の致命的欠如にあるのです。

まあとにかく、生真面目な頑張り屋さんで、夢の実現へ向かって一途に進み続ける。その意志の強さ、純粋さには敬服せざるを得ません。

EXPGでもすぐに頭角を現し、EXILEのバックで踊るキッズダンサー4人の中に選ばれるなど、小学生時代の杏果の芸能活動は、まさに順風満帆でした。

小学校6年生で、ドラマ「がきんちょ~リターンキッズ~」に出演。アイドルに憧れるイジワルな少女を熱演します。このドラマは今でも人気があるそうですね。私は知りませんでしたが。








中学に進学した辺りから、事情が変わって行きます。

中学生を演じるにしては幼すぎ、小学生を演じるにも、もっと可愛くて演技の上手い子に役を取られてしまい、杏果の仕事は徐々に減って行きます。EXPGでも、キッズダンサーは小学生までという決まりがあったため、中学に上がった途端、ダンサーを降ろされ旗振りなどの役に回されてしまう。

これは自分のやりたいことじゃない。自分のやりたいことが出来ない苛立ち。

杏果のそれまでの人生にはなかった、大きな挫折でした。



母親はこの時点で、もう辞めてもいいのではないか、と思っていたようです。

元々、記念のつもりで参加したオーディションから始まったこと、母親としては、いつ辞めてもいいんだくらいに思っていたでしょう。でも本人にやる気がある限りは続けさせるし、出来る限りの協力も惜しみませんでした。

子役の現場に同行するのは、マネージャーではなく親の場合が圧倒的に多いそうです。

杏果は母親を仕事のパートナーとして続けてきました。この、良い意味で「放任主義」の母親の御蔭で、杏果は小さい頃から自立心を育てたようです。

杏果は母親に「勉強しろ!」と言われたことは一度もないそうです。それでも杏果は自発的に学校の勉強を欠かさなかった。

EXPGにしても、自分で決めて、自分でチャレンジして、見事合格しています。

放任主義が必ずしも良いとは限りません。ヘタな放任主義のせいでダメになってしまう子供は沢山います。

杏果がそうならなかったのは、仕事のパートナーとして、また家庭の母親としての母の愛情をしっかりと感じられていたからでしょう。

いつでも見守ってくれている母親の愛情を、しっかりと感じとっていたから。

それとやはり、杏果自身が持っていた、「資質」もあるのでしょうね。



……うーん、こうしてみてくると、父親の存在が薄いですねえ……。

父親はあくまでも、蔭から見守る存在ということか……。









子役の仕事が無くなり、悩んでいた杏果でしたが、中学2年生の時に転機が訪れます。

友達と訪れた渋谷で、大手芸能プロダクション、スターダスト・プロモーションのスカウトマンに、杏果がスカウトされたのです。

スターダスト・プロモーションはとにかく大手。所属タレントの数も多く、そこへ入れば自分は間違いなく埋もれてしまうだろう。杏果はそう思ったそうです。

埋もれたっていい。それでも、自分が本当にやりたいことができるなら。



杏果は事務所を移籍することを決意します。杏果のチャレンジ精神に、再び火が付いたようです。



有安杏果、ももいろクローバーZ加入への第一歩でした。





                      
                        ももかくど


つづく…で、ありやす。





参考文献
「クイック・ジャパンVOL116有安杏果特集」
「クイック・ジャパン特別編集 ももいろクローバーZ特集号」
「川上アキラ著『ももクロ流~5人に伝えたこと 5人から教わったこと~』日経BP社」