風の向くまま薫るまま

その日その時、感じたままに。

靖国神社と「東武皇帝」

2014-10-31 20:02:50 | 会津藩
  



幕末、戊辰戦争の折ー。


旧幕府より江戸市中の警備を担わされていた彰義隊が、上野にて新政府軍と激突。彰義隊は上野寛永寺に立てこもり、寛永寺門跡であった、仁孝天皇の猶子・輪王寺宮公現法親王に新政府側との仲介に立ってもらいますが、結局交渉は決裂、彰義隊が敗れた後、輪王寺宮は東北に逃れ、仙台で奥羽越列藩同盟の盟主となります。

仁孝天皇は先帝、孝明天皇の御父君にあらせられる。つまり血の繋がりはないものの、輪王寺宮は孝明天皇の御弟君にあたるわけです。

その御方が盟主となって、京都の新政府に対抗するという構図。これは見方によっては大変な意味を持ちます。

そうです、これは、

「南北朝の争乱」第二章ともなりうる事態だったのです。





実際、この時輪王寺宮が「東武皇帝」あるいは「東武天皇」として即位したとする研究者もおります。もっともこの説に関しては確たる証拠に乏しく、また輪王寺宮の御発言の中に「幼帝(明治天皇は当時15歳)を誑かす君側の奸薩長」を排除するという意味の御発言があり、これは新帝に即位した御方の御発言としては、いささか矛盾するものを感じます。明治帝をミカドとして認めておられるわけですから。


少なくとも宮御自身には、そのような「東武皇帝」などに即位するつもりはサラサラ無かったのではないかと思われますね。ただ、宮の周囲にいる者達の中に、そのような先走ったことを話したり、あるいは実際に画策した者がいたであろう可能性は、否定できないと思われます。

まだ将軍だったころの徳川慶喜に対し、フランス公使ロッシュが「幕府に味方するための軍隊を派遣する用意がある」と話したところ、慶喜は「内政干渉はおことわり申し上げる」と退けた経緯があったとか。外国勢力が、奥羽越列藩同盟の行動に注目していたことは確かでしょうし、あるいは某かの裏工作があったかもしれません。

わかりませんけどね。





そのような憶測話はともかく、列藩同盟としては、皇族を盟主として迎えたことで、一応の正当性を主張できる立場を得られたわけです。特に会津藩にとっては、亡き先帝・孝明天皇の御意志を継いでいるのは我らであるという主張ができるようになったわけですから、大いに士気も上がったでしょう。


孝明天皇は強硬な攘夷主義者ではありましたが、基本的には公武合体派であり、討幕の意志などはまったくなかったのです。だから討幕派の長州藩の強引なやり方は孝明天皇としては到底勤王などとは思えず、その傍若無人なる長州を京より排除するため、頼みとする会津藩と薩摩藩に託したのが「8月18日の政変」です。会津藩はあくまでも天皇の御意志に忠実に従ったまで、むしろこれを不服とした長州藩がおこした「禁門の変」においては、長州藩の軍勢はよりによって御所に向けて発砲しました。これに激怒した孝明天皇が、長州藩を「賊」と断じて追討の命を下したのも当然の成り行きだったのです。

会津藩としては、ただただ先帝の御意志を忠実に守っているに過ぎない。どこにも「逆賊」の要素などはないと、胸を張って言えた。

長州藩や、新たに長州藩と手を組んだ薩摩藩にとっては、孝明天皇ははっきりいって「邪魔」な存在だった。

そんな矢先の、孝明天皇の突然の崩御…。

さらに、新たにに即位された明治天皇にも、あるウワサがありますね…。

そのことについては、私などよりも詳しい方はたくさんおられるでしょうし、私はここで、その件についてくどくどと書くつもりはありません。

ただ、明治帝としては、御自身が即位することによって、「またしても」南北朝の争乱まがいの事が起こる可能性がでてきたことに、なにを思われたでしょう?

この「因縁」は、自らの手で絶たねばならぬ。

そう、思われたかもしれません。










突然ですが、靖国神社のルーツを御存じですか?

元々は、長州藩による私的な慰霊顕彰施設でした。

長州藩士の中で勤王活動を行って命を落とした方々を慰霊顕彰する「招魂場」が元になっているのです。

それが曲折を経て、国家的な施設へと発展していくわけですが、その過程には、「明治天皇の篤い思し召し」があったと伝えられていますね。

勿論それは、新国家建設の過程で命を落とした方々を、純粋に慰霊顕彰したいという思し召しでもあったでしょう。

しかし私には、それとは別の御意志も感じられるのです。

明治天皇の下、日本が、日本人が一つとなって邁進していく、その象徴としての

靖国神社という位置づけ。


その思し召しの底に、「東武皇帝」のことがあったのではあるまいか。

日本を二度と分裂させないための象徴としての

靖国神社だったのではないでしょうか。






「禁門の変」で戦死した会津兵が靖国神社に祀られたのは、大正天皇の御代になってからのこと。明治帝の御代に実現することはありませんでした。

「禁門の変」の際の会津藩は完全なる「官軍」です。ですから靖国に祀られる資格は十分にあったにも関わらず、です。

それは、元長州藩士であった元老どもによる強硬な反対があったからこそではありますが、明治帝の御代に実現しなかったというところに、なにか象徴めいたものを感じるのです。



もとより、私のようなものが明治帝の大御心を忖度するなどもっての外!所詮は私の妄想です。

どうか笑ってお流し下さい。












私が言いたいことは変わりません。

会津藩は決して「逆賊」などではない。彼らもまた「勤王」であったのだ。

皇室に刃をむけようなどという輩は何処にもいなかったのだ。

何処にも。

そのことだけは、誰がなんと言おうと主張し続ける。

「誰」が「何」と言おうと、です。







輪王寺宮は、戊辰戦争の後、謹慎を命じられますがほどなく解かれ、明治帝より「北白河宮能久親王」の名を賜ります。

能久親王はロンドンに留学した後陸軍に入隊し、師団長として台湾に赴任。かの地で病死します。

その数奇な一生は日本武尊にも比定されたといいます。

ここにもまた、時代の波に翻弄され、歴史に埋もれて行った方がおられます。

どうかこの記事をお読みになった方だけでも、

その数奇な一生に想いを寄せてあげていただきたい。