あけぼの

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トゥクトゥクで巡ったカンチャナブリ

2014-05-07 08:30:18 | ブログ

A_007 A_003 キャプションForgive but not Forget!(2)トゥクトゥクで巡ったカンチャナブリ ミャンマーに近い終点ナムトック行きの列車が遅れに遅れ夜遅く到着、ホテルの予約もなく未知の街に夜遅く着いたのは久し振りだった。。だが1台の合い乗りタクシーが待っており、フィリピンからの女性教師3人と共にホテル探しをした。翌日も助け合い効率的に動けた。彼女たち曰く、「タイには英語を話す人が少ないので英語教師の需要がある。俸給は米国人、英国人等のネイティヴの半額だが物価が安いので快適だ」と。彼女たちは我々の「地球千鳥足人生」に感動し、今後「働いては旅をし、若いうちから世界を見たい」と語った。特筆すべきはトゥクトゥクの運ちゃんラチだ。カンチャナブリでJEATH戦争博物館、泰緬鉄道博物館、連合軍共同墓地、クワイ川鉄橋等を半日かけて回ったが、3日目、ナムトックからの帰路宿泊したこの街で筆者を見つけ、満面の笑みで追っかけて来た。ご縁を感じ日本のお土産をあげ再々会を約して別れた。70年前の日本軍捕虜たちに心掴まれたカンチャナブリは黄色い藤の花と火炎樹が咲き乱れていた。A_019_3 A_002 A_010

(3)カンチャナブリ戦争博物館(JEATH War Museum

 JEATH War MuseumJEATHDeathを想像するが、確かにDeath Museumでは余りに残酷な印象を与えるからと置き換えられた言葉だそうで、泰緬鉄道敷設の当事国日本のJ、捕虜兵の国EEngland)、AAmerica & Australia)、TThailand)、HHolland)の頭文字をとったものだ(博物館のパンフレットより)。当時日本軍によって写真等の記録行為は禁止されたのだが、生き残り捕虜経験者の絵画が生々しく当時の捕虜生活を伝えており、見るも辛い。アジア人強制労働者たちは今も密林深く眠ったままだそうだ。過去を忘れず平和な地球実現のために努力することが最重要課題だと肝に銘じた。(彩の渦輪)
写真キャプション:
3.トゥクトゥクの運ちゃんラチ 4.ふんどしだけまとった捕虜(JEATH MUSEUM)3.火炎樹咲き誇るクワイ川岸辺


岩壁に手が届く「死の鉄道」と徒歩で渡ったクワイ川鉄橋 

2014-05-06 18:32:50 | ブログ

(1)バッタと道連れ死の鉄道Death Railway)               

 A_008 A_009 A_006 映画「戦場にかける橋」を覚えている人はもう少ないだろうが、近く公開される映画「レイルウェイ 運命の旅路」もここ、旧泰緬鉄道が舞台だ。第2次世界大戦中に日本軍はタイとミャンマーを結ぶ軍需物資輸送路として15か月余という驚くべき速さで鉄道を開通したが、その際約3万人の連合軍捕虜兵士の約半数、約10万人のアジア強制労働者のほぼ全てがジャングルの疫病、医薬品不足や拷問等で果てた。よってこの鉄道は「死の鉄道」とも呼ばれ、Death Railwayと書いたTシャツも売られている。現在カンチャナブリ-ナムトック間がタイ国営で運行され、タイ人は乗車無料、外国人は一回一律100バーツだ。鉄道沿線は風光明媚ゆえ海外からバックパッカーが訪れ始めた。汽車は70年前同様、窓から風を入れ、ポーと汽笛一声、「ガッタン・ゴットン・ガッタン」と激しく揺れながら進む。クワイ川鉄橋や窓から手が触れそうに近い岩壁、等が呼びもの。単線ゆえ列車のすれ違い場所で無限に待ち、始発も当然遅れる。筆者の乗車2回とも2時間半遅れだったが、行きにバッタ君が飛び込み終点まで同席、別れる時に「死の鉄道で死んじゃ駄目よ」と外に放した。クワイ川鉄橋は歩いて対岸まで2往復したが、下は淡緑色のクワイ川、対岸近くの枕木が古く、酷な体験を強いられた往時の捕虜の呻き声が聞こえた気がした。(彩の渦輪)写真キャプション1.2.泰緬鉄道 3.トゥクトゥクで活動 4.捕虜たちはこの状態でも強制労働させられた (JEATH Museum)。
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