あけぼの

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浅間山はかつての人見原古戦場、落ち葉も入日も優雅だった!

2019-01-26 11:44:38 | 講演・アート・音楽・スピーチ

 絵の仲間のYamada三千代さんの案内で府中市のはずれにある浅間山に行った。我が米寿の誕生日、2019年1月22日。浅間山は44年振りだ。木々に葉っぱが無い。小高い丘に神社あり。周辺から登れる山道がついていて、カサカサ枯葉を踏みしめる音が優雅に聞こえる。前日の21日は西の空、丹沢方面にダイヤモンド富士が見られたそうだが、1日ずれた。その日は友人宅で思いがけず誕生日祝いをして頂いたので悔いはないが。この浅間山公園は南北朝時代、新田義貞の子新田義興と足利尊氏が戦った人見原古戦場の跡だ。この浅間山に来て44年前の追憶が蘇って来た。長男琢哉が小学4年生の時だ。正月元旦、初日の出マラソンが敢行された。小学校から往復10kmの距離だ。世話役でPTAが動員され、PTA会長をしていた妻は児童のほぼ先頭(常にとはいかなっかったろう)で走り、往復10キロを完走した。私も手伝いさせられた。当時妻は36歳、筆者は42歳ぐらいだっただろう。寒中の早朝、5キロ走り、浅間山の頂上で児童もPTAも全員でご来迎を仰ぎ、また5キロ走って校庭まで帰ったのだ。妻は息子が4年生、5年生、6年生、と3年間会長をしていたので、この浅間山往復元旦マラソンを3回やったのだった。今でも鮮明に記憶している。あれから半世紀近くも経つのだネ。光陰矢の如し、瞬時に人生が過ぎてしまった気がする。今の浅間山は東北側に多磨墓地があるが、街から孤立し麓は立錐の余地もない住宅街だ。狭くて曲りの多かった道が今は広いバス通りになり、野原から住宅へと街は一変したのだ。同時に我が人生行路も一瞬だった。頭脳が取り残され年齢だけが身体について来たのが吾輩の米寿の気がする。(自悠人) 

  写真3.浅間山元旦マラソンで走っているワイフ



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