あけぼの

アート、文化、健康、国際・教育、音楽、食・レシピ、日記、エッセイ、旅行記、学問

バッグをギュッと抱え戦史と行動史を辿る旅~フィリピン共和国~

2012-06-07 14:31:06 | アート・文化

044 死の行進出発地点。Starting Point of Death March, April 09-17, 1942. KM 00, Mariveles, Bataanと傍らのの標識にあった。

フィリピン訪問は3度目、2012年の今回、1987年のコリー・アキノ政権下、1979年の戒厳令下と。33年前と同じ手口の睡眠薬強盗の記事が現在も観光客を怯えさせるが、貧困に喘ぎつつも明るい笑顔を忘れない人々には変わりがなかった。今回は日本軍による「バターン死の行進」跡を辿り、若き日の筆者の行動の跡も辿ってみた。戒厳令下の一人旅で睡眠薬入り魔のサン・ミグエルを振舞われ、お金やフィルムを抜かれた雑炊屋も再訪した。

194249日、日本がコレヒドール島を占領、投降した米比の捕虜76000人の半数以上をバターン半島南端のマリベレスから102kmパンパンガ州のサン・フェルナンドまで4日間行進させた。マラリア、赤痢の曼延する中、炎天下の行軍とあって1万人以上が落命した。これが悪名高き「バターン死の行進」だ。夫、自悠人は当時の捕虜の気持ちを知りたいと、この行軍の出発地、ゼロkmポイントのマリベレスから5km地点まで歩くと決めた。筆者は1時間後タクシーで出発、1kmごとのマーカーを探しながら5km地点で夫を拾うことにした。1m余りの高さで尖塔のある白いマーカーには倒れ死す寸前の捕虜2名の姿が描かれている。5月末の暑い日だった。こんなに長い距離、しかも坂道を炎天下、飲まず食わずで歩いたら死ぬしかない、と思いながら。米比捕虜兵の疲弊道中については実際に歩いて実感した夫の捕虜行進体験報告にゆずる。筆者のタクシーの運転手は妙齢だったが、「死の行進の跡を辿るお客は貴女が初めて」と言い、「あ、あそこにある」「こんどはここです」とマーカー探しに協力してくれた。所々で死の行進を悼む慰霊碑も見た。(彩の渦輪)