私的CD評
オリジナル楽器によるルネサンス、バロックから古典派、ロマン派の作品のCDを紹介。国内外、新旧を問わず、独自の判断による。
 



Harpsichord Music by the Young J. S. Bach II
Hänssler Edition Bachakademie CD 92.103
演奏:Robert Hill (Cembalo)

バッハの初期のオルガン及び鍵盤楽器のための作品について」の項で説明した、 バッハの初期の鍵盤楽器のための作品を収録したCDの2回目として今回紹介するのは、ヘンスラーのバッハ全集の2枚組のCD、「若きJ. S. バッハのチェンバロ音楽 II」である。このCDに収録されている作品も、自筆譜が存在するものはなく、前に紹介した「若きJ. S. バッハのチェンバロ音楽 I」では、すべて「メラー手稿」と「アンドレアス・バッハ本」に含まれている作品が収録されていたが、これらの手稿からそれぞれ1曲ずつが収められているほかは、バッハとの関係がより不明確な手稿にある曲が選ばれている。
 トッカータニ長調の初期の異稿(BWV 912a)は、バッハの鍵盤楽器のための7曲のトッカータ(BWV 910 - 916)のうちで、最も古い手稿である「メラー手稿」に含まれる。その新しい形(NBWV 912)とは、基本構成に於いて、大きな相違はないので、時期的にもそれほど隔てずに成立したと思われ、トッカータ7曲の作曲時期を推測する上で重要な存在と言える。
 カプリッチョ「ヨハン・クリストフ・バッハを讃えて(Capriccio. In Honorem Johann Christoph Bachii)」(BWV 993)は、 カプリッチョ「旅立つ親愛なる兄弟に寄せて(Capriccio. Sopra il Lontananza de il Fratro dilettissimi)」(BWV 992)と同じ曲種に属し、ヨハン・クーナウの「聖書ソナタ」の影響を受けて作曲されたと思われるが、「旅立つ親愛なる兄・・・」がそれぞれに曲想を表現する文を冒頭に置いた6楽章からなるのに対して、この曲は一つの主題による単一楽章であるという、形式的にはかなり異なった作品で、必ずしも連続して作曲されたとは言い切れない。バッハの作品の筆写譜を多く作製しているヨハン・ペーター・ケルナー(Johann Peter Kellner, 1715 - 1772)によって作製された膨大な手稿の合本(ベルリン国立図書館、プロイセンの文化財 Mus. ms. Bach P 804)が最も古い原典である。筆写されたのは、1725年から1726年にかけてと思われ、作曲された時期を知る手がかりとはならない。
 ソナタニ長調(BWV 963)は、ヨハン・ニコラウス・メムペルによる筆写譜が唯一の原典であるが、その表題と作者名は、この手稿の後の所有者、ヨハン・ペーター・ケルナーによって記されている。このソナタは、クーナウのソナタの影響が指摘されており、
カプリッチョ「旅立つ親愛なる兄弟に寄せて」(BWV 992)やトッカータとの様式的な関連も指摘されており、これが正しいとすれば、アルンシュタット時代の作である可能性がある。
 組曲ロ長調(BWV 821)は、上述のケルナーの手稿に含まれる筆者不明の手稿が唯一の原典である。ロバート・ヒルは、この作品の舞曲が、様式的に1700年頃の中部ドイツやフランスの曲と共通するところがある事を挙げて、初期の作品と考えている。 しかし、このケルナーの手稿には、種々様々な状態の手稿が含まれており、バッハの原典としての重要性は、従来考えられていたよりは高くはなくなっている。この組曲もその作成時期が、18世紀の内という限定しかできない。真作かどうか、作曲時期についても1714年以前とする考えがある一方、1730年前後ではないかという説もあり、新バッハ全集の第V部門からは除外されていた。しかしこの手稿には”Suite. ex B. di J. S. Bach”と言う標題があり、原典の状態からは、バッハが唯一の作者と考えられ、決定的にバッハの作品ではないという根拠がないので、第V部門第12巻「鍵盤楽器のための疑わしい作品」に収録された。
 フランス風序曲を冒頭に持つ組曲ト短調(BWV 822)は、ヨハン・ゴットフリート・ヴァルターまたは彼の弟子によって作製されたと考えられている筆者譜が唯一の原典である。他の作曲家のオーケストラのための組曲の編曲ではないかという意見があったが、ヒルは序曲の大胆な和声進行が、鍵盤楽器のための曲であることを示していると考えている。
 「サラバンドとパルティータ(Sarabanda con Partite)ハ長調」(BWV 990)と言う標題は、オルガンのためのコラール・パルティータと同様、サラバンドに基づく変奏曲を意味している。旧バッハ全集とペータース版のもとになったSchelbe - Gleichaufの遺産に由来する手稿は紛失してしまい、1968年にゲッティンゲンのバッハ研究所が古書店ハンス・シュナイダーから購入したショルツの蔵書に含まれる手稿と、ヴィーンのオーストリア国立図書館所蔵の手稿が現存する原典となっている。様々な様式的観点から、バッハの作品ではないという見解が示された。特にその様式が、17世紀の中頃の中・南部ドイツの様式を示しているという考えや、若いバッハの作品と考えると出来過ぎていると言う見解などが示され、新バッハ全集の第V部門からは除外され、バッハ作品目録の第2版の簡易版(BWV2a)でも疑わしい作品(Anhang II)に分類されている。しかしながら、紛失した手稿も含め、いずれもバッハの作と表記しており、特に現存する2つの手稿は、異なった伝承経路をたどっていることが推測され、この作者表記を誤記と断定する根拠を欠いている。
 このCDには、前奏曲ニ短調(BWV 905,1)として収録されているこの作品は、元々”Fantasie und Fuge d-moll”として上記BWV 990と同様、紛失したSchelbe - Gleichaufの遺産に由来する手稿に含まれ、旧バッハ全集に含まれていたが、その後真作ではないとして新バッハ全集から除外され、バッハ作品目録の第2版の簡易版でも疑わしい作品に分類されている。しかし、このファンタージアの断片が、イギリスのダーハムにあることが分かり、しかもそれがバッハのトッカータやその楽章の一部に取り囲まれた状態にある事が分かり、作者名はないが、バッハの作品である可能性が出てきた。フーガについては、紛失した手稿しか知られておらず、バッハの作品としての信頼性が低いが、いずれも積極的にバッハの作品ではないという証拠に欠けているため、新バッハ全集の第V部門第12巻に収録された。
 バッハがオルガン、鍵盤楽器を問わず、作曲を始めた当初からフーガという形式に強い関心を抱いていたことが、パッヒェルベルの様式を手本としたコラール曲を含め、初期の多数の作品によって分かる。このたゆまぬ努力が、1730年代終わりから1740年代にかけて作曲された「フーガの技法」(BWV 1080)に到達することになるのである。このCDには7曲のフーガが収録されているが、その内の4曲(実際は3曲と異稿が1曲)は、トマソ・アルビノーニ(Tomaso Albinoni, 1671- 1751)のトリオ・ソナタ作品1の曲の旋律に基づいたフーガである。フーガハ長調(BWV 546)は、アルビノーニの作品1、第12番の第4楽章の主題に基づいている。他の2曲のアルビノーニの主題によるフーガとともに、バッハの初期の作品と考えられているが、特にこの曲の場合、シャープの臨時記号を解消する際にフラットを使用するという、バッハが1715年より前に行っていた習慣が筆者譜に見られることも、その根拠となっている。
 フーガイ長調(BWV 950)は、アルビノーニのソナタ作品1、第3番の第2楽章の主題に基づいている。フーガロ短調(BWV 951と951a)は、第8番の第2楽章の主題に基づいている。このフーガには、その初期の形(BWV 951a)と、それに手を加え拡大した新しい形(BWV 951)ともに多数の筆写譜が存在し、その内新しい形のフーガが、ヨハン・ルートヴィヒ・クレープスの遺産に由来する手稿のひとつ(ベルリン国立図書館 Mus. ms. Bach P 801)にヨハン・ゴットフリート・ヴァルターによって記入されており、それによって、初期のフーガがそれ以前に作曲されたことが分かる。ヴァルターの記入は、1714年から1717年の間と思われ、この期間が最も遅い作曲時期と言うことになる。このロ短調のフーガは、新旧いずれも単独に多くの筆写譜が存在するが、後になってバッハ自身によって、別に作曲された前奏曲ロ短調(BWV 923)と組み合わされたようだ。しかし、この前奏曲については、バッハの作品ではないとの説があり、ヨハン・パッヒェルベルの息子、ヴィルヘルム・ヒエロニュムス・パッヒェルベル(Wilhelm Hieronymus Pachelbel, c. 1685 – 1764)の作とも考えられているが、ヒルはこれを否定している。
 フーガ変ロ長調(BWV 955)は、上に挙げたケルナーの手稿集に含まれる18世紀前半に不明の筆写によって作製された手稿や同じく筆者不明の18世紀前半の写譜そのほかいくつかの筆写譜が存在し、それらにはバッハの名が作者として記されているが、初期の作品、アルンシュタットかヴァイマール時代初期の作品と考えられている一方で、クリストフ・エルゼリウス(Cheristoph Erselius, 1703 - 1772)あるいはヘンデルの作品の編曲と考える説もある。これらは伝承の不明確さに由来するもので、現在明確にそのような原曲が特定されているわけではなく、それぞれ一つの手稿に名前が記されているとはいえ、それらは手稿の所有者を意味していたり、単なる誤記である可能性が高く、圧倒的に多数の筆写譜にバッハの名が記されていることから、それを否定する決定的な証拠がなく、新バッハ全集では第V部門第12巻に収められている。
 フーガイ短調(BWV 959)は、18世紀終わりに作製された筆写譜で伝えられており、作者名も記されている。真作かどうかの疑念は持たれているが、トッカータホ短調(BWV 914)やアルビノーニの主題によるフーガイ長調(BWV 950)との類似性が指摘されており、ヒルはヴァイマール時代の初期か中期の作ではないかと考えている。
 今回紹介するCDに収録されている曲は、様々な形態の手稿によって伝えられており、真作かどうかに疑問を持たれている曲もあるが、それは自筆譜が存在せず、バッハがまだ自作を体系的に整理して保存しようという意図を持っていなかった若い頃の作品であることによるのだろう。特にバッハのライプツィヒ時代に、その名声を聞いて集まってきた音楽家や弟子達が、バッハのもとで写譜した手稿が多数存在し、その内で今日まで保存されているものが原典となったのである。音楽学者でもあるロバート・ヒルがこれらの作品を、バッハの初期の鍵盤楽器のための作品として選んだのは、若きバッハの創作の多様さを示す意図によるもので、全体としてみれば、すべてバッハの作品である可能性が高いと考えているためであろう。
 このCDで演奏しているロバート・ヒルについては、「若きJ. S. バッハのチェンバロ音楽 I」ですでに紹介した。かなり装飾音を自由に加えた演奏である。このCDに於いては使用楽器が記されており、アメリカ、ミシガン州マンチェスターのキース・ヒルが1998年に製作した、パスカル・タスカンの1769年作のチェンバロの複製である。録音は、非常に鮮明である。
 このCDも、他のヘンスラーのバッハ全集のCD同様、現在も入手可能である。

発売元:Hänssler

*作品についての記述は、新バッハ全集第V部門の第9, 2巻、第10巻、第12巻の校訂報告書並びにこのCDに添付されている冊子のロバート・ヒルによる解説に基づいている。

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