長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

井伊直政 ~やさぐれひこにゃん~

2012年05月14日 | 戦国逸話
夜の打ち合わせなどが最近多く、ブログを書く時間がない上に、ネタの仕込ができません。なので、気がつけば、1週間近くブログを放置した状況となってしまっていました。
そこで登場願うのが、過去の遺産。出でよ過去コラム。

と、言うわけで、本日はゆるきゃらNo.1ひこにゃんゆかりの人物です。ひこにゃんは彦根藩主第二代井伊直孝を救った猫がモデルですが、その直孝の父親が直政。

井伊家は代々勤皇の家として知られます。南朝方として活躍したことが知られます。三ケ日の辺りに「井伊谷(いいのや)」という場所がありますが、その辺りが源流。井伊直政の親は今川家に謀殺されてしまい、直政は苦難の幼少期を歩むこととなってしまいます。ところが、徳川家康に見出されて一挙に家臣団筆頭まで躍り出る出世を見せることになります。さて、そんな井伊直政。一体どんな人だったのでしょうか?

小牧長久手の合戦では、
『直政の赤旗、赤幟が朝日の光に輝いて山より敵に立ち向かい、縦横に駆破り、敵を遂には倒して大将も数多く討ち取ったので、武士達だけでなく、この時から都の者まで直政を赤鬼と名付けた』
という活躍をしています。
 
徳川家康が恐怖した武田家。その特攻隊長山県昌景が全て部下を赤の甲冑で固めていたことにあやかって、旧武田家臣団を部下に付けられ、徳川家の赤備を担当したのが井伊直政です。だからひこにゃんは赤い兜をかぶってる訳なんですね。ちなみに、山県の赤備えにあやかったのは、あの真田信繁(幸村)も一緒。そういう意味では、山県ってすごい猛将だったってことです。そんな山県最期の地は設楽原古戦場。是非お越しください。

話がそれました。直政に戻りましょう。

直政は、この赤鬼ぶりを小田原城包囲戦の時にも発揮しています。
『小田原城攻めの時、家康は先陣を榊原康政に命じて直政を本陣詰めとした。直政は常に先陣を望むが、この時だけはいつもと違い先陣でなくても文句を言わなかった。小田原で豊臣秀吉がわずかな軍勢を連れて移動しているのを見て「殿、今ならあいつを討てます。」と家康に勧めたが、家康は無視していた。すると、「そんなら先陣にしてください。」と言った。』

いつもなら突撃隊長にしないと納得しない直政だったものの、この日は家康が秀吉を討ち取るつもりだから自分を手元に置いたと勘違いしたんですね。その勘違いに気づき、そんならいつものように突撃隊長にしてくれといった、という話です。当時家康は秀吉陣営。戦国の世の習いとはいえ、いつでも寝首を掻いてやろうという心意気。あの『ぽへっ』としたひこにゃんからは想像もつかない恐ろしさ。家康ですらあえて無視していると言うのに・・・。
ぜんぜんゆるキャラじゃありません。

この特攻隊長。どんな戦いぶりだったか小田原攻めのエピソードに詳細なものがありました。
『直政は先頭に立って敵の曲輪に押し寄せて、みずから鉄砲をとって城中に向かって放った。玉も火薬もぎゅうっと押し込めてから撃ったため、鉄砲の筒が裂けて、左手の指が吹っ飛んだ。しかし、直政これをものともせずに、その左手で鉄の盾を持って「えいとうえい」と進軍のかけ声をしながら攻め入ったので、部下も躊躇せず、城中に乱入してさんざんに戦ったとのことである。』

同じ徳川四天王の一人、本多忠勝は生涯怪我を負わなかったことで有名です。(うんこは踏んでますけど。)忠勝は死ぬ直前に足の爪を切っていたら、その小刀で指を傷つけて死期を悟ったくらいです。対する井伊直政は満身創痍で有名だったようです。こんな無茶苦茶な怪我もしていたんですねぇ。
このエピソードからは、先込式の火縄銃は硬く詰めすぎると暴発することもわかります。物騒なもんですねぇ。

さて、この直政の突撃ぶりは更なるエピソードを産みますが、これは、次回へ。

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