長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

竹田城 ~ 40代からの弾丸一人旅 in 山陰 ~

2015年08月05日 | 落城戦記
天空の城として近年大人気の竹田城。
日本のマチュピチュとも言われています。


城が一過性のブームではなく観光目的となったことを象徴する城に思えます。
なにせ、この城には天守がない。建物がない。石垣のみ。でも、大量の人々が押し寄せると。城にさして興味がない人から「こないだ竹田城へ行ってきてね。」という話をよく聞くのです。

これだけ城が好きと公言している私がまだ未制覇。。。

姫路城、熊本城、竹田城は、観光ルート化されており、結構多くの人が行っているにも関わらず、城好きを公言する自分が行ってないことに、いつしかコンプレックスを抱いておりました。
『いつかはクラウン』的に大事に取っておきすぎた城なのです。

鳥取城から名古屋への帰路に位置し、宿泊地の城崎温泉からも近い。
こんなチャンスはない。己の引け目を解消するまたとないチャンス!

大人気だと聞くので早朝を狙い、6時起きで出発。
年間数万人だった観光客がマチュピチュとか天空の城とかの売り込みで人気大爆発。年間数十万人に膨れ上がった城だけに、じっくり見学するためには工夫が必要と考える。

城崎温泉から山沿いの道を気持ちよく走り、9時頃に麓の道の駅に到着する。
すでに第1便のバスが出立して、30分後に第2便がでるという。タクシーでも行けるということだが、歩いても30分程度と聞く。ほんなら歩いて行くべし。


道は太閤ヶ平のときと同じく既に舗装がされており歩きやすい。この道はバスと観光タクシーのみが走れるそうです。
テクテクと歩き続けていくと石垣っぽいものが見えてくる。いやが上でもテンションがあがる。


たまに降りてくる人とすれ違う。
その人たちの表情を見ていると、なんとなく暗い。
城好き、という感じの人達ではないように見受けられる。

そこで推測。

①無理やり城好きの彼(旦那)に付き合わされて登ったものの、見所がわからず一人だけ先に下山することとした。
②今、話題の場所だから行ってみたが、何が良いのかよくわからず、あっという間に見終えてしまい、バスの時間がかなりあるので歩いて帰ることとした。

竹田城は案外ハードルが高い城だと思っていたのです。石垣と縄張りの妙を楽しむ城なので、それなりの知識がないと楽しさがわかりにくい。なのに大型バスが連なって大挙して観光客が押し寄せる、という事態になんとなく違和感を感じていたのです。

と、そんなことを考えながら歩いていくとバスの降車場が。
そして、ここからは、全ての人が歩いていかねばならないようです。


車で行ける道と違い斜度が増す。舗装はされているので歩くに不便はないのですが、結構な斜度だなと思いながら歩いていく。果たしてこの斜度を名古屋城などの観光系の城と同じ感覚で訪れた人は結構後悔するんじゃないだろうか、と、思いながら歩くに。


まぁ、丁度朝飯前の運動としていい程度なのですが、シャツは汗ばんだ状態で到着。
案内看板を見て興奮する。


この山の頂上を要塞化したような三方に睨みを利かす造り!
素晴らしい!

目の前に現れるこの石の光景。この有無を言わさぬ迫力は一見の価値あり。

もっとも、この城は最初から石造りであった訳ではなく、土の城から石垣化されたようです。
和田山観光協会作成の『国史跡 竹田城跡』によると永享三年(1431年)に山名宗全が造らせたようです。山名四天王と呼ばれる重臣のひとり太田垣氏の光継が13年もかけて作ったそうです。嘉吉三年(1443年)に土塁の城が完成し、太田垣氏が守っていたようです。羽柴秀吉が織田の部将として進出してきた際、元々尼子氏をめぐって同盟関係にあった毛利と山名は連携して織田に対抗したようですが、わずか3日で落城したようです。そして羽柴秀吉の弟秀長が城を改築しこの際に石垣の要塞化が図られた様子。その後、桑山重晴が入城し、最後は赤松廣秀が城主で廃城となったそうです。

近くに生野銀山があったことが極度の要塞化を招いたようです。

この城に入って連続する枡形虎口を体験すると、なんか秀吉っぽい、と、感じる。
この感覚は名護屋城でもあったぞ。と。秀吉の作る城は、なんとなくですが城の入り口である虎口に侵入する前に180度のターンをさせ、攻撃導線を伸ばしていることが多いように感じます。城に入るときに一本突き出た石垣をぐるっと回らさせられる感じです。


折れの連続で迷路が連続する感も城の置かれた緊張状態を現しているようにかんじます。


そして石垣の城としての凄みを感じたのがここ。


遠景だとこの写真。


ちょっとわかりにくいのですが上の写真の左側の中程から伸びる城の道なんですが、ものすごい斜度の絶壁に造られています。土だと崩れてしまうようなところを石垣で補強している。石垣によって、より城の作りが作り手の意図通りになっていく感があります。

まさに芸術作品と言って良いかと。

と、個人的にへー、ほー、ふーんと歩いていると別のグループが。

話の内容を盗み聞きしていると写真の愛好家の集団のようです。なるほど。
城そのものにはあまり興味が無い様子。

観光客が増えるということは、こういう城には興味が無い客層が増えるということなんだな、と、改めて実感する。

そして、天守があった本丸は立ち入り禁止になっている。


まぁ、承知の上で来たのですが、なんとも無念。
ボランティアガイドの方にお聞きしたところ、あまりに人が来すぎて生えていた草が踏まれてなくなり、土が露出した状態に雨が降ったところ土が流れて石垣が崩落する危険が発生したため、やむなく立ち入り禁止にしたそうです。

実際、この写真にありますように通路部分には黒い養生シートがずっと被せられていました。


その昔、本丸の石を400個くらい直すのに数千万円かかったとお聞きしました。
いやー、維持費がかかる!
そりゃ入場料取るのも仕方ないわ、と、納得。むしろ取るべきだわ、と、思う。

足助城も木を切って土の剥き出しで展示していたら土が崩れたと聞いたことがあります。
新城市の名城古宮城は木が生えており見通しは悪いのですが、その分、雨による土の崩落が防がれている、と、作手山城案内人の原田純一氏が述べておられるように、城にとって土が剥き出しになるということは、かなり保存のうえでマイナスになるのだな、と、改めて実感。

そもそも城は崩れたりすることは普通にあったようで、その都度付近住民がかり出されて修繕に当たっていたわけです。現在でも見やすいように木を切り草を刈った状態で人が殺到すれば土が痛むし雨にも晒されて城が壊れるのは当たり前なわけですね。

保存と観光とのバランスについて改めて考えさせられました。

そして、ボランティアガイドの方に最後の山道、舗装されて整備されているとはいえ結構きついですよね、と、話を振ってみたところ、山城ですので当然厳しい傾斜があるのですが、観光名所となったのでハイヒールの女性や老人が姫路城のような平城の感覚で訪れるので途中で断念せざるを得ないことも多いとお聞きしました。

だよねぇ、週3から4、朝に4km走ってる自分でも汗ばむ斜度。夏の暑いさなかに訪れれば木が無いだけに直射日光を遮るものもなく飲み物も売ってないので、結構ヤバい。今後訪れることを検討されている方は十分な準備を。


しかしまぁ、この城、本当に素晴らしい。

石垣で急斜面と狭い道、そして複雑に折れ曲がる通路によって山上の要塞と化している竹田城。間違いなく名城です。
建物はなくても感動する城がある。
それをまさに現している城と言えます。城が一過性のブームで終わらないのは、こうした城がクローズアップされていることからも伺えます。



本丸部分の立ち入り禁止が一刻でも早く解除され、縄張りの素晴らしさを堪能できる貴重な観光名所として輝き続けていただきたいものです。