長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

城だった吉野ヶ里遺跡

2013年09月12日 | 落城戦記
さて、かなり経ってしまいましたが、吉野ヶ里遺跡について。
嘘をついてまで参加した人がいる肥前遠征記詳細版です。

案外、この細かすぎる嘘を構築していた男のその後について、皆さんの興味を引いていたようで、あちこちで「で、あの人どうなったんですか?」と聞かれました。

結果発表。


「ばれてない」

本当か?!と思いましたが、本当だそうです。奥さんはかなりの善人だと思います。
意外だ。

さて、本題へ。
肥前遠征初日に訪れたのは吉野ヶ里遺跡。


主に戦国時代の城を巡る旅ですが、そのとき、そのときに興味のある歴史スポットへ立ち寄ってしまう我々。戦国時代ではなく弥生時代であるが、かの有名な吉野ヶ里遺跡があると言われれば、行かざるを得ない。

なにせ、
「あの邪馬台国!!か?」
という、東スポの見だしのような場所だから。

別に揶揄しているのでもなんでもなく、実際、九州説・畿内説、邪馬台国論争は決着がついておらず、どちらが邪馬台国だとはいえない状況。なのですが、「限りなく邪馬台国くさい。」ということなのです。
個人的には、私が歴史に嵌るきっかけとなった『少年少女 漫画日本の歴史』(小学館)シリーズでよく見たあの史跡が見られる!というだけに、歳を超越して大興奮。
それに、大学時代は考古学研究会という怪しげなサークルに入って、古墳やらの墓荒らしをしてましたので、なんとなく血が騒ぐ。

吉野ヶ里についた最初の感想は、とにかく、綺麗、そして巨大。
これが国指定史跡の実力か。

もともと企業団地の造成をするために整備したら、土木工事の天敵、埋蔵文化財が見つかり、仕方無しに掘り始めたら、ものすごいものが出てきてしまった、ということだそうです。
今では巨大な史跡として、企業のような雇用は生まないにせよ、人が訪れる一大観光拠点になっています。それなりに意義はあったのではないかと。

『環濠集落』という言葉は知ってましたが、実際目の当たりにすると、その戦闘意欲の高いつくりに驚かされます。


※逆茂木やら堀やら土塁やら・・・。

「これは城だな。」
思わず呟く。

城旅から逸れたつもりが城に行き。(季語無し)

城郭視点で見ていくと面白いと、早速気づかされます。

なにより資料館が充実しているのも嬉しい。
まずはジオラマで全体像を把握する。
全体像を把握してから実際の中を歩くとイメージしやすくなるのです。

すると、こんなものが。

※北内郭。

この出っ張りは横矢掛けたいのか!?
どう考えても不自然な形。シンメトリーさから神域的な部分であるともいえますが、この形の原形は城郭機能を持つ都城を参考にしたのでは無いかと、素人的に思えてしまう。

「これ、城じゃん。」
我々は再び呟いた。

狩猟採集で比較的身分に差が無かった平和な縄文時代、稲作が盛んで身分差が発生し戦乱も多かった弥生時代、という習い方をしてきたのですが、なるほど、こうした遺跡を見ると弥生時代の戦乱と言うものが、結構本格的なものなんだな、と、納得。

金と糞は溜まれば溜まるほど汚い。

という俗諺があります。

金持ちになっても、もっと金が欲しくなる、と聞く。(伝聞系なのは自分が金持ちになったことが無いから。)
稲作により豊かになり、それが故に戦乱が発生したとなると、なんとなくやりきれない。現在の競争社会の雛形なのか、と、思ってしまう。もっとも、縄文時代は自然との闘いに明け暮れ、人間同士が争ってる場合ではなかったのかもしれません。

まぁ、現代の価値観で過去を判断するのは、歴史を考える上で良くないので、ここまでにしておきます。

ここには地図が展示してあり、その地図をみると、吉野ヶ里遺跡との記載の周辺に「伊都国」だの「末蘆国」だのの記載がある。魏志倭人伝の邪馬台国周辺の国があるのだが、吉野ヶ里が邪馬台国だとは書いていない。
でも、伊都や末蘆があるならば、それは・・・。
「結果的に邪馬台国?といいたいんだよね。」と、地図の展示を見ながら笑ってしまいました。

さて、出土物を展示している場所で本を買うついでに、学芸員さんと思しき方と話をする。
流れで、
「ずばり聞きますけど、ここが邪馬台国ですか?」
と、聞くと、
「それはわかりません。笑。」
とのこと。
決して憶測でものを言わないという姿勢に大変好感が持てました。

そして、日本最古の人毛の話を聞きこちらも興奮。
そんなものが残るのか!そして、現物が展示してあるのか!と、驚いてみてみる。

※でらちっさ。でも、すごい。

同行者の紀伊守は、ガイドの話を聞くと話し込んで動かなくなり後の行程に支障をきたす癖があるので、皆で強制終了させて次の場所へ移る。

吉野ヶ里は広いので、一つのところに時間を掛けすぎると全部回れなくなってしまうのです。

少し行くとこんな高い建物が出てきます。


「たけーーー!」
「ほんとにこんなのあったんか?!」
「どうやって登るんだ?!」
と、ワイワイ言っていると、ガイドの方が声を掛けてきました。

「こちらから登れますよ。」
ということで、別の櫓に登る。
上は見晴らしが良い!

※こんなとか。

※こんなとか。

そして上に登ってガイドを受ける。

このガイドさんがまた素晴らしい。
根拠の無いことは言わない。判っていること、確実なことは惜しげもなく答えてくれる。

ここでは珠光改め団にょんが、
「で、ここは邪馬台国なんですか?」
と、聞くと
「どうなんでしょうねぇ。まぁ、答えが出ないで来訪した方が様々に考えて話し合う、っていうのが一番楽しいんじゃないでしょうか。」
と、かわす。

こういう説明の仕方が私は一番好きです。
押し付けない。来訪者の好きにさせてくれる。

よくボランティアガイドの人が根拠は無いけど思い込んでアツく語ることがよくあります。
それはそれで味があって好きなんですが、まれに論理が飛躍しすぎていたり、間違いに近い認識を基に話を組み立てしまったり、そちらの価値観を押し付けてくる場合があります。
そうなるとこちらも「・・・。」と、興ざめにならざるを得ない。

このガイドの方が言われるように、歴史好きは自分達の好きなことをワーワー言ってるのが一番楽しいわけなので、偏向的な考えを聞かされると「いや、それはないわ。」と論争になりかねません。

そういう意味では、流石は天下の吉野ヶ里。
歴史好きを楽しませてくれます。

櫓を降りるとそれぞれの家庭の風景が覗けます。

※髪を結う人の髪を結う紀伊守の髪を結う団にょんの図。

古代人との生活を満喫した後、いよいよ、本丸、いや、最も神聖といわれる北内郭へ向かいます。

この入口!

上記をくぐると

堀があって道は屈折して折れながら次の入口へ。

これを虎口と言わずして何と言おう。

まんま虎口。
どう考えても城としての機能が満載です。

道理で吉野ヶ里が名城百選に選ばれているわけだ、と、佐渡守が呟く。

北内郭には天守閣のように高い楼閣があり、その中を見学できます。

※ガイド風な団にょん。

最上階では眺めがいいだろうと思いきや、

※立ち入り禁止なので残念ながら混ざりたくても混ざれない。

祈りの場でした・・・。
最も神聖な場なので、騒いではいかんのでしょう。

で、その後、甕棺墓が大量に発見されたところへ行く。


実際の甕棺にレプリカの骨やら埋葬品が発掘当時の様子で陳列されており、圧巻です。
その上を歩いて見学、というのに、少々後ろめたさを感じてしまいますが・・・。
でも、迫り来る鬼気とでもいうのでしょうか。ど迫力でした。

その後帰路に付き、別の街に入ると伊勢神宮で見たお社のような倉庫を発見。


珍しいことに、中を乾燥させているところを目撃したのでパシャリ。


と、まぁ、大変面白い吉野ヶ里遺跡。
ガイドの方によると、実際の攻撃に対する防御施設と言うよりは、威容を見せ付けることで戦闘意欲をなくさせる、権威的な意味合いの方が強かったのでは、ということでした。

なるほど、それならば、ますます権威の象徴とも言うべき天守閣の意味に近づいてくる。

昔の今も人間の考え方ってそう変わらん、ていうことですかね。