城所道寿を追いかけていたら、どうやらこの城所家というのは『風は山河より』(宮城谷昌光新潮社)
の主人公菅沼定則と大きく関係があるのでした。設楽町田峯方面の人だと思って調べていたら、なんのことはない、思いっきり地元の人だった訳です。
この菅沼定則は、あの武田信玄2万5千の軍勢を野田城にひきつけ、500の軍勢で守り最後は井戸の水を武田軍の金堀衆に掘りぬかれて降伏した名将菅沼定盈の祖父です。
そもそもこの城所家は、東三河と豊田市の山間部を領地としていた富永家の有力な家臣だった家柄のようです。
富永氏は応天門の変で失脚したことで有名な伴善男を祖先とする伴氏の一族で、足利尊氏に従い、活躍した一族のようです。野田城近くの豊川付近に野田館に住んでいたようです。野田戦記なる本には「三州東は富永家西は吉良氏一国両家の守護たり」などと、隆盛振りをうたっていますが、実際には足利義氏が守護で、富永家は守護ではなく富永保(郡内にありながら郡司の勢力が及ばない荘園のようなものらしいです。)の保司であったようですので、荘官のようなものだったのでしょう。
※野田館を示す看板。現在遺構は確認できない。
時代が下がるにつれて、菅沼氏だ奥平氏だのが作手高原に移り住んできて、彼らが力をつけて領地を拡大していくと、富永氏は逆に実効支配地域が減少していく状態となり、8代目の千若丸の頃には、今の新城市野田、大野田、中市場、稲木、諏訪などしかないような状況になったようです。(ちなみに、上記の地域は現在でもかなり強固な地縁的結合があるようです。面白いものです。また、八名井や山吉田、下条、長山なども領地としていたと言う説もあります。)ところが、この千若丸は乱心して自刃してしまいます。『野田の今昔』だかには乱れた世に対応できず、領土も減り続けていたことで勇気が無く自刃したと書いてありますが、新城市誌などでは淡々と乱心自刃の事実のみが記載されています。菅沼家譜などには「千若丸若年而作法不正、後乱気自殺」とあるので、若い頃から素行が良くなく、後におかしくなって自殺した、ということになります。作法不正というのが素行不良=やんちゃで粗暴な奴、というよりも、神経がか細く欝っぽい状況だった、ということも考えられるのではないかと思います。やんちゃで粗暴な人が自殺するとは考えにくい。もっとも、家臣団が優秀な家だった、という記述もあるので、あまりに横暴な主君を実力ある家臣団が自刃に追い込んだ可能性もあります。ひょっとすると、主君の権力を拡張しようとして家臣団と対立し、粛清された結果なのかもしれません。が、こればっかりは「これだ。」という文書が残ってないので、いずれも「かもね。」ということを私が言っているにすぎません。
なんにせよ、家臣団を残して主家の血筋がいなくなってしまったことから、富永家の猷子にもなっていた近くの勢力家、田峯菅沼家から子を貰おうという話になったようです。どうも田峯菅沼氏とはいうものの、この時は新城市の平井という地区にある大谷城あたりまで進出してきているので、野田の富永家とはかなり近い距離にいたといえます。直線距離で言えば8kmくらいじゃないでしょうか。自転車で30分もあればいける距離です。(すいませんねローカルな話で。新城市のことがわからない方は、こちらの地図をどうぞ。)
このとき、田峯菅沼氏から人を貰おうと話し合ったのが、今泉四郎兵衛と城所浄古斎という家臣だったのです。この城所浄古斎こそが、城所道寿信景の親父なのだそうです。
さぁて、長くなってきましたので、続きは明日へ。
の主人公菅沼定則と大きく関係があるのでした。設楽町田峯方面の人だと思って調べていたら、なんのことはない、思いっきり地元の人だった訳です。
この菅沼定則は、あの武田信玄2万5千の軍勢を野田城にひきつけ、500の軍勢で守り最後は井戸の水を武田軍の金堀衆に掘りぬかれて降伏した名将菅沼定盈の祖父です。
そもそもこの城所家は、東三河と豊田市の山間部を領地としていた富永家の有力な家臣だった家柄のようです。
富永氏は応天門の変で失脚したことで有名な伴善男を祖先とする伴氏の一族で、足利尊氏に従い、活躍した一族のようです。野田城近くの豊川付近に野田館に住んでいたようです。野田戦記なる本には「三州東は富永家西は吉良氏一国両家の守護たり」などと、隆盛振りをうたっていますが、実際には足利義氏が守護で、富永家は守護ではなく富永保(郡内にありながら郡司の勢力が及ばない荘園のようなものらしいです。)の保司であったようですので、荘官のようなものだったのでしょう。
※野田館を示す看板。現在遺構は確認できない。
時代が下がるにつれて、菅沼氏だ奥平氏だのが作手高原に移り住んできて、彼らが力をつけて領地を拡大していくと、富永氏は逆に実効支配地域が減少していく状態となり、8代目の千若丸の頃には、今の新城市野田、大野田、中市場、稲木、諏訪などしかないような状況になったようです。(ちなみに、上記の地域は現在でもかなり強固な地縁的結合があるようです。面白いものです。また、八名井や山吉田、下条、長山なども領地としていたと言う説もあります。)ところが、この千若丸は乱心して自刃してしまいます。『野田の今昔』だかには乱れた世に対応できず、領土も減り続けていたことで勇気が無く自刃したと書いてありますが、新城市誌などでは淡々と乱心自刃の事実のみが記載されています。菅沼家譜などには「千若丸若年而作法不正、後乱気自殺」とあるので、若い頃から素行が良くなく、後におかしくなって自殺した、ということになります。作法不正というのが素行不良=やんちゃで粗暴な奴、というよりも、神経がか細く欝っぽい状況だった、ということも考えられるのではないかと思います。やんちゃで粗暴な人が自殺するとは考えにくい。もっとも、家臣団が優秀な家だった、という記述もあるので、あまりに横暴な主君を実力ある家臣団が自刃に追い込んだ可能性もあります。ひょっとすると、主君の権力を拡張しようとして家臣団と対立し、粛清された結果なのかもしれません。が、こればっかりは「これだ。」という文書が残ってないので、いずれも「かもね。」ということを私が言っているにすぎません。
なんにせよ、家臣団を残して主家の血筋がいなくなってしまったことから、富永家の猷子にもなっていた近くの勢力家、田峯菅沼家から子を貰おうという話になったようです。どうも田峯菅沼氏とはいうものの、この時は新城市の平井という地区にある大谷城あたりまで進出してきているので、野田の富永家とはかなり近い距離にいたといえます。直線距離で言えば8kmくらいじゃないでしょうか。自転車で30分もあればいける距離です。(すいませんねローカルな話で。新城市のことがわからない方は、こちらの地図をどうぞ。)
このとき、田峯菅沼氏から人を貰おうと話し合ったのが、今泉四郎兵衛と城所浄古斎という家臣だったのです。この城所浄古斎こそが、城所道寿信景の親父なのだそうです。
さぁて、長くなってきましたので、続きは明日へ。
金沢に来る前は三河に住んでいたようで、前田家より剣の指南役として、客人として三河より迎え入れられたと伝え聞いております。
何年か前に自分のルーツを探る旅で、野田館跡を訪れました。(田畑が多くて歩き疲れました。。)桜淵公園の川がエメラルドグリーンできれいだったことや、先祖がこのあたりに住んでいたかもしれないこと等、想いをはせながら歩き回った思い出があります。
富永家のその後について、逸話が残されていますので、他の方のブログですが、ご参考ください。
http://ameblo.jp/hajikamijinja/day-20120201.html
新城にもお越しいただいたことがあるとのことで、大変嬉しいです。また、是非お越しください。
私の母も旧姓冨永です。
菅沼の菩提寺の宗堅寺に富永家の位牌と墓石があるのはご存知でしょうか?
菅沼の男児が夭逝することから、富永家の位牌と墓石を菩提寺に建てたとのこと。
つまり菅沼は富永氏のたたりを鎮めるため位牌と墓石を建立したわけです。
外祖父(1896~1995)によれば、千若丸に近い血筋は首を刎ねられ、それ以降、点の無い「冨永」を名乗るようになったとのこと。
また宣伝のようになって恐縮ですが、下記の第二話で、詳述してあります。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage2.html
貴重な情報ありがとうございます。
やはり千若丸の乱心自刃にきな臭いものを感じていたのですが、菅沼は侵略をしたのが多分真相でしょうね。なるほど。そうなるとしばらく定則が稲木あたりで待機して野田になかなか入城できなかった理由もわかります。
そうなると、富永家の勢力や影響力は大きく、単に滅ぼすでは地域掌握ができずにその活用を図ったのが富永への養子縁組ということでしょうか。
大変興味深い部分です。
山分親方(元前頭筆頭武雄山/富永丈喜)の実家がうちの母の在所の新家の新家です。
もっとも山分親方の本家が明治に戸籍を作るとき、点をつけた「富永」にしてしまいましたが
最近室町時代が面白く感じます。点のない冨から付けてしまった富。
苗字にも歴史ありですね。