長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

森蘭丸 ~信長との愛の軌跡~

2012年04月06日 | 戦国逸話
 森蘭丸。美少年の代名詞として知られています。
 織田信長の小姓として抜群の事務処理能力を誇り、信長から寵愛を受けた人です。
 その才能を愛されたのみならず、本当に愛されていたと言われています。昔の武士は、教養の一つとして『衆道』をたしなんでいたと言われています。剣道、茶道のようなものです。
 ありていに言ってしまえば同性愛。
 現在と大幅に価値観が違う分野と言えますが、戦国時代にはなぜか当たり前だったようでして・・・。最高権力者である信長の寵愛を受けたのだから美少年だったのだろう、ということになっているのでしょう。
 信長と蘭丸。
 二人の関係について、名将言行録では以下のエピソードがあります。

○信長の爪
 信長がある時爪を切り、小姓達に捨てて来いと言う。そのまま捨てようとすると「待て」という。
 2・3人に同じように指示していると蘭丸が来る。蘭丸に捨てて来いと言うと、爪の数を数え始める。すると9しかない。
 「あと一つはどうされましたか?」と蘭丸が信長に聞くと、信長は袖を払う。すると一つがぽろりと落ちる。蘭丸はそれを拾い堀に捨てに行きました。信長は「あいつは儂の事をよ~く考えとるわ。」と言ってますます寵愛したとさ。

○障子開け
 蘭丸が障子を開けてきたので、信長は「閉めてこやー」と命令する。
 蘭丸が行ってみると、既に閉まっていたので、わざと開けてから「ぴしゃり」と音を立ててまた閉めて戻ってくる。実は信長は閉まっていることを知っていて、わざと申しつけた事なので音がしたことについて不審に思って、「障子あいとったんか?」と聞くと「いえ、閉じておりました。」と蘭丸は答える。
 「でも、ぴしゃって音がしたがや。なんでだ?」と信長が聞くと「殿が開いているから閉めてこい、とおっしゃった事を皆の前で承りました。そこへ閉まっておりました、と申し上げることは、殿のお間違いを指摘するようで申し訳なく、わざと開けてから音を立てて皆に聞かせたのです。」といったとさ。

 この二つのエピソード、信長はちょっと意地が悪いです。なんか、おネェ系のイタズラ的な感じというと勘ぐり過ぎでしょうか?いや、ひょっとしてこれらは、信長と蘭丸の愛の確認作業なのかもしれません。
 ここで注意していただきたいのは、信長が蘭丸をいたぶる、俗に言う「S」を演じているようで、実は、冷静に答える蘭丸に振り回されているようにも見受けられます。二人の間で『主人』の関係が入れ替わっていく様が見て取れる、と言っても良いのかもしれません。

○蜜柑運び
 ある坊さんが信長に謁見する際、蜜柑を沢山台に乗せて献上した。
 蘭丸が見せようと信長の方へ運んで行くと、
 「おみゃーの力では危ないて、倒れてまうて。」と信長が言った。
 案の定、座敷の真ん中くらいで台を持ちながら倒れてしまい、台も壊れるは蜜柑も座敷中に散らばる始末。
 「それみやー。だで、儂が言ったがや。」と信長は言った。
 次の日、周りの人達が蘭丸に、昨日は殿の前で失敗して恥かいちゃいましたね、と、いうと、「別に。」という。なぜか。
「殿が危ないと言っているのに、私がちゃんと運んでしまえば、殿の目利きが違う事になってしまいます。だからわざと転んだのです。主人の目利きが間違うという事は何に付けても良くないのです。」とのこと。
 聞いた人は皆感心したとさ。

 蘭丸を気遣う信長がいます。
 信長を気遣う蘭丸がいます。

 もはや、どちらがご主人様、というレベルを超えています。互いに精神的に依存し合う深い関係まで至った様が見て取れます。

 抜き差しならない関係というか抜き差ししている関係というか。

 今回は我ながら下品だと思う。

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新城の桜の名所桜淵公園と新城城築城秘話

2012年04月04日 | 戦国逸話
新城市の桜の名所桜淵公園の桜が遅まきながら咲き始めています。

満開のときは、桜で全体が霞がかったように白く映え、なんともいえぬ美しさです。そして中央構造線が走り深い淵のようにえぐれて走る豊川の渓谷と合わさって「ああ、日本に生まれてよかった。」と思える風景。

夕方ともなれば空気も澄んで、ほんと田舎に住むっていいな、と、つくづく思います。この桜の名所、名古屋付近であればとんでもない人出が予想される場所ですが、さすがに過疎に悩む街。充分にお花見できるスペースがあるので穴場だと思います。

ちなみにこの桜淵、城になりそうだった、という伝承があります。
長篠合戦で長篠城を守り抜いた奥平貞昌が、その戦功により織田信長から「信」の字を貰い、徳川家康から長女亀姫(母は正室築山殿)を貰うこととなります。(これにより「奥平信昌」と改名。)家康から「ワシの娘をやる以上、立派な城に住んでくれ。」といわれて長篠城から新たな城を作るため場所を探していたとき、候補地に上がったのです。
江戸時代に太田白雪という人が書いた『新城聞書』によれば、伊那道中(豊橋から飯田へ抜ける道)の要所のため、まずは新城市片山にある白山の森南側付近を検討したが縄張が思わしくない、ということで笠岩へ検討箇所を移したところ、対岸の庭野にある腕扱山(うでこきやま)から鉄砲を撃たせたら、遠いと思ったら弾が届いてしまって中止。そこで現在の新城城で落ち着いた、ということだそうです。

新城の片山は新城城からほぼ一直線に北になります。現在も白山神社があり、これが白山の森だったのだろうと想定されます。ここの東側には菅沼氏の大谷城などがあったりと、昔から築城されやすい場所だったこともあったかと思います。西側に川があったとの記述がありますが、徳定との間に現在も川があり、現在の流路とは違うと思いますが、これの古い奴では、と思われます。
しかし、片山では「縄張おもしろからず」とあり、何がどう面白くなかったのかわかりませんが、豊川沿いの笠岩へ視点を変えます。この笠岩が桜淵です。現在も桜淵公園内に笠岩という立派な岩があります。もし築城したら景勝地だけに、立派な城になったことでしょう。
片山は作手高原へ上がる山の麓。古くから城が築かれた場所とはいえ、川付近へ移動したのは水運を意識したのではないかとも思われます。桜淵公園から新城小学校へ行く途中に「入船」という地名があり、実際に船着場があった場所があります。

腕扱山から鉄砲を放って被弾するかどうかを調べた、というのも結構実戦的な話ですよね。ちなみに桜淵から豊川越しに腕扱山をみるとこんな感じ。

※桜の向こう、中央の高い山。
ここで、腕扱山から火縄銃撃ったら届くのか?ということが妙に気になる。
本日写真を取った時、結構遠いと感じたんですよね。で、今ネットのキョリ測で腕扱山山頂から新城観光ホテル付近までの直線距離を測ると600mを越える。。。火縄銃の射程は100m~200mだったかと思いますが、いくら重力加速を期待して山頂から打っても600mは流石に届かないのでは。麓のテニスコート付近からでも400mはある。しかし、『新城 文化財案内』では笠岩対岸の左岸から撃ったら届いた、とある。対岸だと丁度100m。しかも、若干左岸の方が右岸より高い。『新城聞書』の”腕扱山”とは、本当に山に登って撃ったというよりも、”腕扱山方面から”と捉えた方がいいのかもしれません。
「遠見相違有テ、玉道近ケレバ止ム」とあるように、遠いと思ったら玉が近くて止めたということなので、見た目との想像以上に届いた、ということのようです。
確かに新城城が実際に築かれた場所は、対岸との距離も気持ち離れていますし、なにより対岸の最も城に近い付近は川原になり、城の築かれた場所は崖の上なので高低差があり、玉が届きにくい。なるほど、確かにこちらに作る方が実戦向きだわ、と、納得。

城を作る場所を選ぶのも大変なんですね。
今週末が桜の見ごろだと思います。
桜淵公園にお越しの際は、是非、新城城築城の逸話にも思いを馳せていただければ、と、思います。

薄濃(はくだみ)

2012年04月02日 | 戦国逸話

娘がお茶を飲むときを楽しくしようと、半年くらい前に妻が買ってきた水筒です。
中にお茶を入れるときや洗うときはこのように。

この水筒を洗うたびに、私の中に「はくだみ」という言葉が浮かんで仕方ありません。
薄濃(はくだみ)とは「漆でかため金などで彩色したもの」だそうです。そして、薄濃は織田信長にまつわる有名なエピソードがあるのです。

○世にも珍しい酒のさかな
 天正二年(1574年)一月一日、京都および隣国の諸将は岐阜へご挨拶に参上した。それぞれ招かれて三献のご酒宴があった。これらの方々が退出されたあとで、信長公直属のお馬回り衆だけになったところで、いまだ見聞きしたこともない珍奇なおさかなが出され、またご酒宴となった。それは去年北国で討取られた、
一、朝倉左京大夫義景の首
一、浅井下野守(久政)の首
一、浅井備前守(長政)の首
以上三つの首を薄濃にして、折敷の上に置き、酒のさかなとして出されて、また、ご酒宴となったのである。それぞれ謡などをして遊ばされ、まことにめでたく、世の中は思いのままであり、信長公はいたくお喜びであった。
(以上『原本現代訳 信長公記』原著太田牛一 訳榊山潤 ニュートンプレス)

なかなか強烈な話なので、うっかりかわいらしい写真につられて見てしまった方には「なんちゅう話を!」と怒られる方もいるかも。すいません。
頭蓋骨全体なのか、頭蓋骨の頭頂部の皿状の部分のみなのか、金箔でそれに酒を注いで回し呑みしたとか諸説がありますが、この文書のみを読みますと、薄濃を見ながら呑んだだけ、という感じです。それも馬回り衆という身近な、気の許せる者だけで集まって呑んだようです。
これを織田信長の狂気と評する方もいれば、そういう時代だった、むしろ盛り上がった、という評する人もいます。原著者の太田牛一は織田信長の馬回り衆だった人で、この記事はあまり否定的な書き方をしているようには見えません。現在の我々から見ると、ちょっと引く、という内容ではあります。

まぁ、ようは娘の水筒を洗うにつけ、薄濃ってこんな感じじゃなかったか、とか、想像してしまう自分は一体何なんだ、と、自問自答している訳です。で、ひょっとしたら、世の中のお父さんで私と同じような思いを抱いている人がいるのではないかと思いまして、世に問うてみた、というのが本日のテーマです。ただそれだけです。

薄濃を酒の肴にした話を、酒の肴にするのが歴史好きなんでしょうな。