長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

新城の桜の名所桜淵公園と新城城築城秘話

2012年04月04日 | 戦国逸話
新城市の桜の名所桜淵公園の桜が遅まきながら咲き始めています。

満開のときは、桜で全体が霞がかったように白く映え、なんともいえぬ美しさです。そして中央構造線が走り深い淵のようにえぐれて走る豊川の渓谷と合わさって「ああ、日本に生まれてよかった。」と思える風景。

夕方ともなれば空気も澄んで、ほんと田舎に住むっていいな、と、つくづく思います。この桜の名所、名古屋付近であればとんでもない人出が予想される場所ですが、さすがに過疎に悩む街。充分にお花見できるスペースがあるので穴場だと思います。

ちなみにこの桜淵、城になりそうだった、という伝承があります。
長篠合戦で長篠城を守り抜いた奥平貞昌が、その戦功により織田信長から「信」の字を貰い、徳川家康から長女亀姫(母は正室築山殿)を貰うこととなります。(これにより「奥平信昌」と改名。)家康から「ワシの娘をやる以上、立派な城に住んでくれ。」といわれて長篠城から新たな城を作るため場所を探していたとき、候補地に上がったのです。
江戸時代に太田白雪という人が書いた『新城聞書』によれば、伊那道中(豊橋から飯田へ抜ける道)の要所のため、まずは新城市片山にある白山の森南側付近を検討したが縄張が思わしくない、ということで笠岩へ検討箇所を移したところ、対岸の庭野にある腕扱山(うでこきやま)から鉄砲を撃たせたら、遠いと思ったら弾が届いてしまって中止。そこで現在の新城城で落ち着いた、ということだそうです。

新城の片山は新城城からほぼ一直線に北になります。現在も白山神社があり、これが白山の森だったのだろうと想定されます。ここの東側には菅沼氏の大谷城などがあったりと、昔から築城されやすい場所だったこともあったかと思います。西側に川があったとの記述がありますが、徳定との間に現在も川があり、現在の流路とは違うと思いますが、これの古い奴では、と思われます。
しかし、片山では「縄張おもしろからず」とあり、何がどう面白くなかったのかわかりませんが、豊川沿いの笠岩へ視点を変えます。この笠岩が桜淵です。現在も桜淵公園内に笠岩という立派な岩があります。もし築城したら景勝地だけに、立派な城になったことでしょう。
片山は作手高原へ上がる山の麓。古くから城が築かれた場所とはいえ、川付近へ移動したのは水運を意識したのではないかとも思われます。桜淵公園から新城小学校へ行く途中に「入船」という地名があり、実際に船着場があった場所があります。

腕扱山から鉄砲を放って被弾するかどうかを調べた、というのも結構実戦的な話ですよね。ちなみに桜淵から豊川越しに腕扱山をみるとこんな感じ。

※桜の向こう、中央の高い山。
ここで、腕扱山から火縄銃撃ったら届くのか?ということが妙に気になる。
本日写真を取った時、結構遠いと感じたんですよね。で、今ネットのキョリ測で腕扱山山頂から新城観光ホテル付近までの直線距離を測ると600mを越える。。。火縄銃の射程は100m~200mだったかと思いますが、いくら重力加速を期待して山頂から打っても600mは流石に届かないのでは。麓のテニスコート付近からでも400mはある。しかし、『新城 文化財案内』では笠岩対岸の左岸から撃ったら届いた、とある。対岸だと丁度100m。しかも、若干左岸の方が右岸より高い。『新城聞書』の”腕扱山”とは、本当に山に登って撃ったというよりも、”腕扱山方面から”と捉えた方がいいのかもしれません。
「遠見相違有テ、玉道近ケレバ止ム」とあるように、遠いと思ったら玉が近くて止めたということなので、見た目との想像以上に届いた、ということのようです。
確かに新城城が実際に築かれた場所は、対岸との距離も気持ち離れていますし、なにより対岸の最も城に近い付近は川原になり、城の築かれた場所は崖の上なので高低差があり、玉が届きにくい。なるほど、確かにこちらに作る方が実戦向きだわ、と、納得。

城を作る場所を選ぶのも大変なんですね。
今週末が桜の見ごろだと思います。
桜淵公園にお越しの際は、是非、新城城築城の逸話にも思いを馳せていただければ、と、思います。