『家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八』
敵からこのように讃えられ、徳川四天王の一人に数えられる名将本多忠勝。
(唐の頭とはヤクの毛をつけた兜のこと。南蛮渡来のヤクの毛は豪華品として珍重された。)
飛んできた蜻蛉が止まったら、そのまま「すぅっ」と切れてしまったといわれる名槍「蜻蛉切」を振り回し、鹿角の兜を被って戦場を縦横無尽に駆けめぐり、生涯一度も傷を負うことが無かったものの、平和な時代となったとき、爪を切っていて小刀で小指を傷つけてしまったことで、自ら死期を悟ったといわれます。
ちなみに、こんな画像が残されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/7a/dc409d534767d680d1131534ef1c261e.jpg)
この画像、何度も何度も書き直させて、自身の怖さを強調させた、という逸話が残っています。ちなみに、この画像をみた私の友人紀伊守は「かなりのしゃがれ声だと思う。」という感想を述べています。
さて、忠勝の強さはどんなものだったのか。
『長湫(ながくて)の戦い』
小牧・長久手の戦いで森武蔵、池田勝入斎等が家康と戦って敗れたと知った秀吉は大いに怒り、自ら八万の軍勢を率いて急行した。(中略)
忠勝は部下に向かい、「今ここで命を落としても、秀吉の軍勢を一旦食い止めることができる。その間に家康公が体制を整え秀吉と戦えるものだ。忠臣の死すべき所は今こそ来たれり。潔く一戦をとげ、屍を戦場に晒し、その名を後世の残すのだ!!」と時々秀吉の大軍に鉄砲を放ち戦を挑むが、寡兵の忠勝を無視して秀吉は軍を進めた。
竜泉寺へ10町あたりの所で、忠勝は竜泉寺の川の端へ馬を寄せ、例の鹿角の兜を夕陽に輝かせ、落ち着き払って馬に水を飲ませた振る舞いを見た者は、皆感心した。(中略)
秀吉は「五百に足らぬ兵で儂の八万の軍勢に戦おうとするとは千に一つの勝ち目も無かろう。しかし、儂の軍勢を足止めして主君を勝たせようとするその志、勇気、比類無き忠臣本多かな。あのような者を撃つでない。」と弓鉄砲で本多隊を攻撃することを禁止した。(以下略)
夕陽に煌めく鹿角の兜。見る者全てを魅了し、敵将すら感動させたその忠心。比類無き名将の名を欲しいままにしています。
そんな無傷の名将にも、今の世ならば心の傷になったんではないかと思われるエピソードを発見。
『臭気に伏兵を知る』
ある戦いのおり、家康は忠勝を連れて物見に出たところ、忠勝が言うには「これより先へは行ってはなりませぬ。今、私は人糞を踏んだのですが、細かくて臭いがひどい。多分、敵が近くにあるものと思われます。」
その忠勝が報告する声を聞いて、敵の伏兵が現れた。家康が引き上げる時もあぶなかった。
さすがは無傷の男。うんこからでも見えざる敵を発見します。
戦場であっても出る物は出る訳で、敵ももう少し遅ければ真っ最中を家康や忠勝に見つかったかもしれません。
家康にしてみれば、人糞を踏んだ直後の忠勝から報告を受ければ「う、こやつ臭い。」と思ったことでしょう。ひょっとすると「こいつ、冷静な顔して敵情を報告しているが、ただ単に、うんこ踏んだ言い訳してんじゃないか?」とか思ったかもしれません。
ちなみにうんこと言えば忠勝の主である家康も負けてはいません。
三方ヶ原の戦いで負けた家康は、ほうほうの体で浜松城へ生還したとき、恐怖で脱糞していた、というエピソードを持っています。
やっぱり天下統一するような主従には、ウンが付いているんですね。
(付けたり)
今年の5月5日に行われる長篠のぼり祭では、Fさんが本多忠勝役を引き当てたそうです。当然、踏んでから参加していただけるものだと期待しております。
敵からこのように讃えられ、徳川四天王の一人に数えられる名将本多忠勝。
(唐の頭とはヤクの毛をつけた兜のこと。南蛮渡来のヤクの毛は豪華品として珍重された。)
飛んできた蜻蛉が止まったら、そのまま「すぅっ」と切れてしまったといわれる名槍「蜻蛉切」を振り回し、鹿角の兜を被って戦場を縦横無尽に駆けめぐり、生涯一度も傷を負うことが無かったものの、平和な時代となったとき、爪を切っていて小刀で小指を傷つけてしまったことで、自ら死期を悟ったといわれます。
ちなみに、こんな画像が残されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/7a/dc409d534767d680d1131534ef1c261e.jpg)
この画像、何度も何度も書き直させて、自身の怖さを強調させた、という逸話が残っています。ちなみに、この画像をみた私の友人紀伊守は「かなりのしゃがれ声だと思う。」という感想を述べています。
さて、忠勝の強さはどんなものだったのか。
『長湫(ながくて)の戦い』
小牧・長久手の戦いで森武蔵、池田勝入斎等が家康と戦って敗れたと知った秀吉は大いに怒り、自ら八万の軍勢を率いて急行した。(中略)
忠勝は部下に向かい、「今ここで命を落としても、秀吉の軍勢を一旦食い止めることができる。その間に家康公が体制を整え秀吉と戦えるものだ。忠臣の死すべき所は今こそ来たれり。潔く一戦をとげ、屍を戦場に晒し、その名を後世の残すのだ!!」と時々秀吉の大軍に鉄砲を放ち戦を挑むが、寡兵の忠勝を無視して秀吉は軍を進めた。
竜泉寺へ10町あたりの所で、忠勝は竜泉寺の川の端へ馬を寄せ、例の鹿角の兜を夕陽に輝かせ、落ち着き払って馬に水を飲ませた振る舞いを見た者は、皆感心した。(中略)
秀吉は「五百に足らぬ兵で儂の八万の軍勢に戦おうとするとは千に一つの勝ち目も無かろう。しかし、儂の軍勢を足止めして主君を勝たせようとするその志、勇気、比類無き忠臣本多かな。あのような者を撃つでない。」と弓鉄砲で本多隊を攻撃することを禁止した。(以下略)
夕陽に煌めく鹿角の兜。見る者全てを魅了し、敵将すら感動させたその忠心。比類無き名将の名を欲しいままにしています。
そんな無傷の名将にも、今の世ならば心の傷になったんではないかと思われるエピソードを発見。
『臭気に伏兵を知る』
ある戦いのおり、家康は忠勝を連れて物見に出たところ、忠勝が言うには「これより先へは行ってはなりませぬ。今、私は人糞を踏んだのですが、細かくて臭いがひどい。多分、敵が近くにあるものと思われます。」
その忠勝が報告する声を聞いて、敵の伏兵が現れた。家康が引き上げる時もあぶなかった。
さすがは無傷の男。うんこからでも見えざる敵を発見します。
戦場であっても出る物は出る訳で、敵ももう少し遅ければ真っ最中を家康や忠勝に見つかったかもしれません。
家康にしてみれば、人糞を踏んだ直後の忠勝から報告を受ければ「う、こやつ臭い。」と思ったことでしょう。ひょっとすると「こいつ、冷静な顔して敵情を報告しているが、ただ単に、うんこ踏んだ言い訳してんじゃないか?」とか思ったかもしれません。
ちなみにうんこと言えば忠勝の主である家康も負けてはいません。
三方ヶ原の戦いで負けた家康は、ほうほうの体で浜松城へ生還したとき、恐怖で脱糞していた、というエピソードを持っています。
やっぱり天下統一するような主従には、ウンが付いているんですね。
(付けたり)
今年の5月5日に行われる長篠のぼり祭では、Fさんが本多忠勝役を引き当てたそうです。当然、踏んでから参加していただけるものだと期待しております。