長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

浅野文庫諸国古城之図から日本古城絵図を経て天保国絵図へ。

2013年01月27日 | 
城を探訪される方ならば、一度は目にしたことがあるのが「浅野文庫諸国古城之図」の図面だと思います。


※二連木城跡大口公園案内看板掲載図面。

上記のような感じで、さりげな~く利用されているんですね。
で、この図面。

「全部見たい、全部みたい。」
と、思っていると、所蔵している広島市立図書館さんがWebギャラリーで全図を展示してくれていたりします。

浅野文庫諸国古城之図Webギャラリーリンク

177城あります。
で、久々に画図面をネットで眺めていたところ、この古城之図。

やたらと三河の城が多いことに気がつく。

額田地区から7城、設楽地区から8城、宝飯地区が14城、八名地区が6城、渥美地区が3城、加茂地区が8城、幡豆地区4城、碧海地区4城。
実に54城。

3割近くを占めていることになります。

で、作手の亀山城だったり古宮城だったり、鳳来医王寺裏手の医王寺城(長篠合戦のときの勝頼本陣陣城)だったりと、かなりマイナーな城についてまで掲載されています。細かいことはともかく、結構現状と似ています。

なんでこんなに三河の比重が高いのかは、ネットで調べりゃすぐ出てくるだろうとタカを括っておりましたが、わかりません。広島藩主の軍事研究用に作成されたらしい、と言うことくらいまでは広島県立図書館の企画展のチラシのデータで確認が取れましたが。
まぁ、徳川将軍家のお膝元だけあって神聖視したのか、それとも「徳川コノヤロー、いつかみてやがれ。」という浅野家の物騒な深層心理から調べたものかはわかりません。

で、名古屋城とかメジャーどころがあれせんがや、と、不思議に思っていたら、これとは別に「当城之図」という154城の絵図面があるそうです。これは電子データが確認できません。

これとは別に「日本古城絵図」というものが国立国会図書館デジタル化資料にあります。(※リンクは愛知県の城に飛んできます。)
220城余りが収録され、
「道、国順に23帙におさめる。諸藩の兵学者たちが藩用の甲州流兵学研究の資料として、江戸詰の期間などを利用し、つてを頼って写し集めた城郭図集の一例。寛文から貞享、元禄ごろに多く行われた。編纂時期における当城と古城に分けられている例が多いが、本図集は両者が混淆し、城郭のみの図、城下町を含む図などが混在、一部、古戦場図も含む。」だそうです。

こちらは浅野古城之図のようにマイナー城は少なく、三河ですと、岡崎城、刈谷城、田原城、吉田城と並んで、なぜか「田峯城」が掲載されています。
なぜかはわかりませんが、掲載されています。やるな田峯。

田峯をそれぞれ比較すると違いますので、出典が違うのでしょう。

などと、調べて「ほーん。」と感心してましたら、同じく国会図書館の絵図面で「国絵図」というのも掲載されています。これは幕府が諸藩に「お前の国の詳しい地理条件を報告せよ。」というもので、「叛乱したらこの図面があるから、すぐ攻め込むからな。」というためのもの。
天保の国絵図には三河国が見れるようになっています。

で、見てみると主要幹線道路や河川などが描かれていると同時に「長篠村」だの「布里村」だの馴染みの地名が!現在の行政区名(新城市では自治会・町内会のことを行政区と呼んでいます。)と一致する名称がたくさんでてきます。

なるほど。
よく見れば現在の国道301号によく似た「臼子⇒和田⇒戸津呂⇒川合⇒北畑⇒市場⇒鴨ヶ谷」なんてルートがあります。ただ、その道は「大和田⇒塩瀬⇒上一色⇒下一色⇒布里」と来て、海老から田口(設楽町)へ行くルート、門谷(鳳来寺方面)へ行くルート、大海(設楽原古戦場方面)へ行くルートと別れていきます。

天保だから大塩平八郎の乱だの水野忠邦の「天保の改革」だのなので幕末一歩手前くらいとはいえ、きっと戦国時代とさほど道は変わらないだろうから、こんな感じのルートを武田軍が辿ってきたのかね、と、現在のようにトンネルや橋で変えられてしまったルートに比べると想像がしやすい。
本などを読んでいても、いまひとつピンと来なかったのですが、この図面を見ながら考えると、よく理解できます。
その他、見代、今出平、石田、一鍬田だの、新城市民だと「おお。」という地名が満載です。
だから何だ、と、言われると困りますが。。。

城を考えるにしても、道路や集落の状況をある程度想像してみないと、なんでこんなとこにあるんかね?と、なってしまいます。そうしたときの一助になるサイト群かと思います。

なかなか時間がないと見られませんけどね。

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