長篠落武者日記

長篠の落武者となった城オタクによるブログです。

宇利城の保存を考えるシンポが開催されます。

2016年02月04日 | 
宇利城。

※宇利城石垣

どんなお城かと言えば
徳川家康が天下を取ることができたきっかけのお城
と、言ってよいかと。

① 徳川家康が江戸幕府を開けたのは松平家が三河国の支配者として戦国大名化できたから。
   ↓
② 松平家が三河国の支配者となったのは、家康祖父の松平清康が三河国を統一したから。
   ↓
③ 清康が三河国を統一できたのは、三河で松平家に最後まで抵抗した宇利城の熊谷氏を滅ぼしたから。

よって、家康が江戸幕府を開けたのは宇利城による、と、証明されました。(?)
風が吹けば桶屋が儲かる的な発想なのは否定しません。

宇利城攻めは、天下の御意見番として有名な大久保彦左衛門が書いた『三河物語』に詳しく記載がされているため、歴史好きにはそこそこ知られた戦いです。

吉田城の牧野氏を討った松平家は東三河の武士達をかなり帰服させますが、宇利城の熊谷家は松平家になびく気配がない。
この熊谷家は、源平合戦の一の谷の戦いで平家の若武者平敦盛を討取り武士稼業の業の深さを嘆いて出家した熊谷直実の末裔だそうです。この末裔の気概がぽっと出の松平家に従うことを潔しとしなかったのか何なのかよくわかりませんが、周囲の領主達と違い松平家に抵抗します。
そこで、松平清康は軍勢を率いて戦いを挑みますが、熊谷家も武名で有名な家なので激戦になります。
特に松平家の歴戦の特攻隊長松平右京亮親盛が大手口で孤立し討死。
右京と同じく大手口を担当していた清康の叔父松平内膳信定が救援しなかったことに激怒した清康は「一国にも代えがたい右京を討死させるとは!」と信定を激しく非難します。

以上の経緯が『三河物語』にはもっと詳しく記載されています。

ちなみに、宇利城で恥をかかされた信定は清康を恨み、この遺恨が松平清康が尾張織田家を攻めようとした際に部下に暗殺される「守山崩れ」を引き起こす原因となります。松平家は大混乱に陥り、織田家や今川家から侵略され孫の家康は人質生活を送る羽目になってしまいます。

清康が死ななければ徳川家が天下を統一したのはもっと早かっただろうに、というのが大久保彦左衛門の見解でした。

なお、熊谷家は織田家と結び松平家と対抗したという説を唱えているのが『改正三河後風土記』です。このあたりは証拠となる文書も無いので何とも言えません。

ちなみに、搦手口を担当していた清康は、内膳が助けず右京亮が討死する様を見て

「「内膳はどうして助けないのか」とこぶしをにぎりしめ、目をみ開き、顔をあからめ、歯をくいしばり、白泡をふいて、突立ち、にらみ、汗をおながしに」(ニュートンプレス社 原著:大久保彦左衛門 訳:小林賢章『原本現代訳 三河物語(上)』81頁)

なったそうです。

清康、激怒しすぎて血管キレそうになっています。

と、まぁ、こんなキレッキレな逸話を持つ宇利城の戦いですが、享禄三年(1530年)に松平清康は宇利城の熊谷備中守直盛を滅ぼした、と、『徳川実記』と『改正三河後風土記』に記載されています。『徳川実記』は徳川家の公式見解のようなもので、徳川家に都合の悪いことは書きません。『改正三河後風土記』も様々な既にあった文書をまとめたものなので、両書とも信憑性には注意が必要です。愛知県に関係のある古文書を集めた「愛知県史資料編10 中世3」の享禄3年を見ても特に宇利城に関する文書はありません。ただし、清康が文書を発給していない、あるいはこの時期の文書が散逸しているだけなのかもしれず、愛知県史にないから無いとも言えないため、通常は享禄三年が宇利城攻めの年とされます。

さて、この宇利城。
産廃施設を麓に作る計画があり、史跡としての保存が危ぶまれた時期もあったのですが地元中宇利区の尽力もあり、現在も見ることができます。
さらに、住民活動により間伐整備が進み、史跡としての整備も進んでいます。

こうした状況を踏まえ、今一度、地元の方や興味のある方に宇利城の歴史や保存活動を知っていただくとともに、今後の保存のあり方を考えるシンポジウムが開催されます。


2月21日(日)の午後2時から4時まで。
中宇利集落センターで行います。

宇利城保存会会長の安形伊佐男氏による基調講演や地元中宇利出身で㈱ジェイテクト社長の安形哲夫氏や地元ラジオ局アナウンサーらによるシンポです。
なお、安形社長は相当な城好きだそうでして、今年1月にはNHK大河ドラマの歴史考証等で有名な小和田哲男氏と対談もされているそうです。安形社長の宇利城トークも聞ける貴重な機会となっています。

参加は無料。
事前申込は不要です。
お気軽にお越しください。

なお、当日の同時間帯に、設楽原歴史資料館でも長篠・設楽原合戦を巡る最新の研究動向についてのシンポが開かれています。偶然日にちが重なってしまったのが大変残念です。
歴史資料館のものは今後の学説に影響を与えるようなスゴイ内容ですし、宇利城シンポは宇利城の保存活動を知っていただくとともに今後の保存を考えるための第一歩的な内容です。
それぞれ特徴がありますので、是非歴史にご興味のある方は、どちらかに参加して新城市の歴史デーを楽しんでいただけたらと思います。

開催日には、既に新東名も開通してますよ!

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ちょっと乱暴なのでは (柴田晴廣)
2016-02-06 23:17:35
 清康が牧野氏を滅ぼしたというのは、ちょっと乱暴なのでは
 長岡、笠間、田辺と江戸時代にも大名として残っているのですから
返信する
ご指摘ありがとうございます。 (うらにわ)
2016-02-07 05:18:56
確かにそうですね。
そのため、「吉田城の牧野氏を討った」に表現を変更しましたが、もっとよい表現があれば御教示ください。
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すごい (きっと)
2016-02-07 05:43:49
宇利城も訪ねておりますが、いよいよシンポジウム・・・。
何だかあちこちでお城について勉強できる機会が増えていくのは若かった頃の自分が見たら
夢のような状態です。どちらか行きたいと思っておりますがどうなるやら。

ところで道を隔てて反対側にある比丘尼城も結構謎なんです。
宇利峠周辺も鎌倉時代以降の山城があちこちに点在していて、城跡だけ見るとなかなか賑やかで、三ケ日・新城・作手方面から長野、岐阜まで県境の山に沿って沢山の砦があったようで
想像するだけでビリビリしてきます。
同様に古い寺社も沢山あり、今はひっそりしてますが昔々は人の往来も多かったのだろうなと
考えたりしていると時間が経つのを忘れます。(単なる妄想)
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比丘尼城 (うらにわ)
2016-02-07 05:58:26
宇利城シンポのターゲットは「地元で宇利城を知らない方」です。きっとさんレベルの方には設楽原歴史資料館のシンポをお勧めしています。私の周りで「城に興味が出始めた」という方には宇利城シンポをお勧めしています。
比丘尼城は一度行こうとして計画が流れてしまい、結果的に行けてません。あちらも地元の人が整備をして桜を植えて春には見ごろとなるとか。遺構等は見ていないのでなんともわかりません。
やはり宇利峠は遠州との重要なルートだけあって防御は相当充実していたと思います。今水寺と宇利城とかも良いですよね。信玄本人はともかく信玄の軍勢は間違いなく通っているルートでしょう。
想像するだけで楽しいです。
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