すっかり秋めいて参りましたが、半月ほど前のお盆の頃、ぬえら「能楽の心と癒やしプロジェクト」では第23次となる東日本大震災被災地支援活動を行って参りました。
行き先は最近入りびたり気味の気仙沼市。。(^_^;)
しかしながら内容は大変に充実していました。久しぶりの「星と能楽の夕べ」公演を行ったり、仮設住宅の慰問活動、そして こちらもおなじみになりました地福寺さんの「送り火の集い」に再び参加させて頂いたり。。それから年末年始の活動にもお手伝い頂いたフルート奏者の内野浩乃ちゃんにも再び参加頂いたこと、そのお相手としてのピアニストには宮城県・涌谷にお住まいの村上典子さんにご協力をお願いできたこと。。滞在中にも 被災地を見にやって来た 見ず知らずの若者を宿舎に泊めてあげたり。。なんだか いろんな事があった活動でしたが、印象的な活動であったと思います。
前回の活動では活動資金の枯渇に直面して有料のワークショップを中心に活動を行いましたが、その甲斐あって本年中の活動を継続できる見通しが立ち、今回はようやくプロジェクトの本来の主旨である仮設住宅での活動も、それからプロジェクトの独自の目標たる「文化の復興」へ向けての活動も、どちらも成就できたことが まずもって満足でありました。それでは活動報告の始まり~
【8月13日(水)】
朝、ぬえの自宅最寄り駅にてフルート奏者の浩乃ちゃんと待ち合わせ。そのまま東北道をひた走り仙台へ。
気仙沼市民でプロジェクトの協力者。。というより、すでに現地事務所か、現地コーディネーターのようになっている村上緑さんをここにてピックアップ。。が、じつはこの数日前より緑さんと音信不通になっていまして。。 ちょっと慌てましたが どうも緑さんの携帯が壊れたらしく、ようやくこの前日に連絡が取れて待ち合わせの場所と時間を決めることができました。
気仙沼に行く場合、通常なら東北道を一関まで一気に北上して、そこより東に1時間半かけて市内に至るのが普通ですが、仙台でいったん高速を降りてしまうと、どうもまた東北道に乗るのも煩わしく、また内陸を走る東北道で一関に行ってから気仙沼に向かうのはちょっと遠回りなので、2時間を掛けて三陸道~海岸線の国道45号線を通って行くのと時間のうえでは大差なく、こちらの道を使うことが多くなりました。
国道45号線を使うのは、それが被災各地を縫いながら進む道だからでもある。。震災から3年5か月、ぬえは震災の3か月後から当地に通っているので ちょうど3年を超えたばかり、という事になりますが、各地が復興に向けて変わっていく有様を。。私たちは「定点観測」なんて言っておりますが、そうやって見守っていく事も大切な活動と思うからでもあります。
そうして まずたどり着いた南三陸町・志津川の「防災対策庁舎」。もう骨組みばかりになってしまっていますが、いまはなき気仙沼の第十八共徳丸などと同様、震災遺構として保存するか解体するか、両論が入り乱れて議論は混迷を極めました。結局 南三陸町長が取り壊しを決定したのですが、昨年 国が震災遺構を保存するための支援を打ち出したため再び議論の対象となり、現在は有識者会議で保存すべき遺構の選定が行われて、その結果が出るまで結論は持ち越しになっているそうです。
一方では震災遺構が観光地化している印象もあり。。震災の記憶の風化とともに考えるべき問題はたくさん残されていますね。
志津川の防災庁舎といえば、大津波が襲うまで町民に避難を呼び掛け、自身は犠牲となった 職員の遠藤未希さんのエピソードが有名ですね。実際にその呼び掛けの放送を聞いて避難したため難を逃れた人々も多く、未希さんの放送は「天使の声」と呼ばれています。
→ 防災庁舎 遠藤未希さんの悲劇
そうしてご両親が未希さんの遺志を語り継ぐために、民宿「未希の家」を始めることになった。。というのは去年のニュースだったと思いますが、オープンはこの夏だったようです。
→ 民宿「未希の家」が来週のオープン
→ 南三陸町観光協会
志津川漁港に面する堤防の「汚すまい この海 この浜 この港!!」のキャッチフレーズ。港へ通じる道路も立派に舗装されていました。
こちらは2011年8月の光景です。海を守ろう、という呼び掛けが書かれた堤防が破壊されている姿に衝撃を受けたものでしたが。。
こちらは気仙沼市に入った本吉地区の小泉海岸です。ここも何回通ったことか。震災前にすでに廃墟となってしまっていたかつてのアミューズメントパークが、それでも以前は陸地にあった建物が、いまは海の波に洗われています。この日はちょっと雲が多かったね。
こちらは階上地区の杉ノ下の漁港近くにある小島。引き潮のときには島に渡る洲が現れるそうで、それを聞いてから渡るのを楽しみにしているのですが。。この日は波が荒れていてダメでした。
同じく杉ノ下地区に建てられた慰霊碑。この地区では震災によって100名近い人々が犠牲になりました。このこと自体はすでに聞いていたのですが、先日NHKのドキュメンタリー番組で経緯が紹介されていました。市の防災対策でもこの場所は津波にも冠水しない場所として避難場所として指定されていたのが、今回の震災による大津波はその想定を遙かに超えてしまい、結果として多くの犠牲を出してしまった場所です。。
番組では担当者の苦悩も描かれていました。
こうして夕方前に気仙沼市に到着しました。まずは今回の宿を提供してくださる佐々木優子さんのお宅にご挨拶。佐々木さんのお宅では「倉庫」と呼んでいる離れを今回拝借することになったのですが、二階建てでそれぞれ和室が設えられた、なかなかどうして倉庫とは言えない立派なおうちでした。
荷物をまずは宿舎に下ろし、それから気仙沼大島の花火を見に行くことに。
じつは今回は大島の「浦の花火」に二度目の出演をすることを当初計画していたのですが、種々の事情もあってそれは叶いませんでした。そうなってしまうと日程は花火大会に合うのだけれど、大島にフェリーで渡ってしまうと泊まる場所に困る。。というわけで、今回は気仙沼の本土から海を隔てて花火を見ることにしました。
こちらは松岩地区の漁港です。ここから海を隔てて大島までは数百メートルという距離でしょうか。花火が打ち上げられる大島の浦の浜まで、となると1kmくらいかと思いますが、思いの外に花火はよく見えました!
思えば震災の翌年の夏に大島の浦の浜の花火大会に出演しました。当時はイベントなどはまったくなくて、会場にはテントの下の露店がようやく1つか2つある程度でした。そこで。。大きな水たまりもある壊れた舗装道路で「羽衣」を舞ったのですが、遠く離れているはずの大島の集落からどうやって集まったのか。。路上は多くの住民さんが集まり、そうして大変興味を持ってご覧頂いたのでした。
あれから2年。。今回大島に渡れないのは当方の事情もありますが、花火大会に付属するイベントも増えてきたため、必ずしもすべての団体が出演できるわけではない、とも言われて断念しました。この日聞こえてくる大島のアナウンスによれば やはりずいぶん盛り上がっていろいろな上演や演奏が行われているようでした。
やがて宿に帰り、近所の飲み屋さんで作戦会議を開いてから就寝しました。
行き先は最近入りびたり気味の気仙沼市。。(^_^;)
しかしながら内容は大変に充実していました。久しぶりの「星と能楽の夕べ」公演を行ったり、仮設住宅の慰問活動、そして こちらもおなじみになりました地福寺さんの「送り火の集い」に再び参加させて頂いたり。。それから年末年始の活動にもお手伝い頂いたフルート奏者の内野浩乃ちゃんにも再び参加頂いたこと、そのお相手としてのピアニストには宮城県・涌谷にお住まいの村上典子さんにご協力をお願いできたこと。。滞在中にも 被災地を見にやって来た 見ず知らずの若者を宿舎に泊めてあげたり。。なんだか いろんな事があった活動でしたが、印象的な活動であったと思います。
前回の活動では活動資金の枯渇に直面して有料のワークショップを中心に活動を行いましたが、その甲斐あって本年中の活動を継続できる見通しが立ち、今回はようやくプロジェクトの本来の主旨である仮設住宅での活動も、それからプロジェクトの独自の目標たる「文化の復興」へ向けての活動も、どちらも成就できたことが まずもって満足でありました。それでは活動報告の始まり~
【8月13日(水)】
朝、ぬえの自宅最寄り駅にてフルート奏者の浩乃ちゃんと待ち合わせ。そのまま東北道をひた走り仙台へ。
気仙沼市民でプロジェクトの協力者。。というより、すでに現地事務所か、現地コーディネーターのようになっている村上緑さんをここにてピックアップ。。が、じつはこの数日前より緑さんと音信不通になっていまして。。 ちょっと慌てましたが どうも緑さんの携帯が壊れたらしく、ようやくこの前日に連絡が取れて待ち合わせの場所と時間を決めることができました。
気仙沼に行く場合、通常なら東北道を一関まで一気に北上して、そこより東に1時間半かけて市内に至るのが普通ですが、仙台でいったん高速を降りてしまうと、どうもまた東北道に乗るのも煩わしく、また内陸を走る東北道で一関に行ってから気仙沼に向かうのはちょっと遠回りなので、2時間を掛けて三陸道~海岸線の国道45号線を通って行くのと時間のうえでは大差なく、こちらの道を使うことが多くなりました。
国道45号線を使うのは、それが被災各地を縫いながら進む道だからでもある。。震災から3年5か月、ぬえは震災の3か月後から当地に通っているので ちょうど3年を超えたばかり、という事になりますが、各地が復興に向けて変わっていく有様を。。私たちは「定点観測」なんて言っておりますが、そうやって見守っていく事も大切な活動と思うからでもあります。
そうして まずたどり着いた南三陸町・志津川の「防災対策庁舎」。もう骨組みばかりになってしまっていますが、いまはなき気仙沼の第十八共徳丸などと同様、震災遺構として保存するか解体するか、両論が入り乱れて議論は混迷を極めました。結局 南三陸町長が取り壊しを決定したのですが、昨年 国が震災遺構を保存するための支援を打ち出したため再び議論の対象となり、現在は有識者会議で保存すべき遺構の選定が行われて、その結果が出るまで結論は持ち越しになっているそうです。
一方では震災遺構が観光地化している印象もあり。。震災の記憶の風化とともに考えるべき問題はたくさん残されていますね。
志津川の防災庁舎といえば、大津波が襲うまで町民に避難を呼び掛け、自身は犠牲となった 職員の遠藤未希さんのエピソードが有名ですね。実際にその呼び掛けの放送を聞いて避難したため難を逃れた人々も多く、未希さんの放送は「天使の声」と呼ばれています。
→ 防災庁舎 遠藤未希さんの悲劇
そうしてご両親が未希さんの遺志を語り継ぐために、民宿「未希の家」を始めることになった。。というのは去年のニュースだったと思いますが、オープンはこの夏だったようです。
→ 民宿「未希の家」が来週のオープン
→ 南三陸町観光協会
志津川漁港に面する堤防の「汚すまい この海 この浜 この港!!」のキャッチフレーズ。港へ通じる道路も立派に舗装されていました。
こちらは2011年8月の光景です。海を守ろう、という呼び掛けが書かれた堤防が破壊されている姿に衝撃を受けたものでしたが。。
こちらは気仙沼市に入った本吉地区の小泉海岸です。ここも何回通ったことか。震災前にすでに廃墟となってしまっていたかつてのアミューズメントパークが、それでも以前は陸地にあった建物が、いまは海の波に洗われています。この日はちょっと雲が多かったね。
こちらは階上地区の杉ノ下の漁港近くにある小島。引き潮のときには島に渡る洲が現れるそうで、それを聞いてから渡るのを楽しみにしているのですが。。この日は波が荒れていてダメでした。
同じく杉ノ下地区に建てられた慰霊碑。この地区では震災によって100名近い人々が犠牲になりました。このこと自体はすでに聞いていたのですが、先日NHKのドキュメンタリー番組で経緯が紹介されていました。市の防災対策でもこの場所は津波にも冠水しない場所として避難場所として指定されていたのが、今回の震災による大津波はその想定を遙かに超えてしまい、結果として多くの犠牲を出してしまった場所です。。
番組では担当者の苦悩も描かれていました。
こうして夕方前に気仙沼市に到着しました。まずは今回の宿を提供してくださる佐々木優子さんのお宅にご挨拶。佐々木さんのお宅では「倉庫」と呼んでいる離れを今回拝借することになったのですが、二階建てでそれぞれ和室が設えられた、なかなかどうして倉庫とは言えない立派なおうちでした。
荷物をまずは宿舎に下ろし、それから気仙沼大島の花火を見に行くことに。
じつは今回は大島の「浦の花火」に二度目の出演をすることを当初計画していたのですが、種々の事情もあってそれは叶いませんでした。そうなってしまうと日程は花火大会に合うのだけれど、大島にフェリーで渡ってしまうと泊まる場所に困る。。というわけで、今回は気仙沼の本土から海を隔てて花火を見ることにしました。
こちらは松岩地区の漁港です。ここから海を隔てて大島までは数百メートルという距離でしょうか。花火が打ち上げられる大島の浦の浜まで、となると1kmくらいかと思いますが、思いの外に花火はよく見えました!
思えば震災の翌年の夏に大島の浦の浜の花火大会に出演しました。当時はイベントなどはまったくなくて、会場にはテントの下の露店がようやく1つか2つある程度でした。そこで。。大きな水たまりもある壊れた舗装道路で「羽衣」を舞ったのですが、遠く離れているはずの大島の集落からどうやって集まったのか。。路上は多くの住民さんが集まり、そうして大変興味を持ってご覧頂いたのでした。
あれから2年。。今回大島に渡れないのは当方の事情もありますが、花火大会に付属するイベントも増えてきたため、必ずしもすべての団体が出演できるわけではない、とも言われて断念しました。この日聞こえてくる大島のアナウンスによれば やはりずいぶん盛り上がっていろいろな上演や演奏が行われているようでした。
やがて宿に帰り、近所の飲み屋さんで作戦会議を開いてから就寝しました。