諷誦文(ふじゅもん)とは死者の供養のために施主がその目的や布施の内容を書き、経や偈を唱える(=諷誦)よう僧に依頼する文で、供養の際に僧によって読み上げられるものだそうです。
この諷誦文の文章は、おそらく一定の形式があっただろうとはいえ、非常によく書かれていますね。まだ幼い少女が書いたという設定と違和感もないではないですが、賢い少女だったのでしょう。両親ともに亡くした少女が、その追善供養のために「蓑代衣(みのしろごろも)」を一襲(ひとかさね)、自然居士に布施として捧げた、というのです。ちなみにこのところ、古い金春流の本文には「蓑代衣ひとかさね三宝に供養し奉る」のあとに「あら面白や身の代衣と書いたるよな」という居士の言葉が挿入されています。現行でもそうなのかは知りませんが、次の言葉「かの西天の…」という居士の詠嘆にうまく繋がる言葉ですね。
今も記しました通り「かの西天の貧女が。一衣を僧に供ぜしは。身の後の世の逆縁」というのは諷誦文の本文ではなく、自然居士の詠嘆です。「西天の貧女」云々は『賢愚経』という経の中に出てくる、夫婦で一枚の衣しか持たないほどの貧家から聖者にその衣が供養として捧げられた話をアレンジしたもの、と言われていますが、この話は『沙石集』にも引用されているので、出典はそちらかも。
ちなみに『賢愚経』は東京国立博物館、東大寺ほかに伝わって国宝となっています(!)。伝えるところによれば天皇の宸筆だったり、料紙に釈迦の骨粉が漉き込まれていたり、とまことしやかな伝説まで付属して、大切に扱われていたのでしょう。そして、なんと今年の4月~つい今月まで、神戸にある白鶴美術館(「白鶴酒造」が運営する美術館)の「春期展」で館蔵品が公開されていたようです(!)。
舞台に戻って、これにて地謡が謡を引き取ります。
地謡「身の代衣恨めしき。身の代衣恨めしき。浮世の中をとく出でて。先考先妣諸共に。同じ台に生れんと読み上げ給ふ自然居士墨染の袖を濡らせば。数の聴衆も色々の袖を濡らさぬ。人はなし袖を濡らさぬ人はなし。
わかりにくい内容ですが、じつはこの部分、「身の代衣恨めしき」から「同じ台に生れん」までは少女が書いた諷誦文の続きです。「身の代衣」の「衣」から縁語の「裏」を引き出して「恨めしき」に続け、そうした浮き世から早く離れて「先考先妣」…つまり亡き父母が待つ蓮の台の上にともに生まれ変わりたい、という切実で、絶望的な言葉。これを見た居士も、それを聞いた聴衆も、袖を涙に濡らしたのでした。
このところ、本来の型は「同じ台に生まれん」まで文を読んだシテは、これを深く戴き、二つ折りにして左膝の上に持ち、右手でシオリをします。ちょいと忙しい型ですので、演者によっては「生まれん」よりもずっと前に文をたたむなどの工夫を(それでは詞章と合わないのですけれどもね…)しています。そうしてこの地謡の最後のあたりでシテは文を目立たぬように左下に捨て、後見がこれを引き取って下げます。
また、能の冒頭にワキ・ワキツレが登場しない場合(観世流の台本もこの形です)、この地謡の間にワキとワキツレは登場して橋掛リにて正面を向いています。
やがて諷誦文の朗読が終わり、橋掛リではワキ・ワキツレが名乗ります。
ワキ「これは東国方の人商人にて候。我このほどは都に上り。幼き者を一人買い取って候が。片時の暇と申して今朝より罷り出でいまだ帰らず候。承り候へば。東山雲居寺に。自然居士の説法の由申し候。もしもしさやうの所へ行きてや候らん。罷り出で尋ねばやと存じ候。
この諷誦文の文章は、おそらく一定の形式があっただろうとはいえ、非常によく書かれていますね。まだ幼い少女が書いたという設定と違和感もないではないですが、賢い少女だったのでしょう。両親ともに亡くした少女が、その追善供養のために「蓑代衣(みのしろごろも)」を一襲(ひとかさね)、自然居士に布施として捧げた、というのです。ちなみにこのところ、古い金春流の本文には「蓑代衣ひとかさね三宝に供養し奉る」のあとに「あら面白や身の代衣と書いたるよな」という居士の言葉が挿入されています。現行でもそうなのかは知りませんが、次の言葉「かの西天の…」という居士の詠嘆にうまく繋がる言葉ですね。
今も記しました通り「かの西天の貧女が。一衣を僧に供ぜしは。身の後の世の逆縁」というのは諷誦文の本文ではなく、自然居士の詠嘆です。「西天の貧女」云々は『賢愚経』という経の中に出てくる、夫婦で一枚の衣しか持たないほどの貧家から聖者にその衣が供養として捧げられた話をアレンジしたもの、と言われていますが、この話は『沙石集』にも引用されているので、出典はそちらかも。
ちなみに『賢愚経』は東京国立博物館、東大寺ほかに伝わって国宝となっています(!)。伝えるところによれば天皇の宸筆だったり、料紙に釈迦の骨粉が漉き込まれていたり、とまことしやかな伝説まで付属して、大切に扱われていたのでしょう。そして、なんと今年の4月~つい今月まで、神戸にある白鶴美術館(「白鶴酒造」が運営する美術館)の「春期展」で館蔵品が公開されていたようです(!)。
舞台に戻って、これにて地謡が謡を引き取ります。
地謡「身の代衣恨めしき。身の代衣恨めしき。浮世の中をとく出でて。先考先妣諸共に。同じ台に生れんと読み上げ給ふ自然居士墨染の袖を濡らせば。数の聴衆も色々の袖を濡らさぬ。人はなし袖を濡らさぬ人はなし。
わかりにくい内容ですが、じつはこの部分、「身の代衣恨めしき」から「同じ台に生れん」までは少女が書いた諷誦文の続きです。「身の代衣」の「衣」から縁語の「裏」を引き出して「恨めしき」に続け、そうした浮き世から早く離れて「先考先妣」…つまり亡き父母が待つ蓮の台の上にともに生まれ変わりたい、という切実で、絶望的な言葉。これを見た居士も、それを聞いた聴衆も、袖を涙に濡らしたのでした。
このところ、本来の型は「同じ台に生まれん」まで文を読んだシテは、これを深く戴き、二つ折りにして左膝の上に持ち、右手でシオリをします。ちょいと忙しい型ですので、演者によっては「生まれん」よりもずっと前に文をたたむなどの工夫を(それでは詞章と合わないのですけれどもね…)しています。そうしてこの地謡の最後のあたりでシテは文を目立たぬように左下に捨て、後見がこれを引き取って下げます。
また、能の冒頭にワキ・ワキツレが登場しない場合(観世流の台本もこの形です)、この地謡の間にワキとワキツレは登場して橋掛リにて正面を向いています。
やがて諷誦文の朗読が終わり、橋掛リではワキ・ワキツレが名乗ります。
ワキ「これは東国方の人商人にて候。我このほどは都に上り。幼き者を一人買い取って候が。片時の暇と申して今朝より罷り出でいまだ帰らず候。承り候へば。東山雲居寺に。自然居士の説法の由申し候。もしもしさやうの所へ行きてや候らん。罷り出で尋ねばやと存じ候。