ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『敦盛』~若き世阿弥の姿(その1)

2010-02-23 22:32:36 | 能楽
すっかりご無沙汰してしまいました~。なにかとバタバタとしておりまして…申し訳ありません…

ようやく ぬえが3月に勤めさせて頂きます能『敦盛』について書いてみることにしました。あ~、この時期に書き始めて公演までに間に合うのかしらん…と一抹の不安を抱えつつ…

それでは例によってまずは『敦盛』の舞台経過からご紹介させて頂きます!

囃子方と地謡が舞台に登場、所定の位置に着座すると、大小鼓はすぐに床几に掛けて「次第」という登場音楽を演奏します。通常は一段…という二部構成で演奏される事が多いですが、略して段ナシという一部構成の場合もあります。いずれにしても大小鼓の特定の手を聞いてワキは幕を揚げさせ、橋掛リに姿を見せます。

やがて舞台に入ったワキは、舞台常座で斜め後ろ、ちょうど鏡板の方を向いて謡い出します。これは「次第」で登場した役者が一人だけの場合の定型で、ワキ方に限らず、シテ方が登場する場合も役者が一人だけで登場する場合は後ろに向いて謡うのです。これに対して役者が複数登場する場合は舞台に立ち並んで向かい合って謡うことになります。

ワキ「夢の世なれば驚きて。夢の世なれば驚きて。捨つるや現なるらん。

これに引き続いて地謡が同じ文句を…厳密に言えば初句と三句目を低吟します。これを「地取リ」と呼んでいます。これまた「次第」に特有の約束事です。後ろを向く役者…地謡が意味ありげにその文句を復唱すること…その意味については かねていろいろな推測がなされてきましたが、決定的なものはないようですね。ぬえは、あえて意味を見つけだす必要はないように思いますけれども。

…と言いますのも、同じ登場音楽の中でも「次第」は ほかの、たとえば「一声」「出端」などと比べて、何というか、格式を持った、と言いますか、比較的カッチリとした登場の形なのです。ぬえは この所作や地謡の「地取リ」は、そういう「儀式性」を舞台に持ち込むための一種の装置なのではないかと考えています。

そりゃ、歴史的に見て、なんらかの宗教儀式のようなものの踏襲である可能性はありますけれども、それはたとえば「序之舞」や「神楽」にある「序」の部分でシテが足遣いをすることに陰陽道の「反閇」の影響が指摘される場合、果たしてそれが『井筒』という曲にあって 陰陽道上の意味づけがあって、その目的の成就のために導入されたのか、というと ちょっと疑問もある、そういうものなのだと思います。「楽」という舞が舞楽を模した、とされていて、たしかにそのような能の中で舞われる舞であっても、事実上能の「楽」の旋律は舞楽から影響を受けたものではなく、能の中で独自に作曲されているのも、能の四拍子で舞楽の演奏を模すのは実際には現実的ではないため、「舞楽を演じている」という場面のリアリズムよりも、むしろそれを演じている浮きやかなシテの心情に焦点を当てて、それを音楽化したもの、と見る方が近いのではないでしょうか。

「次第」に見られる特徴的な約束事は、それを行うこと自体に意味があって、カッチリとした「儀式性」を舞台に現出させること、それによってこの「次第」で登場した役者が具体的なセリフを述べる前に、その性格を印象づけることに、まずもって目的のようなものがあるのではないか、と ぬえは考えています。