さて後シテの装束ですが、まず下に天女の装束を着けます。紫大口・摺箔・腰帯・舞衣・鬘・鬘帯(バサラ付)・増面という出で立ちですが、頭の上に着ける天冠だけはこの時には着けません。上に大蛇の装束を着け、頭の上には白頭を着けるためで、さすがに白頭の下には天冠は仕込めませんですから。。
上記のうち、摺箔と鬘は前シテのそのままを中入で脱がずに引き続いて後シテで使います。ぬえは摺箔は『葵上』で使う自分の所蔵品の「鱗箔」を使おうと思っていまして、普通前後のシテがどちらも摺箔を着る場合、後シテが着る摺箔をあらかじめ前シテでも着込んで、その文様を前シテでは見せないように、肩から胸だけしかない「肩箔」(かたはく・けんぱく)をその上に着ることが普通なのですが、この『現在七面』では大蛇の鱗を暗示する鱗箔を、前後ともその文様が出るように前後のシテで通して着るのがよろしいかな、と考えています。
紫大口は、これはよくまあ考えたもので、大蛇と天女という正反対の性格の装束のどちらにも合わせられる大口は、たしかにこれしかないかも。演者によっては大口の上に 薄い袋状の大口カバーのようなものを用意されて、大蛇の役はそれで勤め、物着で天女に変わるときにサッとその「大口カバー」を脱いで、上下の装束を総取り替えにされる工夫も何度か拝見したことがありますけれども。
さて天女の装束が出来上がると、その上に大蛇の装束を着けます。袷法被、腰帯、白頭、大龍戴、輪冠、般若(眞蛇)がその装束で、あとの物着でスムーズに着替えができるよう、この大蛇の装束を着る際にも、ぬえはいろいろな工夫をこらしております(先日 稽古能のために、ぬえが後見に装束を着けて頂くために着付けの工夫を紙に書き出してお渡ししたのですが。。なんと細かい字でA4版用紙いっぱいになりました。。)
さて舞台上では間狂言が終わると、ワキ・ワキツレは「待謡」を謡います。ワキツレはここまでずうっと辛抱して黙って座っているのですが、それは前述の通り、前シテと日蓮が話し合う前場は日蓮の草庵であって、この場面には日蓮と前シテの二人だけしかいない、という設定だったからです。前シテの正体が大蛇だとわかり、懺悔のためにその本性を見せることを約して消えると、日蓮は大蛇の供養のために講堂のような別のところに場所を移して法要を行うのであり、この後場に至ってはじめてワキツレは存在意義が生ずることになります。すなわちワキツレは日蓮に唱和して大蛇のために法華経を読経する多数の僧たちなのであり、さらにはその法要を取り巻いてやはり日蓮に唱和する多数の法華経信者を表してもいるのです。
「待謡」に付けて囃子方は後シテの登場音楽を打ち出します。この登場音楽は「早笛」か、あるいは「出端」のどちらかをシテが選択することになっています。登場音楽に選択肢があるのは『安達原』などにも例がありますが、『現在七面』では、これはつまり大蛇が登場するのですから強く激しい登場音楽であるべきところ、ところが大蛇は「年経たる蛇身」であり、白頭で登場するのですから登場音楽の位もシッカリであるべきで、そこで激しい登場音楽の白眉。。そして龍神の登場にはつきものの「早笛」と、オールマイティな役柄に対応できる「出端」を両用として、シテの選択に任せてあるのでしょうね。
当然ですが「早笛」を選択した場合も、それは「シッカリ」した位の、ゆっくりと奏される「早笛」になります。「早笛」特有の、あの爽快感は、この曲では望むことはできませんですね。後シテの登場も同じくシッカリとした歩み(次第にノリが加速されることは必要ですが)となります。ですから「早笛」をシテが選択する場合は「大蛇の勢い」に主眼を置いて、されどもそれは後シテが走り出てくるわけではなく、心の中が、まあなんというか「畜生」の野性味が常に燃えている、という感じで出たい、という場合でしょうし、一方「出端」で登場する場合は、獣性は抑えられて それこそ懺悔の体で登場する、という演出を選択されるのでしょう。それでも大蛇の登場ですから「早笛」であっても「出端」であってもお囃子方は「強く」演奏することは変わりません。
で、ぬえの選択は。。やはり「早笛」です。曲の中のメリハリという演出効果の上では、こちらの方が似合うと思いますので。。
上記のうち、摺箔と鬘は前シテのそのままを中入で脱がずに引き続いて後シテで使います。ぬえは摺箔は『葵上』で使う自分の所蔵品の「鱗箔」を使おうと思っていまして、普通前後のシテがどちらも摺箔を着る場合、後シテが着る摺箔をあらかじめ前シテでも着込んで、その文様を前シテでは見せないように、肩から胸だけしかない「肩箔」(かたはく・けんぱく)をその上に着ることが普通なのですが、この『現在七面』では大蛇の鱗を暗示する鱗箔を、前後ともその文様が出るように前後のシテで通して着るのがよろしいかな、と考えています。
紫大口は、これはよくまあ考えたもので、大蛇と天女という正反対の性格の装束のどちらにも合わせられる大口は、たしかにこれしかないかも。演者によっては大口の上に 薄い袋状の大口カバーのようなものを用意されて、大蛇の役はそれで勤め、物着で天女に変わるときにサッとその「大口カバー」を脱いで、上下の装束を総取り替えにされる工夫も何度か拝見したことがありますけれども。
さて天女の装束が出来上がると、その上に大蛇の装束を着けます。袷法被、腰帯、白頭、大龍戴、輪冠、般若(眞蛇)がその装束で、あとの物着でスムーズに着替えができるよう、この大蛇の装束を着る際にも、ぬえはいろいろな工夫をこらしております(先日 稽古能のために、ぬえが後見に装束を着けて頂くために着付けの工夫を紙に書き出してお渡ししたのですが。。なんと細かい字でA4版用紙いっぱいになりました。。)
さて舞台上では間狂言が終わると、ワキ・ワキツレは「待謡」を謡います。ワキツレはここまでずうっと辛抱して黙って座っているのですが、それは前述の通り、前シテと日蓮が話し合う前場は日蓮の草庵であって、この場面には日蓮と前シテの二人だけしかいない、という設定だったからです。前シテの正体が大蛇だとわかり、懺悔のためにその本性を見せることを約して消えると、日蓮は大蛇の供養のために講堂のような別のところに場所を移して法要を行うのであり、この後場に至ってはじめてワキツレは存在意義が生ずることになります。すなわちワキツレは日蓮に唱和して大蛇のために法華経を読経する多数の僧たちなのであり、さらにはその法要を取り巻いてやはり日蓮に唱和する多数の法華経信者を表してもいるのです。
「待謡」に付けて囃子方は後シテの登場音楽を打ち出します。この登場音楽は「早笛」か、あるいは「出端」のどちらかをシテが選択することになっています。登場音楽に選択肢があるのは『安達原』などにも例がありますが、『現在七面』では、これはつまり大蛇が登場するのですから強く激しい登場音楽であるべきところ、ところが大蛇は「年経たる蛇身」であり、白頭で登場するのですから登場音楽の位もシッカリであるべきで、そこで激しい登場音楽の白眉。。そして龍神の登場にはつきものの「早笛」と、オールマイティな役柄に対応できる「出端」を両用として、シテの選択に任せてあるのでしょうね。
当然ですが「早笛」を選択した場合も、それは「シッカリ」した位の、ゆっくりと奏される「早笛」になります。「早笛」特有の、あの爽快感は、この曲では望むことはできませんですね。後シテの登場も同じくシッカリとした歩み(次第にノリが加速されることは必要ですが)となります。ですから「早笛」をシテが選択する場合は「大蛇の勢い」に主眼を置いて、されどもそれは後シテが走り出てくるわけではなく、心の中が、まあなんというか「畜生」の野性味が常に燃えている、という感じで出たい、という場合でしょうし、一方「出端」で登場する場合は、獣性は抑えられて それこそ懺悔の体で登場する、という演出を選択されるのでしょう。それでも大蛇の登場ですから「早笛」であっても「出端」であってもお囃子方は「強く」演奏することは変わりません。
で、ぬえの選択は。。やはり「早笛」です。曲の中のメリハリという演出効果の上では、こちらの方が似合うと思いますので。。