もう一昨日になりますが、東京は不思議な天気でした。朝から雷鳴が轟き、大雨になったかと思えば夕方にはカラリと晴れてきて。。そして空には大きな虹が架かりました。それでも時折小雨は続き。。これってキツネの嫁入りってやつですか。。ん。。?? キツネ。。野干。。あいつのところにお嫁さんが!!?? あの眠たそうな眼の、獰猛なあいつに??
。。いや。。ひょっとすると ぬえのところに「あいつ」が嫁入りに来るのかしらん。。なんせ玉藻の前という絶世の美女に化けて上皇を虜にするくらいのヤツだから。。゛(ノ><)ノ ヒィ
さて後シテが登場したところで、常の場合は大小前の一畳台の上で、白頭の小書の際は正中で、それぞれシテは床几に掛けます。白頭の時はこのようなワケで床几が二つ必要なのです。幕内で謡っているときにシテが腰掛けている床几は、その後「二つに割るれば」と幕から走り出てくるまでに舞台には持ち出せませんので。。
後シテが姿を現すと、ワキが謡い出します。
ワキ「不思議やなこの石二つに割れ。光の内をよく見れば。野干の形はありながら。さも不思議なる仁体なり。
「野干」。。すなわち狐の姿と認められるけれども、それは人体に似ているというのですが、やはり鬼神や化け物は二足歩行の方が強そうなのかなあ。
シテ「今は何をか包むべき。天竺にては班足太子の塚の神。大唐にては幽王の后褒娰と現じ。我が朝にては鳥羽の院の。玉藻の前とはなりたるなり。我れ王法を傾けんと。仮に優女の形となり。玉体に近づき奉れば御悩となる。既に御命を取らんと悦びをなしし所に。安倍の泰成。調伏の祭を始め。壇に五色の幣帛を立て。玉藻に御幣を持たせつゝ。肝胆をくだき祈りしかば。
このあたり、御伽草子の『玉藻の草子』や、これに類する室町期の草子に取材したもので、これは当時は相当に流布した話であったのか この簡略な言葉だけでお客さまは理解できたのでしょうが、今日では解説がなければ理解不可能でしょう。
御伽草子の諸本(七系統に分類される、とされている)や、ほかにも『曽我物語』等には、この玉藻の前が鳥羽院を悩ませたときに安倍の泰成の占いの結果として、また玄翁の前に美女の姿として現れて懺悔する殺生石の話として、総合すれば次のような話が出てくるのです。
殺生石の本性は天竺に棲む九尾の狐(二尾の狐とも。金毛九尾とも)で、羅陀という班足王の相談役となり、塚の神に千人の王の首を取って塚の神に捧げれば大王になれると王をそそのかした。九百九十九人の王を捕らえて最後の一人として普明王を捕らえ、さて一度に千人の王の首を斬ろうとしたとき、普明王は手を合わせて一日の暇乞いをし、故郷に帰って宮殿で僧の講義を受けたところ道理を悟り、これを班足王に伝えると、班足王もたちまちに悟りを開いて千人の王を解放した(別の話では千年の劫を経た妖狐が美女の姿に化け、班足王に見初められて后となった。このとき人間に虐められた仕返しを思いついて悪心を起こし、妖術を使って天災を起こすと塚の神の祟りだと王に告げ、毎日十人の民の首を塚の神に捧げさせた。この殺戮が千人に至ったとき、ついに人民が蜂起して王を滅ぼし、妖狐は逃亡した)
その後妖狐は唐土に渡り、幽王の后・褒娰(ほうじ)となった。褒娰はまったく笑顔を見せず、彼女を愛した王はなんとかこれを笑わせようと試みたが果たせずにいた。あるとき敵の出現を知らせる太鼓と烽火を王が上げたところ諸侯が参集したが、敵がいないので拍子抜けして帰っていった。ところがこれを見た褒娰ははじめて声をあげて笑い、これを喜んだ王は以後、褒娰を笑わせるためにしばしば烽火を上げた。次第に諸侯は烽火を信用しなくなり、あるとき本当に外敵が襲ったときにも諸侯は烽火を見ても参集せず、幽王は滅ぼされた。(これより以前に殷の紂王の后・妲妃となり、重税や刑罰で民を苦しめさせて反感を募らせて王朝を滅ぼした、という話もあり)
さらに後世、妖狐は吉備真備をたぶらかして遣唐使船に同乗して日本に渡り、鳥羽院を誘惑する玉藻の前となった
さて型としては「玉体に近づき奉れば御悩となる」と面を切ってワキを見込み、「玉藻に御幣を持たせつゝ」と扇を幣に見立てて左手に持って左の膝の上に立て持つのですが、白頭の場合は、細かいことですが そのうえに「仮に優女の形となり」と両袖をアシラウ型が追加されます。