前述の 師家の高輪のお舞台ですが、残念ながら戦災で焼失してしまいました。ぬえの師家の月例会「梅若研能会」は、この高輪舞台の舞台披キを起点にして数えておりまして、その舞台披キが昭和3年。。戦争で焼けた時期を思えば20年にも満たない短い間しか建っていなかったのですが、著名な初世梅若万三郎の数々の名演(。。と語り継がれているものを ぬえは聞くだけですけれども。。)が上演された舞台と思えば感慨も深く感じます。舞台自体は現存しないけれども、研能会は来年で創立80周年を迎える事となりました。
そして、もうかなり以前になりますが、ぬえがまだ書生をしていた頃、この高輪の舞台の跡地がどうなっているのか、実地踏査を試みたことがあります。
まずは高輪舞台の写真やら資料を集めまして、舞台のおおよその平面図を思い描いて。それから古い住所を頼りに芝・増上寺の近くの「みなと図書館」を訪れて古地図と住所照らし合わせて。大体の場所の見当をつけてはじめて高輪の地に向かったときには。。そこに建つ巨大なソニー本社ビルを見つけて、ああ。。これはもう。。ダメだ。。と落胆しました。これじゃあ跡形もないわね。
高輪のその地は、小高い山になっています。もうほとんど諦めムードでビルの間をかきわけるようにして「山頂」へ向かうと。。なんと古い煉瓦塀の片鱗が残っています。ええっ!?という感じであたりを調べてみると。。その「山頂」部分には、都心の一等地だというのに、個人のお宅が建っていて、そこには広い芝生のお庭も見えます。そしてそのお庭には。。写真で見た高輪舞台の二階建ての装束蔵が、そのまま建っていました。。
もう興奮状態の ぬえは、後先も考えずにそのお宅のチャイムを鳴らして応答を待ちました。
するとちょうどご主人がご在宅で、ぬえの呼び掛けに応じて出て来られました。ぬえは自分が梅若家の門人であること、師家の高輪舞台の踏査を続けていて、偶然にお蔵を発見したことなど事情をお話しましたところ、ご主人は快くお宅に招じ入れてくださいました。
ご主人いわく、かつてこの所に能楽師の家があった、ということは、ここに住んで以来聞いてはいました、とのこと。お蔵は当時からのままで、取り壊しには莫大な費用がかかるので、倉庫代わりに使っておられるのだそう。ぬえが自分で調べた舞台の特徴をお話申し上げると、なんとお蔵のほかにも、かつて母屋から舞台に至る太鼓橋のたもとにあった井戸まで現存しているそうです。
早速 ぬえは拝見を所望して、井戸やお蔵を実際に見る事ができました。
お蔵は煉瓦造りの二階建てで、二階の中央部には二畳分くらいでしょうか大きな穴が開けられています。これは演能の際には二階の天上に据え付けた滑車を利用して二階に所蔵してある装束類を下に下ろすために使われたのです。そういう能楽師の家のお蔵ならではの造作を別にしても、じつに堅牢な造りのお蔵でした。。そういえば、この高輪舞台の調査を始めてすぐに、高輪舞台を記憶する人々にその思い出を語って頂いたのですが、現・師匠のお姉さんにあたる方が ぬえに仰ったことには、「戦争で、まだ幼い私たちは疎開していたのよ。ようやく戦争が終わって、汽車で東京に帰ってみると。。そこは一面焼け野原だった。。でも汽車が品川駅に近づいたとき、車窓から小高い高輪の山の上に、見慣れた煉瓦造りのお蔵がそのまま残っているのを見つけたの。その時の感激は忘れられない」。。重い言葉です。
こうして、歴史の中で偶然にも残ることもある。。なんだか話題が脱線していますが、もう少しお付き合いのほど。。
そして、もうかなり以前になりますが、ぬえがまだ書生をしていた頃、この高輪の舞台の跡地がどうなっているのか、実地踏査を試みたことがあります。
まずは高輪舞台の写真やら資料を集めまして、舞台のおおよその平面図を思い描いて。それから古い住所を頼りに芝・増上寺の近くの「みなと図書館」を訪れて古地図と住所照らし合わせて。大体の場所の見当をつけてはじめて高輪の地に向かったときには。。そこに建つ巨大なソニー本社ビルを見つけて、ああ。。これはもう。。ダメだ。。と落胆しました。これじゃあ跡形もないわね。
高輪のその地は、小高い山になっています。もうほとんど諦めムードでビルの間をかきわけるようにして「山頂」へ向かうと。。なんと古い煉瓦塀の片鱗が残っています。ええっ!?という感じであたりを調べてみると。。その「山頂」部分には、都心の一等地だというのに、個人のお宅が建っていて、そこには広い芝生のお庭も見えます。そしてそのお庭には。。写真で見た高輪舞台の二階建ての装束蔵が、そのまま建っていました。。
もう興奮状態の ぬえは、後先も考えずにそのお宅のチャイムを鳴らして応答を待ちました。
するとちょうどご主人がご在宅で、ぬえの呼び掛けに応じて出て来られました。ぬえは自分が梅若家の門人であること、師家の高輪舞台の踏査を続けていて、偶然にお蔵を発見したことなど事情をお話しましたところ、ご主人は快くお宅に招じ入れてくださいました。
ご主人いわく、かつてこの所に能楽師の家があった、ということは、ここに住んで以来聞いてはいました、とのこと。お蔵は当時からのままで、取り壊しには莫大な費用がかかるので、倉庫代わりに使っておられるのだそう。ぬえが自分で調べた舞台の特徴をお話申し上げると、なんとお蔵のほかにも、かつて母屋から舞台に至る太鼓橋のたもとにあった井戸まで現存しているそうです。
早速 ぬえは拝見を所望して、井戸やお蔵を実際に見る事ができました。
お蔵は煉瓦造りの二階建てで、二階の中央部には二畳分くらいでしょうか大きな穴が開けられています。これは演能の際には二階の天上に据え付けた滑車を利用して二階に所蔵してある装束類を下に下ろすために使われたのです。そういう能楽師の家のお蔵ならではの造作を別にしても、じつに堅牢な造りのお蔵でした。。そういえば、この高輪舞台の調査を始めてすぐに、高輪舞台を記憶する人々にその思い出を語って頂いたのですが、現・師匠のお姉さんにあたる方が ぬえに仰ったことには、「戦争で、まだ幼い私たちは疎開していたのよ。ようやく戦争が終わって、汽車で東京に帰ってみると。。そこは一面焼け野原だった。。でも汽車が品川駅に近づいたとき、車窓から小高い高輪の山の上に、見慣れた煉瓦造りのお蔵がそのまま残っているのを見つけたの。その時の感激は忘れられない」。。重い言葉です。
こうして、歴史の中で偶然にも残ることもある。。なんだか話題が脱線していますが、もう少しお付き合いのほど。。