2日前(2月19日)。
バス停に向かう道すがらに、季節の花々を楽しませてくれる花壇がある。
マンションの一階の駐車場前に作られた花壇である。
花に見入っていると、いつも手入れに余念のない初老の婦人が、にこやかに頬笑みを浮かべながら近づいてきた。
「今年はコスモスがよく育ちましたね」
「きれいでしょう」と嬉しげに笑った。
ツツジ。コスモスもひと際げんきだった。ミニトマトも豊作だった。
7,8年前他界した札幌出身の司法関係の仕事をしていて,
沖縄の新聞社に勤め、晩年は広告代理店を経営していた人がいた。
取り敢えず、佐々木氏(仮名)としておこう。
100円ショップが一般的になった頃、彼は
「僕は100円ショップには行かない。絶対行かない」という。
「どうしてですか?結構、良いものもありますよ」不審に思って訊ねると
「同じような物を作って100円で売れるというのは、人件費が安いからだ。
労働費を叩かれて、反発も出来ず働いているんだ。
だから、商品は安く売れるだけだ。
あれらのの商品を見ていると涙が出てくる」
そういった彼の身体は怒りに震えているようにみえた。
「戦後の貧しかった頃のことを思い出すんだ」
私より8歳上の昭和8年生まれだった。
飄々とした風格は作家を連想させたし、知識も豊富だった。
私は、彼に兄のような親しみを持っていて、自由奔放に振る舞うことが出来た。
疑問に思ったことは何でも質問できたし、彼は揺るぎない信念をもっていたから、明確に、躊躇なく答えてくれた。
転勤を繰り返していると地元のことについて質問するのはなかなか神経を使うものだ。
沖縄での生活が長かった彼は、何でも話してくれたし、教えてもくれた。
私の営業所は那覇市内を流れる久茂地川沿いにあった。
川幅は10メートル位だったろう。
営業所の前は車が2台駐められる余裕があったから、よく人が訪ねてきた。
川向うの土手には立派なデイゴの並木があり、5月には真っ赤な花を咲かせた。
肉厚の花びらは好きではなかったが、
「その内に、好きになるかもしれないよ」と彼は笑って言った。
ある日の夕方、夫人を伴って営業所を訪ねてきた。
「お揃いで、珍しいですね」
事務所のドアは明るく、それに続くウインドーは広く、事務所内は明るかった。
道路は一方通行で、58号線から入ったところであった。
「最近、ご無沙汰しているから寄ってみた」
彼はにこにこしながら、ドアを開けて入ってきた。
面長の端正な顔立ちとすらっとした体型にどこか育ちの良さが感じられる。
夫人は快活で、明るく、前向きなさっぱりした性格で典型的な沖縄の女性だった。
「いらっしゃいませ」
事務の手を止め、椅子から立ち上がりながら、美人で二十歳すぎの営業所自慢の明代が会釈をした。
身長が167cmあり、日本的美人顔でスタイルも抜群だった。
時折、那覇市内で行われるショーのモデルに借り出されていた。
「明代ちゃん、コーヒーね」
「はーい」
心地よい、明代の明るい声が、間髪入れずに返ってきた。
佐々木さんは彼女の姿を目で追いながら、
「実にいい娘だねえ」と目を細めながら微笑んだ。
「ありがとうございます。うちの看板娘です」
20分ほどして、
「きょう、どう?よかったら一杯やらない?」
時計は17時半を廻っていた。
「明代ちゃん、佐々木さんと出るけど、何かあるかな」
「きょうはありません。お疲れさまでした」
我々三人がドアを開けると、明代もドアの外まで出てきて
「ありがとうございました。失礼します」
と会釈をした。
自然と出る、明代のこうした振る舞いが来客には人気があった。
「ありがとう。所長を借りてゆきます」
佐々木さんは微笑みなが明代に軽く手を挙げた。
「この近くで寿司屋を見つけました。どうですか?」
と誘ってみる。
「きょうはね、いいことがあってね。この人とあなたを誘ってみよういうことになったんだ。
小料理屋だけど美味しいよ。
国際通りの入口付近だ。2,3歩路地を入るけどね」
「それはたのしみですね」
「うん、きょうは僕の奢りだ」
何でもないことのようにさらっと言う。
「いつも申し訳ありません。それじゃ、存分にいただきます」
夫人がその言葉をとって、
「あまり食べませんよねえ。お酒の量も少ないし・・・」
遠慮しているのじゃないの、と言わんばかりである。
「胃が小さいのかなあ。自分では腹いっぱい戴いているのですが。
子供の頃から、ごはんのおかわりをすると、おふくろが驚いて、喜んだものです」
営業所を出て、左に折れて久茂地川沿いを5分ほど歩き、左に折れて国際通りを横切って路地に入ったところにその店はあった。
小さな木造のその店は、4人掛けのテーブルがふたつと4,5人も座ればばいっぱいになるほどのカウンターがあった。
その店を入るなり、「佐々木さんらしいな」と思った。
あれこれと、取り留めのない話題にしばらく和んだ。突然、
「うちのチビが出ていって帰らなくなってね」
佐々木さんは胸に溜めていたものを吐き出すように、突然、そう話し始めた。
「いつも連れていて、おふたりで可愛がっていたチビちゃんでしょ?」
当時は名前は覚えていたが、多分、中型犬のチビだったと思う。
「うん、10日ほど前に突然いなくなってね、自宅周辺を二日ほど探し回ったけど見つからないし、見た人もいなかったんだ」
と小さく笑った。
「写真を印刷して、近所の人に手渡したり、心当たりの場所には貼って回ったんだ」
主人が喋りに熱中している時は、いつも傍で、夫人はニコニコ笑っている。
「そうしたら、きょう友人から、電話があって『玉城(タマグスク)の琉球ゴルフ場の近くで君のところの愛犬を見つけたぞ。こんなところにいるわけ無いとは思ったが、よく似ているので気になって電話した』というんだ」
「ええ?10キロ近くは離れているでしょう?それで・・・」
「この人(夫人のことをいつもこう呼んでいた)も休みだったので一緒に行ったんだ。すぐに見つけたよ。
『〇〇!』と呼んだら、勢いよく走って来るなり、激しくじゃれついてきた」
「よかったですね。あんなに可愛がっていらしたから安心したでしょう」
といいつつ、「おめでとうございます」と盃を挙げた。
「それでね、しばらくあんたと逢ってないな、とこの人と話して、一緒に食事でもしようか、ということになった次第だ」
そういって、いつものように小さく笑った。
次の瞬間、わたしは悔いても取り返せぬ生涯忘れえぬ大失態を演じるのである。
「わたしが子供の頃、ポチという名の犬を飼っていました。
小学校4年生だったと思いますが、両親は揃って母方の叔父の家を4,5日毎に訪ねていました。
何か相談事があったようで、夕飯が終わると父と母が連れ立って叔父の家に向かいました。
5、6キロほどの夕闇の道を歩くのです。
家を出て日豊本線の踏切を渡り、国道10号線に沿って城野駅という駅前を過ぎて、すぐに田畑の続く薄暗い農道を3キロほど歩くのです。
そんな日が2ヶ月ほど続いたのですが、2度ほど子供たちも一緒に行きました。
その時はポチも一緒でした。
ある時、両親は叔父の家に行き、子供たちは留守番でした。
周囲は2,3軒の農家があるだけで畑が拡がっているようなところでしたから、散歩代わりにポチの鎖を解いてやります。
その日もいつものように放してやりました。
ところがその晩、いつまで経ってもポチは帰ってきませんでした。
翌朝、
「ポチらしい犬が国道10号線の城野駅前で死んでいます。車に轢かれたみたいです」
と隣家の長男から電話が入りました。彼は出勤途上だったらしいです。
2度ほど通った道筋を覚えていたのでしょうね。
叔父の家まで5,6キロでしたから、ポチが死んでいたのは中間地点の3キロ位行ったところでした」
一気に喋って、あのときの衝撃を思い出し、話し続けてしまった。
「畜生と言えども、人間とそんなに変わらないものですね」
これがいけなかった。
「畜生という言葉はいただけないなあ」
突然、温和な佐々木さんの表情が強張った。
「え?」唐突だったので面食らった。
「そうよ。畜生はないわ」
夫人の顔も暗かった。
その日、どう散会したか記憶にない。
確かに、「畜生」という言葉を言い出す前に、瞬間、違和感を感じた。
きょうも「畜生」を辞典とネットで確かめてみた。
あの日、帰宅するなり調べた内容と変わりはなかった。
①けもの ②人を罵っていう言葉
使用例で「畜生!。畜生め!。畜生道。畜生の境遇。・・・・・などとあった。
あのとき「人間以外の動物を『畜生』と言うでしょう」と言い募ったが、これは屁理屈だ。
今の時代なら、然程、気にすることもないかも知れない。
我々の世代は「言霊」と云って、言葉を非常に大事にした。
「書いた物は破るか火に焚べれば証拠は残らないが、言葉は消すことは出来ない」
そう言った先輩もいた。
最近の報道やコメンテーターの発言には「法律」が全ての規範になっている。
我々の世代には法律の前に、人として、してはならぬこと「道徳・道義・道」があった。
これらを超える行為を禁じるのが法律だと教えられたものだ。
穏やかで、確固たる信念をもった佐々木さんが不快感を顕にしたこの一言は数十年が過ぎても忘れられない。
その後、佐々木さんには拘ることなく、変わらぬお付き合いをしていただいた。
数年後、佐々木さんは他界した。
夫人から電話をいただき、駆けつけた時は葬儀も過ぎた数日後であった。
急ぎ作られたであろう白木と白い布が、窓から差し込む陽の光に眩しかった。
*佐々木氏がご機嫌の時は、必ずカラオケで歌った『黄金の花」(くがねのはな)
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バス停に向かう道すがらに、季節の花々を楽しませてくれる花壇がある。
マンションの一階の駐車場前に作られた花壇である。
花に見入っていると、いつも手入れに余念のない初老の婦人が、にこやかに頬笑みを浮かべながら近づいてきた。
「今年はコスモスがよく育ちましたね」
「きれいでしょう」と嬉しげに笑った。
ツツジ。コスモスもひと際げんきだった。ミニトマトも豊作だった。
7,8年前他界した札幌出身の司法関係の仕事をしていて,
沖縄の新聞社に勤め、晩年は広告代理店を経営していた人がいた。
取り敢えず、佐々木氏(仮名)としておこう。
100円ショップが一般的になった頃、彼は
「僕は100円ショップには行かない。絶対行かない」という。
「どうしてですか?結構、良いものもありますよ」不審に思って訊ねると
「同じような物を作って100円で売れるというのは、人件費が安いからだ。
労働費を叩かれて、反発も出来ず働いているんだ。
だから、商品は安く売れるだけだ。
あれらのの商品を見ていると涙が出てくる」
そういった彼の身体は怒りに震えているようにみえた。
「戦後の貧しかった頃のことを思い出すんだ」
私より8歳上の昭和8年生まれだった。
飄々とした風格は作家を連想させたし、知識も豊富だった。
私は、彼に兄のような親しみを持っていて、自由奔放に振る舞うことが出来た。
疑問に思ったことは何でも質問できたし、彼は揺るぎない信念をもっていたから、明確に、躊躇なく答えてくれた。
転勤を繰り返していると地元のことについて質問するのはなかなか神経を使うものだ。
沖縄での生活が長かった彼は、何でも話してくれたし、教えてもくれた。
私の営業所は那覇市内を流れる久茂地川沿いにあった。
川幅は10メートル位だったろう。
営業所の前は車が2台駐められる余裕があったから、よく人が訪ねてきた。
川向うの土手には立派なデイゴの並木があり、5月には真っ赤な花を咲かせた。
肉厚の花びらは好きではなかったが、
「その内に、好きになるかもしれないよ」と彼は笑って言った。
ある日の夕方、夫人を伴って営業所を訪ねてきた。
「お揃いで、珍しいですね」
事務所のドアは明るく、それに続くウインドーは広く、事務所内は明るかった。
道路は一方通行で、58号線から入ったところであった。
「最近、ご無沙汰しているから寄ってみた」
彼はにこにこしながら、ドアを開けて入ってきた。
面長の端正な顔立ちとすらっとした体型にどこか育ちの良さが感じられる。
夫人は快活で、明るく、前向きなさっぱりした性格で典型的な沖縄の女性だった。
「いらっしゃいませ」
事務の手を止め、椅子から立ち上がりながら、美人で二十歳すぎの営業所自慢の明代が会釈をした。
身長が167cmあり、日本的美人顔でスタイルも抜群だった。
時折、那覇市内で行われるショーのモデルに借り出されていた。
「明代ちゃん、コーヒーね」
「はーい」
心地よい、明代の明るい声が、間髪入れずに返ってきた。
佐々木さんは彼女の姿を目で追いながら、
「実にいい娘だねえ」と目を細めながら微笑んだ。
「ありがとうございます。うちの看板娘です」
20分ほどして、
「きょう、どう?よかったら一杯やらない?」
時計は17時半を廻っていた。
「明代ちゃん、佐々木さんと出るけど、何かあるかな」
「きょうはありません。お疲れさまでした」
我々三人がドアを開けると、明代もドアの外まで出てきて
「ありがとうございました。失礼します」
と会釈をした。
自然と出る、明代のこうした振る舞いが来客には人気があった。
「ありがとう。所長を借りてゆきます」
佐々木さんは微笑みなが明代に軽く手を挙げた。
「この近くで寿司屋を見つけました。どうですか?」
と誘ってみる。
「きょうはね、いいことがあってね。この人とあなたを誘ってみよういうことになったんだ。
小料理屋だけど美味しいよ。
国際通りの入口付近だ。2,3歩路地を入るけどね」
「それはたのしみですね」
「うん、きょうは僕の奢りだ」
何でもないことのようにさらっと言う。
「いつも申し訳ありません。それじゃ、存分にいただきます」
夫人がその言葉をとって、
「あまり食べませんよねえ。お酒の量も少ないし・・・」
遠慮しているのじゃないの、と言わんばかりである。
「胃が小さいのかなあ。自分では腹いっぱい戴いているのですが。
子供の頃から、ごはんのおかわりをすると、おふくろが驚いて、喜んだものです」
営業所を出て、左に折れて久茂地川沿いを5分ほど歩き、左に折れて国際通りを横切って路地に入ったところにその店はあった。
小さな木造のその店は、4人掛けのテーブルがふたつと4,5人も座ればばいっぱいになるほどのカウンターがあった。
その店を入るなり、「佐々木さんらしいな」と思った。
あれこれと、取り留めのない話題にしばらく和んだ。突然、
「うちのチビが出ていって帰らなくなってね」
佐々木さんは胸に溜めていたものを吐き出すように、突然、そう話し始めた。
「いつも連れていて、おふたりで可愛がっていたチビちゃんでしょ?」
当時は名前は覚えていたが、多分、中型犬のチビだったと思う。
「うん、10日ほど前に突然いなくなってね、自宅周辺を二日ほど探し回ったけど見つからないし、見た人もいなかったんだ」
と小さく笑った。
「写真を印刷して、近所の人に手渡したり、心当たりの場所には貼って回ったんだ」
主人が喋りに熱中している時は、いつも傍で、夫人はニコニコ笑っている。
「そうしたら、きょう友人から、電話があって『玉城(タマグスク)の琉球ゴルフ場の近くで君のところの愛犬を見つけたぞ。こんなところにいるわけ無いとは思ったが、よく似ているので気になって電話した』というんだ」
「ええ?10キロ近くは離れているでしょう?それで・・・」
「この人(夫人のことをいつもこう呼んでいた)も休みだったので一緒に行ったんだ。すぐに見つけたよ。
『〇〇!』と呼んだら、勢いよく走って来るなり、激しくじゃれついてきた」
「よかったですね。あんなに可愛がっていらしたから安心したでしょう」
といいつつ、「おめでとうございます」と盃を挙げた。
「それでね、しばらくあんたと逢ってないな、とこの人と話して、一緒に食事でもしようか、ということになった次第だ」
そういって、いつものように小さく笑った。
次の瞬間、わたしは悔いても取り返せぬ生涯忘れえぬ大失態を演じるのである。
「わたしが子供の頃、ポチという名の犬を飼っていました。
小学校4年生だったと思いますが、両親は揃って母方の叔父の家を4,5日毎に訪ねていました。
何か相談事があったようで、夕飯が終わると父と母が連れ立って叔父の家に向かいました。
5、6キロほどの夕闇の道を歩くのです。
家を出て日豊本線の踏切を渡り、国道10号線に沿って城野駅という駅前を過ぎて、すぐに田畑の続く薄暗い農道を3キロほど歩くのです。
そんな日が2ヶ月ほど続いたのですが、2度ほど子供たちも一緒に行きました。
その時はポチも一緒でした。
ある時、両親は叔父の家に行き、子供たちは留守番でした。
周囲は2,3軒の農家があるだけで畑が拡がっているようなところでしたから、散歩代わりにポチの鎖を解いてやります。
その日もいつものように放してやりました。
ところがその晩、いつまで経ってもポチは帰ってきませんでした。
翌朝、
「ポチらしい犬が国道10号線の城野駅前で死んでいます。車に轢かれたみたいです」
と隣家の長男から電話が入りました。彼は出勤途上だったらしいです。
2度ほど通った道筋を覚えていたのでしょうね。
叔父の家まで5,6キロでしたから、ポチが死んでいたのは中間地点の3キロ位行ったところでした」
一気に喋って、あのときの衝撃を思い出し、話し続けてしまった。
「畜生と言えども、人間とそんなに変わらないものですね」
これがいけなかった。
「畜生という言葉はいただけないなあ」
突然、温和な佐々木さんの表情が強張った。
「え?」唐突だったので面食らった。
「そうよ。畜生はないわ」
夫人の顔も暗かった。
その日、どう散会したか記憶にない。
確かに、「畜生」という言葉を言い出す前に、瞬間、違和感を感じた。
きょうも「畜生」を辞典とネットで確かめてみた。
あの日、帰宅するなり調べた内容と変わりはなかった。
①けもの ②人を罵っていう言葉
使用例で「畜生!。畜生め!。畜生道。畜生の境遇。・・・・・などとあった。
あのとき「人間以外の動物を『畜生』と言うでしょう」と言い募ったが、これは屁理屈だ。
今の時代なら、然程、気にすることもないかも知れない。
我々の世代は「言霊」と云って、言葉を非常に大事にした。
「書いた物は破るか火に焚べれば証拠は残らないが、言葉は消すことは出来ない」
そう言った先輩もいた。
最近の報道やコメンテーターの発言には「法律」が全ての規範になっている。
我々の世代には法律の前に、人として、してはならぬこと「道徳・道義・道」があった。
これらを超える行為を禁じるのが法律だと教えられたものだ。
穏やかで、確固たる信念をもった佐々木さんが不快感を顕にしたこの一言は数十年が過ぎても忘れられない。
その後、佐々木さんには拘ることなく、変わらぬお付き合いをしていただいた。
数年後、佐々木さんは他界した。
夫人から電話をいただき、駆けつけた時は葬儀も過ぎた数日後であった。
急ぎ作られたであろう白木と白い布が、窓から差し込む陽の光に眩しかった。
*佐々木氏がご機嫌の時は、必ずカラオケで歌った『黄金の花」(くがねのはな)
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