のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

≪スペイン風邪≫の真実!? (戦争は、事実を隠ぺいする!②)

2020-05-31 21:51:06 | 日記

今から100年くらい前に≪スペイン風邪≫というのが流行って、世界中で(日本でも)多くの感染者・死者が出たらしい、と

いうことは知っていた。

しかし、この≪スペイン風邪≫についても、私は大きな誤解をしていたことを、最近のテレビ番組で初めて知った。

まず≪スペイン風邪≫って言うけれど、これは「風邪」ではなく「インフルエンザ」であること。

そして何より驚いたのは、≪スペイン風邪≫って言うくらいだから、当然「スペイン」で発症した風邪、インフルエンザなん

だろうと思っていたんだけれど……さに非ず!だった。

 

実はこの≪スペインインフルエンザ≫の感染が初めて分かったのは、1918年3月で、「アメリカ」の中西部地方だったのだ

そうだ。

          

 

       

 

 

当時は、第一次世界大戦のさなかであり、アメリカの基地で多くの兵士がインフルエンの症状を発症したとのこと。

そしてそれは、兵士たちの転戦によって、瞬く間(4ヶ月の間)に世界に広まっていったのだそうだ。

      

 

      

 

 

 

戦争時、インフルエンザの感染が明らかになると、それは兵士の士気に影響し、戦況の悪化につながる。

そこで、アメリカは自国での発症を認めず、インフルエンザはそのまま世界に広まっていったのだ。

ではなぜ 「スペイン風邪(インフルエンザ)」って言うのだろう?

当時スペインは第一次世界大戦には参加せず、中立国だった。

中立国であったスペインにも、このインフルエンザは広まった。

戦争参戦国は、自国でインフルエンザが流行っていることを認めたがらなかったが、中立国であるスペインは、自国での

感染を明らかにした。

       

 

すると世界は、まるでスペインがインフルエンザの発症国であるかのように、≪スペインインフルエンザ≫と名付けたの

だ。(当時日本では、風邪とインフルエンザの違いが明らかでなかったため、≪スペイン風邪≫と呼んだのだそうだ。)

       

 

 

ああ、インフルエンザの命名にまで、戦争が影を落としていたのか!

今からでも、このインフルエンザの名称を変えられないものかしら!?

いや、むしろ≪スペインインフルエンザ(風邪)≫の名まえを残し、なぜこの名まえで呼ばれるようになったかを広く知る

ことによって、戦争がこんなところにも影を落としていることを知る方がいいのかも…。

とにかく戦争は、私たちにとって大切な事実をこのように見事に隠してしまうものだということを、今回も思い知った気が

した。

 

※ところでこの番組では、<与謝野晶子氏>の、スペイン風邪についての発言も取り上げていた。

 晶子氏は当時10人の子持ちだったが、子どもの一人が学校でスペイン風邪に感染、たちまち家族全員にうつったのだ

 そうだ。

 晶子氏はその事実を新聞に寄稿して、次のように当時の政府を批判している。

 「政府はなぜいち早くこの危機を防止するために、大呉服店・大工場・学校など、多くの人間の密集する場所の、一時的

 休業を命じなかったのでしょうか。」

 「社会的施設に統一と徹底との欠けているために、国民はどんなに多くの避けられるべき禍(ワザワイ)を、避けられずに

 いるかも知れません。」

 この批判を読んでいると、常に時代の流れを鋭くつかみ批判精神を忘れない、与謝野晶子という女性の面目躍如たる

 ものがあると思った。

 

 また彼女は、スペイン風邪によって人生観を変えられたと言い、災いの中で生きていく覚悟を、次のように述べておら

 れる。

 「私は今、この生命の不安な流行病の時節に、何よりも人事を尽くして天命を待とうと思います。」

 「私たちは、あくまでも『生』の旗を押し立てながら、この不自然な『死』に対して、自己を守ることに聡明でありたいと思い

 ます。」

 コロナと共に生きていく覚悟を求められている今、100年前に生きられた与謝野晶子氏のことばが、とても新鮮に響いて

 くるような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


知らなかった! ≪昭和東南海地震≫ のこと。 ( 戦争は、事実を隠ぺいする!① )

2020-05-27 19:31:16 | 日記

(ずい分前になるが)NHKの番組『歴史秘話ヒストリア』を見るまで、私は≪昭和東南海地震≫なるものについて、その

事実さえ全く知らなかった。

番組に依ると、≪昭和東南海地震≫は、1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分に、東南海地方を中心に発生した。

         

 

時は、第2次世界大戦のまっただ中、というか、既に日本の敗色が濃くなった時期であった。

       

 

 

東南海地震が起こった場所は、現在『南海トラフ巨大地震』が起こると予想されている区域と、ほぼ重なる。

       

 

 

そんな重大な震災のことを、なぜ私(だけでなく、多くの人々もそうではないかと思うのだが…)は、知らなかったのか!?

 

私は1944年・昭和19年11月の生まれ。

≪昭和東南海地震≫の直前に生まれたことになる。

私は幼い頃から戦争中のことを、両親や姉たちからよく聞かされてきた。

でも、昭和東南海地震のことは一度も聞いた記憶がないように思う。

それは何故か!?

一言で言うと、≪昭和東南海地震≫は、軍部によって“隠された”からなのだ。

なので『歴史秘話ヒストリア』のこの回のタイトルは、下のようになっている。

       

 

 

番組は、≪昭和東南海地震≫がどのようにして国民の目から“隠された”のか、その経過を、(それに抗って地震研究を

続け、後世に伝えようとした人々がいたことも、) 丹念に取材し報道してくれていた。

 

今回さらに驚かされたのは、問題の≪昭和東南海地震≫の前年には、M7.2の<鳥取地震>が起こっていたという

ことだ。

      

              1943年(昭和)18年9月10日発生

 

鳥取というと、私のふるさと・島根のお隣の県だ。

しかしその地震のことも、私は両親や姉たちから聞いたことはない。

      

私の個人的なことはさて置き、<鳥取地震>のことは、当初は新聞でも報道され、各地から義援金も集まり、復興も進ん

でいったそうだ。

       

 

 

しかし、その後の帝国議会で、大河内輝耕議員が鳥取地震について発言していた時、総理大臣・東条英機がその発言を

さえぎり、事実上の箝口令とも言える発言をしたのだそうだ。

             

 

 

その後、新聞報道や東大地震研究所に対して、活動の制限が始められる。

当時の日本の地震学はとても優秀だったそうだが、その研究所も陸軍に所属することにされ、地震に対する事実報道も

検閲を受けることになった。

     

 

                    

                          「新聞に請われるままに、鳥取地震のことを書いた。」

 

    

          「これが新聞に載ると、早速所長に呼ばれ、

 

            

                今後はこのようなことをしてはならぬ、とひどく叱られた。」

 

                      

                      「新聞雑誌への寄稿は所長があらかじめ検閲する、ということになってしまった。」

 

 

 

更に地震前に、当時<地震の神様>と言われた元帝国大学教授の今村明恒氏が、自身の論文の中で、遠州東南海

地域で30~40センチに及ぶ地盤の沈下が見られることを、報告した。

今村氏はさらに、江戸時代(安政)の巨大地震直前にも、このような地盤の沈下があったことを述べ、強く警鐘を鳴らした。

     

 

しかし、戦争遂行を優先する政府・軍部によって、今村氏の論文・警鐘は完全に黙殺された。

 

そんな中で、M7.9の巨大地震・≪昭和東南海地震≫は勃発したのだった。

昭和東南海地震は、地震そのものによる被害はもちろん、その後起こった津波によっても甚大な被害をもたらした。

      

 

 

地震の揺れが収まってしばらくして、各新聞社の電話が一斉に鳴った。

当時新聞の検閲をしていた、内務省からであった。

その内容とは…

 「災害現場の写真は、掲載してはならない。」

 「軍需工場、鉄道の被害など、戦力低下の推測につながる事柄を、掲載してはならない。」 だった。

こうして、国による東南海地震の隠ぺいが始まった。

 

そして地震翌日、災害現場の写真や被害の実情の掲載を禁止された各新聞社は、その一面にこぞって、軍服姿の昭和

天皇の写真を掲載し、戦意高揚の記事を大々的に載せたのだった。

一方、昭和東南海地震の記事は、被害状況には全く触れず、地震発生の事実だけをわずかに報じるのみだった。

 

地震の被害を受けた東海地方は、当時、軍需産業の一大拠点でもあった。

地震発生3日後、その軍需産業を指揮監督していた陸軍中将の岡田資氏のもとを、中央気象台長の藤原咲平氏が訪

れる。

      

              左…岡田中将   右…藤原氏

 

それは、今後も起こるに違いない余震を考慮して、地盤の弱い埋め立て地に建っている軍需産業の工場などに対して、

警戒を怠らないよう促すものだった。

          

 

 

しかしその翌日、愛知県庁で、軍事動員されていた学童に対して行った岡田中将の訓示のなかで、彼が結論的に述べた

のは、あろうことか、「(今回の地震は、)さしたることはない。」 だったのだ。

     

 

さらに続けて岡田氏は、「突貫工事を施工すべき!」と言って、学童たちを鼓舞までしている。

     

 

 

かくして≪昭和東南海地震≫は、戦争遂行勢力によって、完全に隠ぺいされてしまったのだった。

 

地震は、いつの時代でもどんな地域にあっても、一旦起これば私たちに、計り知れない苦しみと悲しみをもたらすものだ。

それをみんなの力を結集して、なんとか乗り越えていくのだ。

それなのに、その地震の被害の実態が、隠される。

そんな恐ろしいことが、かつてあったのだ。 

 

私はこの番組を見て、戦争がもたらす罪悪の、今まで知らなかった側面を、また一つ、思い知らされた気がした。

 

(※この番組では、もっと多くの大事な事実を明らかにしてくれていたが、私の力不足でそれをうまく文章にすることができ

 ませんでした。申し訳ありません!)

 

 


     

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                           

     

   

 


ありがとう!

2020-05-26 13:39:07 | 日記

ふるさとの同級生・Tさんが、この時期、自分の畑で育てられた、私の大好きなカラーの花を、送ってくださっていた。

でも昨年は何故か育ちが悪く、送れるような花が育たなかったとのことで、残念ながら送っていただけなかった。

なので今年も全く期待していなかったのに、21日の夕方遅く、突然玄関チャイムが鳴って、Tさんからカラーが送られて

きた。

私は驚いてTさんにお礼の電話をした後、いつもの花瓶にカラーを入れ、写真を撮った。

           

 

 

 

カラーと一緒に、ムラサキツユクサの花と、えんどう豆&キャラブキまで、添えられていた。

            

 

 

               

 

 

えんどう豆は以前私がお店で買ったのよりずい分太く大きく、皮をむくと、大きな豆が7個も入っていた。 

早速翌日、豆ご飯を炊いていただいたが、豆はふっくらと柔らかく、とっても美味しかった。

キャラブキは写真には撮らなかったけれど、荷物が着いたその夜からいただき、今もいただいている。 もちろん、とても

美味しい。

Tさん、心から感謝です♪

 

花は毎朝水替えをしていたが、今朝はカラーの花がだいぶ開いてきたので、またカメラに収めた。

上から撮ったカラーの花は、妖艶さを感じさせる。(うまくは撮れなかったけれど‥。)

              

 

 

      

 

 

    

 

             

 

                        

 

 

       

 

 

 

カラーの花を撮ったら、ベランダで今咲いてくれている花も、撮りたくなった。

ペチュニアは昨年の花が冬越しして、まだ花を咲かせてくれている。(花数は大分少なくなっているけれど。)

菊は秋咲いていたのが一旦無くなったのに、また蕾が付いて、今でも咲いてくれている。

     

 

                        

 

 

           

 

 

     

 

                          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         

     

 

 

     


小雨の降る朝

2020-05-22 17:49:29 | 日記

16日の朝、ちょっと散歩しようと外に出たときは、まだ雨は降ってはいなかった。

公園の方に向かっている途中で、細い雨が落ち始めた。

傘は念の為に持っていたので、そのまま公園に向かった。

公園に着いた頃には雨はやや本降りめいてきたが、傘をさしながら花を見るのには差し支えなかった。

却って、久し振りに雨でしっとりした花たちを見られて、なんだか嬉しかった。

以下、雨滴を浮かべた花たちの写真を、載せさせていただきます。

      

 

                           

 

 

      

 

                          

 

 

      

 

                         

 

     

 

 

     

 

                        

                              ちょっとピンク色が覗き始めた紫陽花の蕾にも雨粒が…

 

 

 

公園の遊び場には少し水溜りができ、水には周囲の木々が映っていた。

この日ばかりは、どの遊具にも、子どもの影は全く無かった。

             

 

 

 

まだガンバって枝にしがみ付いてる八重桜の一輪が、雨に降られながらじっと耐えているように見えた。

なんだか愛しく感じられる。

     

 

 

 

雨の中、ケヤキ並木の方にも足を伸ばした。

ケヤキの幹は雨を吸ってぐっしょりと濡れ、ケヤキ並木はしっとりと鎮もっていた。

             

 

 

         

 

 

 

ケヤキ並木を出て、市営住宅を回って帰途についた。

ここでも花たちは雨滴をまとい、コンクリートの道にも薄く水が溜まっていた。

       

 

 

    

 

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

                            

 

          


家々の玄関先で咲いている “花たち”

2020-05-21 16:27:13 | 日記

(前のブログの続きです。)

郵便局で用を済ませたあと、いつものように近くを一回りしてから帰った。

何軒かのお家で、色とりどりの「カランコエ」が咲いていた。

「ビオラ」も、可愛らしく咲いていた。

        

 

               

 

                       

                     3色の「カランコエ」

 

        

                           「ビオラ」

 

 

しばらく行くと、あるお宅の前で、鉢植えのクレマチスが咲いていた。

薄い紫色で、いかにも涼しげで清楚な佇まいだ。

近くに寄って、アップで撮らせていただいた。

      

 

               

 

                         

 

 

 

中津公園のお隣のマンション1階のお宅は、とても花好きで、いつも綺麗な花を咲かせて、私たちを楽しませてくださる。

      

 

                     

                                   初めて見た花、名まえが分からない。

 

 

次の2つの紫色の花も、名まえが分からない。

上の花の下には、わりと大きな緑の実みたいなものが、ぶら下がっていた。 

       

 

 

    

 

                     

 

 

           

                     卯の花(ウツギ)

 

 

 

公園にも立ち寄ってみた。

この日の公園の花は、「薔薇」と、下の方から小さな花を咲かせ始めた「カシワバアジサイ」、もう一つは、たぶん「ガザ

ニア」。

         

 

 

            

 

   

        

                            ガザニア

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

        


道端に咲いていた “花” と、 “蝶”

2020-05-20 12:51:46 | 日記

15日、郵便局へ行くのに、裏道を通った。 足元に咲いている野草の花などを眺めながら。

      

                                                ムラサキカタバミ

 

                                                   

                                             同上

 

 

      

                     ハハコグサ

 

                          

 

 

     

                      ヒメヒオウギ

 

                                             

                                                同上

 

 

                

                     ドクダミはまだ蕾。もうすぐ可愛い花が、辺り一面に開くだろう。

 

                         

 

 

 

花を捜しながら歩いていると、ふと白い花に止まっている蝶が目に入った。

         

 

今年になって私はまだ、蝶をカメラに収めたことがなかった。

ずい分近くまで寄っているのに、蝶はその花から飛び立とうとはしなかった。

うれしくなった私は、今年初めての“蝶”を、何度もカメラに収めた。 (しつこくてゴメンナサイ。)

     

 

                

 

                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 


裏道を通って、梅田までウオーキング

2020-05-19 16:35:01 | 日記

14日の午後、裏道(近道)を通って、まずは<グランフロントOSAKA>まで歩くことにした。

<グランフロントOSAKA>は、商業施設2棟、ホテルとマンション各1棟の、4棟から成っているが、ホテルとマンションの

間に、ちょっとした庭がある。

そこまで行くと、コンクリートジャングルの中でも、ちょっとした緑や花が楽しめる。

この日その庭に着くと、結構高い木の上に、白い花がいっぱい付いているのが目に入った。

何の木(花)だろう? 分からないままに写真に撮った。

             

 

      

 

       

 

アップにしてみても、この花、初めて見るような気がした。

帰ってからスマホで調べてみると、≪エゴノキ≫であることが分かった。

≪エゴノキ≫という名まえは聞いたことはあるけれど、花を見たのは初めて。 ラッキー!

ブラブラ歩きは、こんな思いがけない出会いをもたらしてくれるから、嬉しい。

 

 

この庭には、随所に水が流れている。 そして、幾つかの池も造られている。

次は、その池の情景です。

         

 

                     

 

      

 

 

 

今は新緑の季節だが、新芽の赤や、緑と赤のモミジが一緒に陽を浴びているのも、いいなあと思う。

       

 

       

 

              

 

その庭でしばらく時間を過ごしたが、まだ足に余力がある感じがしたので、グランフロントのビルの中を通って、梅田まで

歩くことにした。

次からは、歩きながら撮った、ビル内&ビルを出た後の建物などの写真です。

    

                グランフロント内の通路の天井

 

                  

                                   ビルの間の通路(休憩スペース)

 

    

     グランフロントを出たところにあるビルの壁面(向かいのビルが映っている)

 

                    

                                        同上 

 

 

JR大阪駅の北側に到着。(時間は、4時前)

      

 

      

                                                   2階通路から見えた、赤い観覧車

 

 

ヨドバシカメラ・リンクスの地下にできた食料品のスーパーに寄って、少しだけ買い物をした。

その後は、表通りを歩いて帰った。

 

 

 

 

 

                           

 


まっ赤な “アマリリス”

2020-05-18 12:08:07 | 日記

芍薬を追いかけて公園通いをしてからちょっと日が経ったが、あの時は白い芍薬だけが、まだ花を開いていなかった。

そこで12日、運動を兼ねて、白い芍薬の様子を見に、公園に行った。

白い芍薬は咲いてはいたけれど、あんまりパッとした咲き具合ではなかった。(白はもともと花を開きにくいのかなあ?)

他の色の芍薬は、ほとんどが盛りを過ぎていたけれど、まだ艶やかに咲いているのもあった。

             

 

           

 

 

 

この日撮った公園の花は、2種類の薔薇と八重のゼラニューム、それに他の場所で咲いていた紫の芍薬だけ。

          

 

      

 

 

       

 

 

       

 

 

 

公園を出るときふと見ると、遊具にわりと多くの子どもが登っている。(ちょっと密じゃないかな?とすぐ心配してしまう。)

        

 

 

 

公園を出て市営住宅を回って帰ろうとしたら、まっ赤な花が私の目を射た。

すぐにアマリリスだと分かったけれど、あまりにまっ赤なのにちょっと驚いた。

アマリリスの近くにキンカンの木があって、それが白い清楚な花を付けていた。

まっ赤なアマリリスと、キンカンの白い花とが、とても対照的だった。

       

 

             

 

                      

 

 

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        

 

 

 

 


今年初めて見た “ヤマボウシ”の花

2020-05-17 13:50:11 | 日記

5月8日、ご近所のIさんが「家にばかり閉じこもっていて飽き飽きした!」と言われるので、一緒にスカイビルまで歩くことに

した。

スカイビルまでは何の変哲もない自動車道を歩いていく。

スカイビルのエリアに入ると、まず「里山」(人工的だが)の自然が私たちを迎えてくれる。

この時期一番多く咲いているのは、タニウツギの花だ。

淡いピンクの静かな佇まいが、心を潤してくれるようだ。

        

 

         

 

        

 

 

 

里山の小道を歩いていると、周囲とは明らかに違う、葉っぱが褐色に近い色をした高い樹を初めて見つけた。

標識を見ると、「シロダモ」とあったが、シロダモという名まえも、私には聞き始めだった。

なので、写真に残しておこうとスカイビルをバックに撮ってみたが、写真では「褐色」の色はハッキリとは出なかった。

(左がシロダモの木を前景にしたスカイビル。右は序でに撮ったスカイビル。)

           

 

 

 

そこからしばらく歩いていくと、これもかなり高い木に、白い花がいっぱい付いている。

何の木だろうと近づいて花を見ると、なんと、「ヤマボウシ」の花ではないか!

ここ久しくヤマボウシは見ていなかったので、私はとっても嬉しかった。

       

 

      

 

        

 

 

 

その後、里山で見つけたいろんな花を、次に載せさせていただきます。

      

                    シャガの花

 

        

 

 

     

 

                       

 

 

 

里山を出て、ウェスティンホテルの方に向かった。

     

 

                       

                                木の間から見えるウェスティンホテル

 

 

ウェスティンホテルの周りにはぐるっと薔薇が植えられている。

ちょうど花の時季だったので、幾つかを撮ってみた。

          

 

  

 

 

        

 

     

 

     

 

        

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          


≪萩焼≫の、飽くなき “挑戦”

2020-05-14 23:10:34 | 日記

≪萩焼≫は、ご存知のように、山口県萩市を中心にして創作されてきた陶器だ。

私の故郷は島根県の益田という所で、県は違うけれど、距離的には萩市と近い。

なので萩焼は、私の家族の生活の中で、馴染みの陶器であり身近な存在だった。

貫入(乳)の入った淡い褐色の焼物は、私の好みでもあった。

 

一週間前の「日曜美術館」は、その萩焼を、300年以上続く御用窯・<三輪家>の創作活動を中心に、取り上げていた。

前に、萩焼は私にとって馴染みの陶器だったと書いたけれど、今回の日曜美術館を見て、その萩焼の世界で、このような

厳しい創造的挑戦が行われていたことを、初めて知った。

 

                    ~萩市と三輪家~

        

        

 

       

 

      

 

 

 

300年続く「三輪家」だが、今回は、十代から十三代の≪三輪休雪≫の、それぞれに挑戦的な創作活動が、取り上げられ

ていた。

まず、≪十代休雪≫氏だが、彼は、下のような作り物と呼ばれる作品を得意にしたと同時に、何よりも『休雪白(キュウセツ

ジロ)』という釉薬を開発して、以後の三輪休雪の創作活動に多大な発展をもたらした。

         

 

       

 

         

 

     

           「休雪白」が掛けられた、≪十代休雪≫の柔らかな器

     

 

 

≪十一代休雪≫氏は、(十代の弟さんだが、)彼の功績は、『鬼萩』と呼ばれる独特の土を創り出されたことで、その土

で作られた器に、十代が創り出された『休雪白』を掛けて、十代とは違う、力強い器や花入れを創り出された。

         

 

      

 

                      

 

 

      

 

       

                   花入れの一部

 

十代休雪の優しく柔らかな器も素敵だし、十一代のちょっと荒々しさのある器も斬新な感じがして、その両方とも私は好

きだ。

 

 

≪十二代休雪≫氏は、十一代の息子だが、今は弟の十三代に休雪を譲り、自身は≪龍氣生≫と名乗って、今でも独自

の創作活動を、旺盛に続けられている。

彼は、「死」をテーマにした作り物を主に制作されており、特に、下の「古代の人・王墓&王妃墓」は、その斬新さによって

世界的に高く評価されているそうだ。

彼は「死」を、マイナスのイメージとしてではなく、人生の到達点として捉え、それを表す作品を創作されている。

       

 

     

 

    

 

        

 

 

 

そして、現代の≪十三代休雪≫氏は、十一代(父)の挑戦を更に発展させていかれているように、私には思えた。

      

 

 

彼は20代のころ視野を広げるため海外で学ばれるが、その時行かれたヨセミテ国立公園の「エル・キャピタン」(花崗岩の

巨大な一枚岩)の凄さ・力強さに、強い衝撃を受けられる。

     

 

     

 

 

後に作陶されるようになった彼の心に浮かんだのは、あのヨセミテ公園のエル・キャピタンの佇まいの力強さだった。

彼は何とかしてあの力強さを表現したいと思われる。

彼は捏ねた土を更に強く固めるため、土を何度もたたき固められる。

そして突き固められた土を、古くなった刀で断ち切っていかれる。

その中から、彼が(同時に「土」が)求めている形が、自ずからたち現れてくる。

それが、器となり、花入れとなる。

    

 

                         

 

 

              ~作られた器。その名も「エル・キャピタン」~

     

 

                       

 

      

 

 

              ~花入れの代表作・「雪嶺」と、それに花や木を入れたもの~

        

    

 

       

                             ~「雪嶺」の部分~

  

 

        

 

                         

 

        

 

十三代休雪氏は言われる。

「花入れは、単に花や木を美しく見せるための器ではなく、命を持った花や木の、その命を受け止め支えるものでなくては

ならない。」と。

私は、「なるほど!」と思った。

 

今まで何気なく普段使いしてきた萩焼に、こんな奥深い世界と飽くなき探求があることに、私は驚嘆の気持ちを禁じ得な

かった。

 

   

 

 

 

 

 

    

    

 

                      

    

 

 

 

      

  

 

 

     

 


執念深く、公園通い (5月5日&6日)

2020-05-08 18:13:32 | 日記

≪5月5日≫

5日は、言わずと知れた「こどもの日」。

朝公園に行くと、折からの強風に煽られて、鯉のぼりが空を元気に泳いでいる。

5日を過ぎると鯉のぼりは撤去されるだろうと思って、今年の鯉のぼりの最後の姿を撮っておいた。

               

 

 

 

その後、いつものように芍薬のもとに行く。

この日の芍薬は、完全に「開花」していた。

      

 

 

            

 

 

            

 

        

 

 

           

 

        

      

 

 

この日芍薬は開花したと書いたけれど、白い芍薬だけは、まだつぼみのままだ。

       

 

 


 

 

≪5月6日≫

この日も朝のうちに公園に行き、芍薬の咲き具合を確かめる。

6日も、5日とそう変わらない、芍薬の咲き具合だった。

            

 

 

      

 

        

 

 

       

            白い芍薬は、一番解けているのでも、まだこの程度。

 

 

艶やかに盛りを迎えている芍薬と対照的に、八重桜はもう葉桜になっているが、その葉っぱの間で、まだ必死に枝にしが

みついている花があった。

なんだか愛おしくなって、カメラを向けた。(風に揺られて、ピンボケになってしまったけれど…)

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

 

 

      


執念深く、公園通い (5月4日)

2020-05-07 14:35:54 | 日記

この日は、雨上がりの朝だった。

マンションの周りの野草の花が、何とも言えず可愛い。

      

 

       

 

      

 

 

公園に行く途中で、「雀さん、見~け!」

      

 

 


 

 

芍薬は、前日よりさらに少し花が解けた感じ。

花びらにも葉っぱにも雨粒が残っていた。

      

 

 

      

 

 

       

 

 

        

 

 


 

 

この日は、雨後のしっとりした雰囲気を味わいながら、いろんな花を見て回った。

まずは、薔薇から。

      

 

       

 

      

 

      

                 オレンジ色のミニ薔薇も咲いていた。

 

       

           木香バラ (バラ科ではないと聞いたような気がするけれど)

 

 

この花は何ていう名まえだったかしら?

     

 

                       

 

 

紫陽花は、まだ固いつぼみ。

     

 

                      

                          紫陽花の中で一番最初に咲くカシワバアジサイのつぼみ 

 

 

その他の花、いろいろ。

     

 

     

 

     

                 山吹の花後の種 (初めて見た。)

 

                

          雨に濡れそぼったアイリス

 

         

 

 

 

 

 

 

 

       

   

 

 

     

 


執念深く、公園通い (5月3日)

2020-05-07 14:34:18 | 日記

3日の朝も、公園に向かった。

途中のナガミヒナゲシ(今までミナガヒナゲシと書いてきましたが間違いでした(^_^;))の姿が、やっぱり私を惹きつける。

       

 

 

 

公園に着くと、すぐに芍薬の花のもとに行く。

この日の芍薬は…

      

 

 

      

 

 

         

 

 

       

 

そろそろ「開花宣言」してもいいのかな? (開花したのは、濃いピンクも、グラデーションになってる薄いピンクも、1輪だけ

だけれど。)  

 


 

芍薬の咲き具合を確かめたあと、この日は、2つの花だけカメラに収めて帰った。

      

 

      

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 


執念深く、公園通い (5月2日の、朝と夕)

2020-05-06 11:20:36 | 日記

4月末から5月初めにかけて、芍薬の開花をこの目で見届けようと中津公園に通ってきたが、前回の5月1日までは、開花し

た!という状態までには至らなかった。

そこで、2日の朝も、公園に行った。

ツツジに迎えられて、公園に入る。

       

                 

 

そしてすぐに、芍薬が植えられている花畑へ。

この時の芍薬は、下のよう…。

      

 

           

 

 

      

 

                        

 

あ~あ、これではまだ、「開花!」とは言えないなあ‥(涙)

 

 

私は芍薬のもとを離れ、他の花たちを見に行った。

この日は、真紅とややピンクがかった薔薇が、初めて花を開いているのを見て嬉しかった。

       

 

 

       

  

 

             

 

 

 

薔薇以外の花。

       

 

 

       

 

 

      

 

 

 


 

 

 

この日はお天気が良かった。

そこで、朝は開花までいっていなかった芍薬も、夕方には花を開いているのでは?と思い、再び公園に向かった。

しかし残念ながら、夕方になっても芍薬は、朝とそれほど変わらない姿だった。

        

 

 

            

 

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 


淀川堤への道は、完全封鎖! ②

2020-05-04 12:52:22 | 日記

4月30日に続いて5月1日も、中津公園を出たあと、ちょっと歩くことにした。

やっぱり淀川が見たかったので、いつものらせん階段を昇って、新御堂筋の架橋に上がった。

鳥でも浮かんでいないかと淀川の川面を隈なく見てみたが、この日の淀川には、鳥も波もキラキラも無く、平凡な川の風景

が広がっているだけだった。

            

 

      

 

 

西の方の夕景も、上手くは撮れなかった。

      

 

 

 

諦めて下に降りようと、らせん階段に向かった。

階段に足を掛けたとき、ふと下を見ると、電柱に付属した板状のモノの上に、1羽のハトが止まっていた。

私はハトに「飛び立たないでね!」と言いながら、カメラを向けた。

      

 

 

私はその後らせん階段を降りて行ったが、途中で上を見上げると、何とまだハトはそのまま板上に止まっている。

その姿は、高みから地上を睥睨しているかのようで、なんか小気味良かった。

      

 

                    

 

 

 

地上に下り、行きとは違う道を通って帰途についた。

その途中、夕日に向かって撮った写真と、夕日に照らされて輝いていた草花たちの写真。(ドウダンツツジの新芽と優しい

ピンクのツツジ)

      

 

          

 

 

 

中津公園近くまで帰ってくると、木の枝を通して、リバーサイドコーポ(マンション)の壁面にも、夕日が当たっていた。

           

 

この日の歩きでは、板上のハトに出会えたのが、一番の収穫だったかな…。