のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

広場の清掃のあとで

2018-09-19 20:50:34 | 日記

 中津ゆうゆうクラブの奉仕作業として、17日(敬老の日)の朝、中津公園の隣の小さな広場の清掃をすることになった。

 「敬老の日なのに何で高齢者が朝から掃除せなアカんの!?」などと憎まれ口をたたきながら、朝8時に指定の広場に行った。

 憎まれ口の割には、身体を動かして掃除をするのは結構爽快なもので、皆さんと喋りながら楽しく掃除を済ませた。

 この日は体調が良かったので、掃除を済ませたあと、広場からケヤキ並木を通って中津公園をブラつきながら、気に入ったもの

にカメラを向けた。

                     

                                 清掃が終わったあとの広場

 

 

 広場の片隅の、タマスダレと百日草。

                    

 

 

 

                    

 

                     

 

                     

 

                    

 

 

 

 ケヤキ並木に入ると、台風直後は枝が引き裂かれ生々しい傷跡を晒していた木の根元に、枯れた枝が集められていた。

                    

 

                    

 

 

 

 ケヤキ並木周辺の、彼岸花とムラサキシキブ。

                         

 

 

                     

 

 

                        

 

 

 

 中津公園に入ってすぐ目に入ったのは、根こそぎ倒された木が切り倒され、根の回りに立ち入り禁止のテープが張り巡らされ

ている光景だった。

                   

 

 

 向日葵の花は役目を終えてうなだれ、次の世代に命をつないごうとしていた。

                   

 

 

 

 公園のアチコチで、彼岸花が咲くのを待ちかねていた。

                   

 

                     

 

 

 朝顔(花&蕾)と、キバナコスモス。キバナコスモスには蜂が来てさかんに蜜を吸っていた。

                 

 

 

                    

 

                      

 

 

 

 チュンチュンという可愛いさえずりが聞こえてきた。

 数羽の雀が目まぐるしく、地上に舞い降りたり空中に飛びあがったりしている。

 柿の木に止まったのをやっと撮ることができた。

                     

 

 

 

 帰り道、マンションの傍のノッポの蘇鉄のてっぺんに、白い花が咲いていた。

 大分涼しくなって、ベランダのハイビスカスが再び花を咲かせ始めた。

                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 


石牟礼道子さん「苦界浄土」と、“不知火の海”  

2018-09-12 22:03:22 | 日記

 (ずい分前のことになるけれど)

 6月30日の「NHK映像ファイル・あの人に会いたい」では、≪石牟礼道子(イシムレ・ミチコ)≫さんが、取り上げられていた。

                    

 

 石牟礼さんは、昭和2年(1927年)の生まれ、人生のほとんどを水俣とその周辺で過ごされ、今年(2018年)2月10日、90歳で

亡くなられた。

 「魚が湧く」と言われた不知火の豊かな海は、幼い頃の石牟礼さんにとっても、大好きな故郷の海であった。

                      

 

 

 けれど、1953年(昭28年)から59年(昭34年)にかけて、<チッソ水俣工場>が流し続けた工場廃液が、この豊かな海を一変

させた。

 工場廃水に含まれた≪有機水銀≫が、水俣湾の魚や貝などを汚染、その魚や貝などを食べた住民たちに、様々な精神疾患を

発症させ、重症化した人たちを死に至らしめるという、大きな悲劇を引き起こしたのだ。

 

 昭和34年、訪れた病院で水俣病患者の姿を目にされたときから、石牟礼さんの人生は一変する。

  『この人(水俣病患者)の かなしげな  山羊のような  魚のような瞳と 流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この

    日から全部、私の中に移り住んだ。』

 彼女は、自分の生活の全てをかけ全身全霊をもって、水俣病患者に向かい合い、寄り添われる。

 その中から、名著・『苦界浄土(クガイジョウド)』が生まれた。

                      

 

 彼女がとりわけ目を向けられたのは、水俣病患者の母親から生まれた<胎児性水俣病>の子どもたちであった。

 彼らは自身が魚や貝を食べていないにも拘わらず、母親のお腹の中にいる時、その胎盤を通じて有機水銀を身体に取り込み、

水俣病を発症したのだった。

 彼らは、生まれながらにして水俣病の十字架を背負い、心身ともに耐えがたい激しい苦痛を強いられたのだ。

 (それは、胎児性水俣病の子どもをもつ親や祖父・祖母にも、救いようのない耐えがたい苦しみをもたらした。)

                  

 

 

 しかもこの頃、チッソの会社は、水俣病の原因が自身の会社の廃水に含まれる有機水銀であることを認めず、世間にも、まだ

事の真実が明らかになっていなかったのだ。

 水俣病患者とその家族は、病魔の苦しみと世間の差別という二重の苦しみの中で、明日の見えない暮らしを余儀なくされていた。

 そんな中 石牟礼さんは、自身も苦しみながら、患者と家族の思いを何とか言葉に紡いでいかれたのだ。

 

 後年は自身も病におかされながら、一生を水俣病患者の救済に捧げられた石牟礼さん。

 その彼女が番組の最後で述べられた下の言葉は、今の私たちの心に、生々しく突き刺さってくるような気がする。

                

 

 

  恥ずかしながら私は、水俣病の問題が起こって社会問題になり、石牟礼さんが「苦界浄土」を著された頃、水俣問題にあまり

関心を持っていなかった。

 「苦界浄土」も、結局読まないまま今に至っている。

  「あの人に会いたい」で石牟礼さんと水俣病のことを思い出したとき、私は自身のイイカゲンさを本当に恥ずかしく思った。

 なので自身の反省も込めて、石牟礼さんと水俣病のことをブログに書こうと思った。 

 けれど、なかなか時間が無くて書けず、今日やっと取り掛かった。

 

 石牟礼さんの最後の言葉にあるように、水俣病は、「地球全体がおかしくなったと言われるような時代」の、(良くない意味で)そ

の≪先駆け≫となった事件だったのだ。

 高度経済成長に向かってひた走っていた当時、チッソ水俣工場は有機水銀を垂れ流しにして、美しい海を汚し、死の海へと変貌

させた。

 のみならず、それまでは水俣(不知火)の海の幸を享受して生きてきた人々を、言葉では言い尽くせぬ苦しみのどん底に突き落

とした。

 それなのに、(前にも書いたけれど、)チッソの会社はその事実を一切認めず、白を切りとおそうとした。

 そのせいで、水俣の海の汚染と人々の苦しみは、長く長く続くことになってしまったのだった。

 水俣病は、経済発展という甘い言葉で人々の目をくらまし、結果的に甚大な被害を人々と地球にもたらした、数々の公害問題

の原点だ。

 そして私たちは、そういう負の連鎖を、今でも断ち切れてはいないと思う。

 その意味で、石牟礼さんの言葉は、今の私たちにも、鋭く問題を投げかけている。

 

 


 

 

 石牟礼さんの番組と前後して、今の水俣の海を取り上げた、「小さな旅」が放映された。

                        

                     

 

 

 チッソの有機水銀で汚され傷つけられた<水俣の海と人々の命&暮らし>は、その後の多くの人々の努力によって、ずい分

回復している。

 その水俣の海を訪ねたのが、今回の番組だ。

 番組では、甦った今の美しい海と、その海を守りながら働く人々の姿をとらえていた。

                     

 

                  

 

                   

 

                  

 

 

 水俣の海で働きながら、子どもたちの世代に、水俣の伝統行事を繋いでいこうと努力する方もおられる。

                      

 

                    

 

 

 水俣で復活した≪もやい船≫の姿。

                    

 

                     

 

                   

 

 

 復活した水俣の海の、美しい夕景。

                  

 

 

 今回の「小さな旅 ~ “もやい”の海よ ふたたび」は、甦った美しい水俣の海と、そこで生き生きと働く人々の姿をとらえていて、

心和む番組だった。

 しかし水俣には、今なお不自由な身体のまま病院での闘病生活を余儀なくされている、胎児性水俣病の患者の方々がおられる

ことを、忘れてはいけないとも思った。

 

                  

 

         

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 


日本列島を次々に襲う、≪巨大災害≫

2018-09-07 16:21:29 | 日記

 台風21号の恐怖からやっと解放されたと思ったのも束の間、今度は北海道を襲った大地震の映像が、私を打ちのめした。

 最近の日本列島で、うち続く大災害。

 まるで神の怒りに触れ、人間が破壊した自然の報復を受けているかのようだ。

 北海道の大地震では多くの方が犠牲になられた。

 まだ建物や土砂の下に埋もれて、行方が分からない方もおられる。

 本当に痛ましく辛い。

 地震はもちろん、台風21号によって破壊され傷つけられた建物や施設、道路などの復旧にも、まだまだ時間が掛かりそうだ。

 被災された方たちが、何とか前を向いて生きていかれるように、何もできない私は、ただただ祈るしかない。

 

 台風21号が大阪を襲った翌日(5日)、私は近所のお医者さんの予約が入っていて、台風後初めて外に出た。

 でもその時は表の大通りではなく裏の道を歩いて行ったためか、街は前日の台風を忘れたかのように、割と整然としていた。

 しかし昨日(6日)は、地下鉄に乗って行かなければいけないお医者さんだったので、大通りに初めて出た。

 大通りに出た途端、私はアッと息をのんだ。

 大通りの街路樹が、あるものは根こそぎ倒れ、あるものは幹の途中で無惨に引きちぎられて、痛々しい姿をさらしていた。

                    

 

                    

 

 

 これらの木々を見て、ここ中津でも、台風21号の威力がいかに大きかったかを、再確認できたような気がした。

 

 午前中のお医者さんから帰ってきて午後のお医者さんに出掛けるまでの間に(最近はお医者さん通いで忙しい!(>_<))

ちょっと時間があったので、ご無沙汰続きの中津公園に行ってみることにした。

 激しい台風の風を受けて、中津公園の木々や花たちは、一体どんな姿になっているのだろう?

 恐れを抱きつつ公園に向かう途中で、ツバキの木が実を豊かにつけているのを見て、何だかホッとした。

                         

 

 

 公園の入り口にあるイチョウの木も、実(ギンナン)をたくさん付けていた。

                         

 

 

 ホッとして花壇に目をやると、盛りを過ぎた百日紅が、やや淋しげに空に向かって花を咲かせている。

                       

 

                         

 

 

 いつまで経っても名まえの分からない紫色の花と、ピンクの曼珠沙華が、これも何だか控えめに花を付けている。

              

 

 

 

 花たちを見ながら花壇の端っこまで来た私の目に、突然、無惨な木々の姿が飛び込んできた。

                       

      

                    

 

 

 

 「ああ、やっぱり!」

 私は絶句する思いだったが、帰り際に見た、キバナコスモスの周りをヒラヒラと舞う蝶々が、少しだけ心を慰めてくれた。

                     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

                   

        

      

 

 


本当に怖かった!今日の“21号台風”

2018-09-04 20:28:46 | 日記

 今日関西を直撃することが予想されていた21号台風は、昭和53年の「第二室戸台風」に匹敵する強力な台風であると、前々から

言われていた。

 何事に対しても、「まあ、大丈夫やろ」と、よく言えば楽観的、実はイイカゲンな対応しかしない私だが、今度ばかりはちょっと気を

引き締めてかからねば!と思っていた。

 そこで昨日から、ベランダの植木鉢など、部屋に入れられるものは入れ、あとは紐でガンジガラメにベランダの柵などに縛りつ

けた。

                     

                               (写真は、コレのみ)

 

 そして今日!

 お昼頃までは、雨が降ったり風が吹いたりはしたけど、大したことはなかった。

 一時は、今回の台風も大したことなく通り過ぎてくれるのではないかしら?と、甘い考えが頭に浮かんだくらいだ。

 けれどその後すぐ、マンションの周りで異様な音がし始めたのだ!

 単なる雨の音でも風の音でもなく、マンションが何か大きな渦の中にでも投げ込まれたような…無気味な轟音。

 このマンションに入って30年になるけれど、こんな音は聞いたことがない。

 そうこうしている内に、(これも今までそんなことは一度もないのだけれど)ベランダ側のガラス戸が時折、ガタガタと音をたて始

た。 (ガラス戸がはずれるってことはないかしら!?)

 そして最も怖かったのは、地震でもないのに建物(部屋)全体が、一度ではあったけれど、グラグラッと揺れたのだ。

 「えっ、マンションが風で揺れるの!?」

 私は恐怖心で一杯になった。

 まさかそんなことはないだろうけど、マンションの建物が丸ごと、風で持って行かれるのではないかしら?という不安と恐怖が、

心をよぎった。

 メチャメチャ怖かった!

 幸いにも、そうこうしている内に、マンションを取り囲んでいた轟音は次第におさまり、ガタガタもグラグラも無くなった。

 私はホッと胸をなで下ろした。

 

 今回の台風21号は、やはり最大級の台風だった。

 私のところは結局直接の被害は無かったけれど、テレビを見ていると、アチコチで台風が猛威を振るい、被害も出ているようだ。

 今回は全体的にも事前の準備がかなりできていたはずなのに…。

 

 (私の家の場合)何も被害が出ないような台風でもこれだけ怖いのだから、今までの大きな災害を経験した方たちの恐怖心た

るや大変なものだっただろうと、遅まきながら実感した次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


≪沢田教一≫氏の “写真展”

2018-09-04 18:25:49 | 日記

 ベトナム戦争時、従軍カメラマンとして素晴らしい写真の数々を撮影した、沢田教一さん。

 しかし彼は1970年に、34歳の若さで銃弾に倒れてしまう。

 その彼の写真展が、難波高島屋のギャラリーで行われていた。

 8月31日、上六で行われた食事会のあと、Kさんと一緒に観に行った。

                   

 

 

 

 沢田氏の写真は、戦場で撮られたものであるにも拘わらず、ほとんど残虐さが感じられない。

 そこが素晴らしいと思う。

 ≪安全への逃避≫と題された下の作品は、ベトナム戦争の真実を伝えた作品として多くの人から評価され、ピュリッツァー賞を

獲得した。

                 

 

 

 母と子が何とか安全な場所に行き着こうと必死で川を泳いでいる姿は、戦争が庶民にもたらすものの何たるかをあぶり出して

いる。

 沢田氏はこの母子に対岸から手を差し出すような気持ちで、シャッターを押されたのだろう。

 「がんばれ、がんばれ!」と呼びかけつつ、シャッターを切られたに違いない。

 事実、この後沢田氏は母子のその後を案じて探しておられたが、しばらくして元気な母子に再会することができたのだそうだ。

 そしてこの時彼は、ピュリッツァー賞の賞金の中から何がしかのモノを、母子に渡されもしたそうだ。

 

 このように沢田氏は、戦争という状況下で生きる(生きざるを得ない)兵士や庶民の姿を、愛情を持ってとらえられた。

 そのような姿勢が、戦場写真家と言われる彼の写真を、残虐さの無い、むしろ見る者に癒しさえ感じさせるものになったのだろう。

 戦場にありながら沢田氏の眼は、その先に来たるべき「平和」を、見つめていたのかも知れない。

 

 34歳で銃弾に倒れられた沢田氏には、年上の愛妻・サタさんがおられた。

 サタさんもまた写真家であり、氏とは同志的な間柄だった。

 そして92歳で今も健在であるサタさんはベトナムを訪れ、沢田氏が撮るのを熱望されていた、平和になったベトナムの子ども

たちの笑顔にカメラを向けられる。

 そして、「この笑顔を、沢田にこそ見せたかった!」と、しみじみと語られた。

 私は、沢田ご夫妻の人間性の素晴らしさに、心から感動した。

 

 久しぶりに行った展覧会だったけれど、心が満たされ、全く疲れることはなかった。