“NHKクローズアップ現代”が≪山口哲氏≫を取り上げたのは、私たちが氏の殺害の衝撃の中で呆然としていた12月10日のことだった。
(中村哲氏は、2019年12月4日アフガニスタンのジャララバードで何者かによって射殺された。)
中村哲氏のことは、それまでのテレビ報道などである程度知ってはいたけれど、今回の報道で、山口氏が大国相手に一人、アフガンなどの
恵まれぬ人々を助けるために、独創的な方法で妥協なく闘われた姿を知り、改めて彼の人間性の素晴らしさが心に沁みた。
私自身の記憶をはっきりさせるためにも、“クローズアップ現代”で語られた彼の活動のあらましを、書いておきたいと思う。
中村氏は、<1983年>に“ペシャワール会”を設立し、パキスタン・アフガニスタンで活動を開始される。
医者である中村氏は、当初は医療支援を中心に活動されるが、次第にその活動に、限界を感じられるようになる。
アフガニスタンには、医療以前の問題(水や食料が無いなど)で命を落とす子どもたちが多くいたからだ。
その問題を解決しなければ、アフガンの人々に健康な暮らしなどおとずれることはないと、<2003年>からは、クナール川から砂漠に
用水路を引いて田畑をつくるという、困難で壮大な≪緑の大地計画≫を開始されることになる。
しかし、それに先立って、<2001年9月11日>にはあの≪アメリカ同時多発テロ≫が起こり、ブッシュ大統領が「テロの撲滅」を叫んで、
アフガニスタンなどに激しい空爆を行うことになる。
中村氏はジャララバードからの緊急の電話でその報を知り、その後のアメリカをはじめとした世界の動きについて次のように書いて(ペ
シャワール会会報)、強い疑問と激しい抗議の姿勢を、示されている。
(当時の中村さん。眼光鋭い。)
「テレビが未知の国“アフガニスタン”を騒々しく報道する。
ブッシュ大統領が『強いアメリカ』を叫んで報復の雄叫びをあげ、米国人が喝采する。
瀕死の小国に、世界中の超大国が束になり、果たして何を守ろうとするのか、素朴な疑問である。」
そして、次のようにも語られている。
「アフガン問題とは 政治や軍事問題ではなく パンと水の問題である」
「“人々の人権を守るために”と、空爆で人々を殺す。果ては、“世界平和”のために戦争をするという。いったい何を何から守るのか、
こんな偽善と茶番が長続きするはずはない。」
「武力ではテロは断ち切れない。 その根底にある貧困の解決こそ肝要」
9.11の後、日本も多国籍軍の活動に加わるべきだという考えのもと、日本政府は、多くの国民の反対の声を無視して、自衛隊を給油
活動に従事させる。
それに対し中村氏は次のように語られた。
「 “日本だけが何もしないでよいのか、国際的な孤児になる”ということを耳にします。だが今熟考すべきは、“まず何をしたらいけない
か”です。民衆の半分が飢えている状態を放置して、“国際協調”も“対テロ戦争”も、うつろに響きます。」
「必要なのは、憎しみの共有ではない。」と。
案の定、自衛隊が給油活動に参加したことによって、今までの日本人に対するアフガンの人々の信頼は揺らぎ、中村さんたちも攻撃の
対象になる危険が増えてきた。
そこで今までは車に日の丸を付けていたのに、攻撃の危険を回避するため、日の丸を消さざるを得なかった。
日の丸のマークのある車
安全のために、消された日の丸
そんな中、2008年8月に悲劇が起きる。
5年にわたり中村さんと行動を共にした仲間・伊藤和也さん(31歳)が、武装勢力によって殺されたのだ。
中村さんの悲しみは当然深かったが、彼は次のように述べて、決然と、活動の継続を宣言される。
「今必要なのは、憎しみの共有ではありません。憤りと悲しみを、友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓い、心から祈
ります。」
棺の中の伊藤さんに敬礼される中村氏
用水路が完成した後、用水路が見える農場に建てられた、伊藤和也さんの功績をたたえる碑
そしてその後もアメリカは空爆を継続。 誤爆も相次ぎ、民間人の死者が急増する。
タリバンは爆弾テロで対抗し、治安はいっそう悪化していく。
中村さんたちの作業地の上空を盛んに米軍のヘリコプターが過ぎていき、機銃掃射されることもあった。
中村氏の言葉…
「彼らは 殺すために 空を飛び、 我々は 生きるために 地面を掘る」
「彼らは いかめしい重装備、 我々は 埃だらけのシャツ一枚だ」
「彼らには分からぬ幸せと喜びが 地上にはある」
そして<2010年>、着工から7年の歳月を経て、総延長25.5キロの用水路が完成した。
かつて「死の谷」と呼ばれた干からびた土地が、「緑の大地」へと姿を変えた。
「死の谷」と呼ばれた土地
甦った「緑の大地」
ふるさとを離れていた人たちが次々と戻りはじめ、大地の恵みがはぐくまれていった。
子どもたちは水で遊び戯れ、大人たちは収穫の喜びをかみしめる。
そして、ある老人は、次のように語った。
しかし、<2014年>、国際部隊の大部分がアフガニスタンから撤退し、力の空白が生じてテロが横行するという、悲しい事態が生じる。
中村さんの身にも、いよいよ危険が迫ってくる。
それでも中村さんはアフガニスタンに残り、住民とともに、豊かな土地づくりに邁進されていく。
~中村さんのことば~
「アフガニスタンは40年間戦争をしています。 が、今は戦争している暇はない。敵も味方も一緒になって、アフガニスタンの国土を回復
する時期だ。できるだけ多く緑を増やし砂漠を克服して、人々が暮らせる空間を広げること、これはやって絶対できない課題ではない。」
そして、今年10月の中村さんの姿。 相変わらずクレーン車(フロントガラスに銃弾の跡がある)を操縦して作業されている。
同時に10月には一旦帰国し、アフガンの現状を報告されてもいる。
「現在のアフガンの治安は、非常に悪い」と。
十分に警戒し、警備の人も同行させている中だったのに、12月4日、中村氏は銃撃され帰らぬ人となられた。
現地のある男性は語る。
男性は上の写真のことばに続けて…
「私はとても悔しくて悲しいです。彼にはとてもお世話になっていたので。」
「残った仕事を自分たちで進めていきたいと思います。」
中村氏自身も、自分がいなくなっても仕事が滞らないように、職業訓練校を開き、下のように呼びかけられていた。
1983年から36年の長きに亘り、貧しい人々・恵まれぬ人々に寄り添い、彼らの幸せのために闘ってこられた中村哲氏。
こんな人は滅多にいるものではない。 まさに、稀有の人だ。
ペシャワール会の方々は、悲しみの中でも、中村氏がやろうとされていたことの全てを、受け継いでやることを表明されている。
中村氏が信じてこられたように、中村氏の思いは、いつか必ず実現するに違いないと、私も信じている。