のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

(若かりしころ心揺さぶられた)原爆の詩を2・3篇

2019-08-28 16:30:12 | 日記

 8月9日の長崎平和祈念式典で、田上長崎市長が「平和宣言」の冒頭で引用された(当時17歳だった女学生が作られた)詩を聞きながら、

私は深く感動していた。(そのことはブログにも書いた。)

 それと同時に私は、私がまだ若く、これからの社会はいかにあるべきかなどということを、青臭くも真剣に考えていた頃に出遭った≪原爆

の詩≫の幾篇かを思い出していた。

 私は、持っていた詩の本を本箱から取り出し、それらの詩を読み返してみた。

 そしてそれらの詩が、あの頃から50年くらいは経っているのに、全く色褪せることなく、今の私に迫ってくるのを感じた。

 ここに、私が一番好きな詩を3篇、書いておくことにします。

 

                峠 三吉  『原爆詩集』 より    

                       

               ちちをかえせ ははをかえせ

               としよりをかえせ

               こどもをかえせ

 

               わたしをかえせ わたしにつながる

               にんげんをかえせ

 

               にんげんの にんげんのよのあるかぎり

               くずれぬへいわを

               平和をかえせ

 

 

                     仮繃帯所にて

               あなたたち

               泣いても涙のでどころのない

               わめいても言葉になる唇のない

               もがこうにもつかむ手指の皮膚のない

               あなたたち

 

               血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ

               糸のように塞いだ眼をしろく光らせ

               あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ

               恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが

               ああみんなさきほどまでは愛らしい

               女学生だったことを

               たれがほんとうと思えよう

 

               焼け爛れたヒロシマの

               うす暗くゆらめく焔のなかから

               あなたでなくなったあなたたちが

               つぎつぎととび出し這い出し

               この草地にたどりついて

               ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める

 

               何故こんな目に遭わねばならぬのか

               なぜこんなめにあわねばならぬのか

               何の為に

               なんのために

               そしてあなたたちは

               すでに自分がどんなすがたで

               にんげんから遠いものにされはてて

               しまっているかを知らない

 

               ただ思っている

               あなたたちはおもっている

               今朝がたのまでの父を母を弟を妹を

               (いま遭ったってたれがあなたとしりえよう)

               そして眠り起きごはんをたべた家のことを

               (一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)

   

               おもっているおもっている

               つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって

               おもっている

               かつて娘だった

               にんげんのむすめだった日を

 

                      生ましめんかな 

                                   栗原貞子

              こわれたビルディングの地下室の夜だった。

              原子爆弾の負傷者たちは

              ローソク1本ない暗い地下室を

              うずめて、いっぱいだった。

              生ぐさい血の匂い、死臭。

              汗くさい人いきれ、うめきごえ

              その中から不思議な声が聞こえてきた。

              「赤ん坊が生まれる」というのだ。

              この地獄のような地下室で

              今、若い女が産気づいているのだ。

 

              マッチ1本ないくらがりで

              どうしたらいいのだろう

              人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

              と、「私が産婆です。私が生ませましょう」

              と言ったのは

              さっきまでうめいていた重症者だ。

 

              かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。

              かくてあかつきを待たずに産婆は血まみれのまま死んだ。

 

              生ましめんかな

              生ましめんかな

              己(オノ)が命捨つとも

 

 

 これらの詩を引用しここに書き連ねることは、単なる自己満足かも知れませんが、どうぞお許しください。

 

 下に、最近の我が家のベランダの花(いつもと変わり映えしませんが)を、載せさせていただきます。

                

 

 

               

 

 

                

 

               

 

 

 

 

 

 

 

 

 


北海道・東北端、砂州の上に広がる≪ワッカ原生花園≫

2019-08-27 18:25:55 | 日記

 ずい分前の「さわやか自然百景」(NHKの番組)で、私は、≪ワッカ原生花園≫という名まえの「花園」のことを、初めて知った。

 ワッカ原生花園は、私も名まえだけは知っている『サロマ湖』と、外洋・「オホーツク海」の間に、長い年月をかけてつくり上げられた細長

い『砂州(サス)』の上の≪花園≫なのだそうだ。

 昔の歌で、なんかロマンと懐かしさを抱いていた、サロマ湖。

 私の中でサロマ湖は、歌の中だけの素敵な湖で、なんか現実味のない存在だった……この番組を見るまでは。

 けれど、サロマ湖の北には、長い年月の積み重ねを経て、長い砂州ができ、しかもそこに草木が根付き、草花や鳥などの楽園ができて

いるのだ。

 あんな北の果ての極寒の地だというのに!

 私は驚きと喜びを禁じ得なかった。

              

 

                 

 

              

 

              

 

              

 

 

 6月の外洋の砂地には、「ハマニガナ」という黄色い花が咲いている。

 この花は、強い風にさらわれないように、地中深く根を張り、茎も地中をはわせていて、地上には、花と葉っぱだけを出しているのだ

そうだ。

 厳しい環境の中で育つ草花の知恵って、ホントに凄いなあ!と感心する。

                

 

              

 

 

 次は、「ハマベンケイソウ」という、1センチほどの小さな花。

 この花は、肉厚な葉っぱの中に水分を溜めこみ、乾燥から身を守っているのだそうだ。 

              

 

 

 ワッカ原生花園には、300種以上の草花が見られるそうだが、この時期(6月ごろ)に咲いている花の代表として、二つの花が紹介され

ていた。

 一つ目は、「エゾスカシユリ」で、二つ目は、「ムシャリンドウ」。

                 

 

             

             「エゾスカシユリ」はユリの中では珍しく、空を向いて花を付ける。

 

              

                 「ムシャリンドウ」は、絶滅が心配される花だそうだ。

 

 

 そして原生花園には、花が咲き始めると、いろんな鳥たちがやってくる。

 (写真がうまく撮れてなくてスミマセン。)

                 

                          「ノビタキ」

 

           

                         「オオジュリン」

 

           

             「コヨシキリ」 (草の先端に止まって風に揺られていた。)

 

           

                        「ベニマシコ」

 

 

 また鳥の中には、原生花園の環境を上手く利用して、子育てする鳥もいる。

 その例としてあげられていたのが…「ノゴマ」。

           

                胸元がオレンジ色をしているのが、「ノゴマ」の雄

 

 「ノゴマ」は、この頃盛りを迎える「ハマナス」の根元に巣を作って、子育てをするのだそうだ。

           

               

 咲き誇るハマナスには、いろんな虫たちが集まってくる。それは、ノゴマとその雛のいい餌になる。

 しかも、バラ科のハマナスには大きなトゲがあり、そのトゲが、雛を襲う動物たちを遠ざける。

                

 

             

 

 

 ノゴマの親鳥は、せっせと虫たちを捕らえては巣に運び、雛を育てる。 (上が雄、下が雌のノゴマ)

             

 

             

 

 

 雨が降る日があっても、ノゴマの親鳥は雨に打たれながら、餌の虫を探し、巣に運ぶ。

 その姿にも心打たれたが、雨で濡れそぼつ巣の中の雛の体温が下がらないように、上から覆いかぶさって雛を守る母鳥の姿には、より

心を揺さぶられた。

              

 

 

 サロマ湖の岸部にも、いろんな花が咲いている。

 しかし、サロマ湖はオホーツク海とつながった汽水湖。

 そこに育つ花は、いずれも塩分に強い花たちだそうだ。

             

                塩気を含んだ湿地に育つ、「エゾツルキンバイ」

 

             

                満ちてきた潮の中でも大丈夫な、「ウミミドリ」

 

 

 ある晴れた日、ノビタキの幼鳥が姿を現わした。

              

 

 今はまだ親鳥に餌をもらっているけれど、もうしばらくすると独立し、秋になると親鳥とともに南に渡っていくのだそうだ。

 

 私は自分がコンクリートジャングルで暮らしている分、自然をテーマにしたテレビ番組はできるだけ見るようにしている。

 そして見る度に、自然の摂理の素晴らしさ、地上に暮らす生き物たち(動物も植物も)の、自然に適合したしなやかな生き方、子孫を残す

ことへの貪欲なまでの努力に、心を動かされてきた。

 そしてその感動を、今回の≪ワッカ原生花園≫でも味わうことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

 

 

 


『 ヒロシマ・ナガサキ 』 そして ≪終戦の日≫ を経て

2019-08-18 19:34:29 | 日記

 <長崎平和祈念式典>の≪平和宣言≫で、壇上に上がられた「田上・長崎市長」は、静かにこう口を切られた。

 「目を閉じて聴いてください」と。

               

 

 そして、次の詩を静かに読み始められた。

          幾千の人の手足がふきとび

          腸(ハラ)わたが流れ出て 人の体にうじ虫がわいた

          息ある者は肉親をさがしもとめて

          死がいを見つけ そして焼いた

          人間を焼く煙が立ちのぼり

          罪なき人の血が流れて 浦上川を赤くそめた

          ケロイドだけを残して やっと戦争が終わった

          だけど……

          父も母も もういない

          兄も妹も もどってはこない

          人は忘れやすく弱いものだから

          あやまちをくり返す

          だけど……

          このことだけは忘れてはならない

          このことだけはくり返してはならない

          どんなことがあっても…

 

 田上市長は、「これは、1945年8月9日午前11時2分、17歳の時に原子爆弾によって家族を失い、自らも大けがを負った女性がつづっ

た詩です。」と、説明された。

 私はこの詩を聴きながら、改めて原爆がもたらした惨状を思い起こし、女性の「このことだけは忘れてはならない このことだけはくり返

してはならない」という決意に、深く共感していた。

 しかし、原水爆禁止という人類の切なる願いにもかかわらず、今の世界の情勢は、これに逆行する動きも見られ、核兵器禁止運動にとっ

ては困難な状況にあるとも言える。

 そんな困難さに対して田上市長は、力強くこうも語られた。

      「私たち一人ひとりの力は、『微力』ではあっても、決して『無力』ではないのです。」

 このことばは、ともすると悲観的になり、無気力になりやすい私にとっては、力強い励ましになった。

 

 田上市長の平和宣言に続いて、被爆者代表として≪平和への誓い≫を述べられたのは、今年85歳になられた「山脇佳朗」氏だった。

              

 

               

 

 

 私はほぼ毎年<長崎平和祈念式典>をテレビで見ているが、式典の中の被爆者代表の≪平和への誓い≫を聞く度に、いつも深い感

動を覚えてきた。

 そして、今年も全くそうだった!

 山脇氏が語られた被爆時の体験、なかでも、工場内で爆死されたお父さんを兄弟で荼毘にふそうとしながらそれも叶わなかった様を語ら

れたくだりは、氏が、感情的にならずに淡々と語られただけに、余計に、原爆のもたらすむごさを生々しく表して、聞く者の心をえぐった。

 そして山脇氏のすごさは、氏が60歳になってから英語の勉強を始められ、その英語力で世界の人々に原爆の惨状を伝え、核廃絶をを

訴えられていることだ。

 その山脇氏が最後に、安倍総理の方に向きを変え総理の目を見て、次のように静かにキッパリと語られた。

  「私はこの場で安倍総理にお願いしたい。

  被爆者が生きている間に、世界で唯一の被爆国として、あらゆる核保有国に、核兵器をなくそうと働きかけてください。

  この問題だけは、アメリカに追従することなく~(中略)~毅然とした態度を示してください。

  もちろん私も、死ぬまで、核兵器廃絶を訴え続けます。」

 そのあと山脇氏は、戦争・原爆という悲惨な体験をした日本の、今後のあるべき姿を述べられ、世界の人々に英語で、核兵器廃絶を訴え

られて、平和への誓いを終わられた。

 会場からは期せずして大きな拍手が沸き起こった。

 

 長崎平和祈念式典での、田上市長の≪平和宣言≫と山脇氏の≪平和への誓い≫は、毎日新聞にも肯定的に大きく報道された。  

              

 

 

 そして、8月15日は終戦記念日。

 最近マスコミの報道に危惧を抱いている私だけれど、原爆の日から終戦記念日にかけての報道は、(私が購読している毎日新聞を見る

限り)戦争の問題を積極的に取り上げて、報道していたように思う。

 テレビ(NHK)でも、太平洋戦争の悲惨さや、今まで知られていなかった事実を掘り起こして伝える番組が、沢山組まれたように思う。

 下の毎日新聞で報道された、絞首刑になったBC級戦犯の方が子どもに宛てて書かれた遺書のことは、この新聞記事を見るまで、私は

全く知らなかった。

 (このことについても書きたいけれど、今は疲れてきて、限界なので止めときます。)

                  

 

 

 そして終戦の日に、新天皇が述べられたことばには、過去への「深い反省」の上にたって、平和を希求する熱い気持ちが盛り込まれた。

                 

 

 今の日本と世界の政治情勢は、危惧すべき問題を多くはらんでいるけれど、戦争のある意味責任者でもあった昭和天皇の後継の、

平成天皇と新天皇が、苦しい過去を顧みて「不戦・平和」の道を目指されていることを、今の政治家たちはよくよく考えてほしいものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          

         


ビルの上の花火 ≪淀川花火大会≫

2019-08-16 10:45:27 | 日記

 ずい分体力が無くなったなあ!とつくづく感じる。

 以前は淀川花火大会と聞けば、早くから淀川の堤防に上がり、少しでもいい場所を求めて、人混みの中を歩いたものだった。

 去年は、3月末に退院はしたものの体調がまだまだ思わしくなかったので、花火を見るのはあっさり諦めた。

 1年経った今年は、昨年よりはずい分体調も回復しているけれど、夜の人混みの中を歩くのにはやっぱり不安があった。

 どうしようかと迷っていたが、やっぱり花火を見たい気持ちの方が強く、花火開始の時間(7時40分)の少し前に部屋を出た。

 そしてエレベーターで下に降りようとボタンを押したとき、「もしかしたら上の階で花火を見られるのでは?」という考えが、頭に浮かんだ。

 そこでモノは試しと、慌てて上に行くボタンを押し直した。

 最上階の11階に上がってみると、淀川に面した狭いバルコニーに、女性の方が一人、携帯用の椅子に座って花火見物に備えておられた。

 私が「下の階の者ですけど」と言うと、その方も「私も6階ですから、どうぞ!」と言ってくださった。

 私はその方の傍に立って、花火の開始を待った。

 待ちながら、向かいに見えるマンションの灯りを撮ってみたりした。(手振れで、灯りがハッキリしませんが…)

                  

               

 

               

 そのうちに、見物の方が一人増え二人増えたりしたけれど、窮屈すぎる程でもなかったので、そのままそこで見せてもらうことにした。

 そしていよいよ、最初の一発が上がった。 続いて、いろんな色の花火が打ち上げられた。

              

 

                  

 

               

 

 

 マンションからの花火見物は、堤防に行くよりずっと楽だが、その分、花火までの距離はだいぶ遠くなる。

 そして何より問題なのは、淀川との間に高いビルが立ち並び、淀川が全く見えないばかりか、花火がビルの上から上がっているように

見えるのだ。 

 まあ、全てが上手くいくことはないさ!と自分を納得させ、ビルの上の花火を撮り続けた。

 以下、お恥ずかしい写真ばかりですが、淀川の花火を見ることができた記念として、載せさせていただきます。

                     

                   ビルが火事だ!

 

                       

 

 

                 

 

 

              

 

                

 

                 

 

           

       

              

 

             

 

             

 

            

 

             

 

            

 

 

                    

 

 

              

 

               

 

 

              

 

               

 

               

 

                 

 

 

            

 

             

 

             

 

             

 

              

 

 

            

 

            

 

                

 

 

            

 

              

 

 

               

 

 

            

 

 

             

 

 

           

 

 

            

 

            

 

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

 

            

   

     

       


第68回 関西平和美術展

2019-08-12 13:52:21 | 日記

 8月1日、学生時代の友人Oさん・Mさんと、<第68回 関西美術展>を観に行った。 (Oさんはこの展覧会に長らく出展されている。)

 この展覧会行きは、作品鑑賞後のお喋りが、プラスの大きなお楽しみだ。

 この日は、会場の「大阪市立美術館」の展示場で、11時に落ち合うことになっていた。

 私は地下鉄天王寺で降りるとJR天王寺駅構内を横切り、美術館目指して熱暑の中を歩いていった。

 途中、オレンジ色の花らしきものをいっぱいつけた木が、光を受けて立っていた。

 私は初め「ハナザクロかしら?」と思っていたが、近づいてみるとそれは花ではなく、見たことのない実だった。

                    

 

 

 美術館の向かいには、深い緑の上に、通天閣がてっぺんだけを覗かせていた。

               

 

                

 

 

 平和美術展の会場は、美術館の地下にある。

              

 

 

 私が会場に着くと、Oさんはもう到着されていた。

 Mさんも程なくして来られ、私たちを見つけると、「駅からここまで、こんなに遠かったかしら!」と、流れる汗を拭いながら言われた。

 私は「そう、そう!歳を取ると、昔は何でもなかった道が遠く感じられるのよねえ!」と言って、みんなで顔を見合わせて苦笑した。

 その後私たちは、入り口の方から順番に、作品を鑑賞していった。(私は自分の気に入った作品を写真に撮らせてもらいながら)

 

 まず≪絵画の部≫から

              

                           「老いて充つる」

 

             

               「歩く」 (この作品は横長で、写真には右半分しか入らなかった)

 

                    

                  同じ方の絵画2点 「独りの刻」(上)と「物との対話」(下) 左は「独りの刻」のアップ

 

                  

                    (これも同じ方の絵画) 左が「神秘なレモン」 右が「仲良し3兄弟」

 

 

               

                          「気まぐれな地図ーパリー」

 

              

                             「時間と空間」

 

 

                     

                      「一休み」                    「オキナワスズメウリ」(照明が入ってしまいました)

 

 

                         

                「未来しかないの!」 (版画)                      「今日も元気」

 

 

             

                               「翳り」

 

 

                 

                                   連作・「親父」 のうちの2枚

 

 

 ≪書≫から2点

                

 

 

 

 

 ≪写真≫

              

                            「不屈の人」

 

 

                  

                                「希望の瞳」 (右はアップ)

 

 

             

                             「浄土の朝」

 

 

            

                            「幻想の大地」

 

 

           

                             「新春の暁月」

 

 

           

                        「夜明けの詩(奄美大島)」

 

 

 最後に、≪ちぎり絵≫≪彫刻≫

               

                      「雅び」                                    「ひまわり」

 

 

             

                              「見つめる女」

 

 1時間ちょっと作品を鑑賞したあと、私たちは再び熱暑の道を、天王寺地下街へと急いだ。

 そして地下街のレストラン&カフェで、食事とお茶をしながら、5時過ぎまでお喋りした。

 心置きないお喋りの楽しさを、存分に味わいながら。

 今回も、楽しい一日となりました。

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 


≪田沢湖≫を愛し、そこで暮らし続ける人たち (NHK <小さな旅> )

2019-08-09 16:09:09 | 日記

 私の好きな番組のひとつ…「小さな旅」。

 今回は、山本哲也アナウンサーが、秋田県・田沢湖を訪ねられた。

                

 

                    

 

 

 「田沢湖」は、太古の昔噴火によって生まれた、(水深423メートルの)日本で一番深い湖なのだそうだ。

                

 

 

 そこには年間200万人の人が訪れ、田沢湖のブルーの水と周囲の豊かな自然を楽しまれている。

               

 

 

 田沢湖を訪れその水の青さに魅了された山本アナウンサーは、湖畔を巡って<田沢湖を愛してやまない3人の方>に出会わ

れる。


 <その1> 田沢湖畔を颯爽と走る、御年81ロードバイクインストラクター土屋朋子さん。

              

                  ロードライダー姿の土屋朋子さん(81歳)

 

  安保闘争まっ盛りの1960年に大学を卒業された土屋さんは、、大手広告代理店に就職され、女性の社会進出の先駆けとなら

れた。

              

                       若き日の土屋さん

 

 その後、仕事先で出会った「ツール・ド・フランス」に魅せられて40代で会社を立ち上げ、国内の自転車レースの普及に努められ

たのだそうだ。

 そして70歳、仕事を辞められた土屋さんが、終の棲家として居を構えられたのが、田沢湖畔だった。

 3年前に夫を亡くされた土屋さんだが、今も家の前の畑で野菜などを作られ、田沢湖の自然を満喫して暮らされている。

            

 

              

         「これからも、田沢湖に感謝しながら、田沢湖から多くのものを戴きながら、暮らしていきたい」

 

 

 そして今、土屋さんの周りには、かつての講習会で、ロードライダーと土屋さんの魅力にはまった女性ライダーたちが、東京周辺

から集まってこられて、ツーリングを楽しんでおられるのだそうだ。

            

 

            

           アッパレ!強くしなやかに生きる、女性ライダー土屋さんとその仲間たち

 

 

 <その2> 「神秘のブルー」の“光”と“影”……絶滅した「クニマス」に、今もあこがれ続ける三浦久さん

  次に山本アナが向かわれたのが、一軒の茶屋。

  そこには、「きりたんぽ」ならぬ「みそたんぽ」の幟が、ひるがえっていた。

            

 

              

              昔から子どものおやつだった、素朴な「みそたんぽ」

 

 

 その茶店の主が、三浦久さんだった。

              

 

 

 久さんが言われるには、以前田沢湖には多くの魚が住んでいた。

 中でも、田沢湖にしかいない「クニマス」は、とても美味しく、高級魚として、昔は将軍にも献上されたという。

 そこで田沢湖畔の人たちは、代々漁師として暮らしを立て、久さんのところも例外ではなかった。

 (昔の写真で、ずい分ボヤケテますが…)

             

             写真ではちっとも美味しく見えない…「クニマス」(涙)

 

            

 

 

 ところが、日本が戦争に突き進んだ昭和15年、電力の不足を補おうと、国策で、田沢湖の上流にダムが造られることになった。

 そしてダムが造られると、上流から強い酸性の水が、ドッと田沢湖に流れ込んできた。

            

 

              

                   田沢湖に流れ込む「酸性の水」

 

 酸性の水には、生き物は(もちろん魚も)住めない。1年足らずで田沢湖の魚は絶滅したという。

 残ったのは、生き物がいなくなった湖の、透明で青く澄みきった水。 神秘の「田沢湖ブルー」だった。

 しかし一方では、魚が住めなくなった田沢湖では、当然ながら漁はできない。

 みんなが漁師をやめざるを得なかったが、三浦家も同じで、久さんの祖父の代で泣く泣く漁師をやめ、茶屋を始められたのだ

そうだ。

 まさに、「神秘の田沢湖ブルー」の、“光”と“影” だ。

 久さんは今、田沢湖にしかいなかった「クニマス」という魚の存在と、「自然は一旦破壊すると取り返しがつかない」ことを、若い

世代に伝えていきたいと、講演会などを開かれているそうだ。

            

 

 

 <その3> 故郷に居残り続け、故郷の歩みをフィルムに撮り続ける、難波和夫さん

  最後に、田沢湖の遊覧船の上で山本アナが出会われたのが、難波和夫さんだ。

            

 

 

              

 

 

 難波さんは、田沢湖から一山越した村で農家を営まれていたが、高度経済成長や減反の影響で、農業は壊滅的な状況だった。

 そこで多くの人々が出稼ぎに出たり、故郷を捨てて都会に移り住んだりしたが、何故か難波さんは故郷を離れられなかった。

 彼は消防署に職を得、仕事をしつつ、人々の暮らしと変わりゆく故郷の風景(特に田沢湖の)を、写真で残していきたいと思わ

れる。

 下が、彼の撮られた写真の一部です。(テレビ画面の筋が入って、醜い写真になってしまいました。ゴメンナサイ。)

            

 

           

             護岸工事のため、この桜の風景も無くなったそうだ。

 

            

 

           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


こんなに素敵な “アーティスト夫婦” がいらっしゃったなんて!

2019-08-02 16:40:04 | 日記

 瀬戸の夕凪の中、老夫婦が散歩されている。 しっかりと手をつないで。

 男性は、美術作家・高橋秀さん(89歳)、女性は、布貼り絵作家の藤田桜さん(94歳)だ。

                  

 

                  

 

 


 ここは、岡山県倉敷市沙美海岸。 この海岸の向かいに、お二人のアトリエがある。

                       

               

 

 このアトリエ(右の建物)で夫・秀さんは美術作品の制作に余念が無く、妻・桜さんは、住居(左側の建物)のリビングルームで、

布を使った作品(布貼り絵)の制作を楽しんでおられる。

             

 

                           

 

 

 お二人の、比較的最近の作品。

               

                         高橋秀 「黄金の稜」 (2006)

 

                

                     藤田桜 布貼り絵 「春の独楽」(2016)

 

                

                          同上 「桜」 (2013)

                

                

                         同上 「とうがら峠」 (2008)

 

               

 

 お二人が結婚されたのは、今から61年前の1958年のこと。

 当時、福山から上京された秀さんは、アルバイトをしながら絵画の勉強をしておられ、桜さんは既に仕事に就かれていた。

 下が、結婚当時のお二人の写真。 (桜さんはふくよかで可愛く、秀さんはとってもハンサム!)

               

 

 

 結婚後程なくの秀さんの作品。 もちろんモデルは桜さん。

               

 

                 

 

 

 そして1961年、秀さんは、「月の道」によって、新人画家の登竜門・安井曾太郎賞を受賞される。

                  

                          「月の道」 (1961)

 

 これで画家としての地位が保証された秀さんだが、彼は1963年、突如日本を出てローマに向かわれる。

 その時の心境について、彼は次のように語られている。

  「安井賞を受賞した自分に対して、画壇・画商が要求したのは、「月の道」ふうの作品の制作であり、それでは自分の創作の可

  能性が狭められ制限されると、強い危機感を感じた。」

 その言葉を聞いて私は、秀さんが現状に安住しないで創造の道を追求していく、いかにも芸術家らしい芸術家だと感じた。

 

 一方桜さんは、結婚前から仕事をされていて、その中でも、絵本・『よいこのくに』の表紙を40年近くに亘って担当された。

                 

                          『よいこのくに』 創刊号

 

                 

 

 

 とにかく日本を脱出することだけを考えてローマに赴かれた秀さん(夫妻)だが、当時のヨーロッパの芸術家たちの「自分の考え

や主張・思いを、荒々しいまでに追求する姿勢」に共感して、自らの道を真剣に模索し追求していかれるようになる。

 そして、当初は≪エロスの画家・高橋秀≫として世界から高く評価され、80年代になってその作品は巨大化していく。

               

                           「鏡の中で」 (1976)

  

              

                      大きな作品2つ (共に、1989年)

 

 

 そして1993年には、秀さんのローマ滞在30年を記念して、ローマ国立近代美術館で大々的な個展が開かれた。

              

 

 

 一方桜さんは、以前から担当されていた『よいこのくに』の表紙を引き続き描かれる一方で、「布貼り絵」という新しいジャンルを

開拓される。

 その「布貼り絵」で作られた『ピノッキオ』の絵本は、「布貼り絵」という方法の新鮮さと技術の高さによって、高く評価されている。

             

 

              

 

              

 

              

 

              

 

 

 

 41年間に亘ってローマで活躍されたお二人だが、2004年にローマを後にして帰国され、上記のアトリエに移り住まれた。

 そしてそこでそれぞれに創作活動をされるのだが、それだけでなく、アトリエの2階を子どもたちに開放してアート教室を開か

れたり、海外で芸術を学びたいと思う若い人たちのために、「秀桜基金」を設立して留学費を援助されたり、などという活動もさ

れている。 ステキだなあ!

              

 

             

 

 

 そして今、東京・世田谷美術館で、お二人のこれまでの作品を集めた展覧会が開かれている。

 その展覧会にも出展されている、お二人の最新作。

             

                      桜さん 「初夏のなかま」

 

            

                         秀さん 「環」

 

            

                   展覧会場を訪れられたお二人

 

 

 今お二人は、一日の終わりにグラスを交わしながら、「おめでとう!」と言い合われるのだそうだ。

 芸術家としてはもちろん、人間としても、豊かな人生を紡いでこられたお二人。

 お二人の61年の生活に、乾杯!

 そして、俳人でもある桜さんが詠まれた歌を最後に載せて、この長いブログを閉じます(^_^;)

              

 

            

                     「舫い船 睦ぶとも見え 浜おぼろ」